2015.01.08 Thursday

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    2015.02.02 Monday

    ステンドグラスを見に行く  戦時供出を免れるためいち早く地下倉庫に隠されたグラス(愛知県名古屋市)

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      文化のみち橦木館は、陶磁器商として活躍した井元為三郎(1874−1945年)が、大正末期から昭和初期に建てた邸宅です。

      東区
      橦木町2丁目の閑静な住宅街にあります。

      大きく区画割りされた敷地に和館、洋館、東西2棟の蔵、茶室、庭園が遺されています。


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      この地域は明治初期から各種製造業が盛んでしたが、中でも輸出向けの陶磁器産業が中心でした。

      最盛期には日本の輸出陶磁器の8割近くが名古屋を経由して全世界に輸出されていました。

      井元為三郎は16歳で有田系の商店に入り、明治30(1897)年に24歳で独立、橦木町に隣接する飯田町に井元商店(現 井元産業株式会社)を構えます。


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      明治40年代にはサンフランシスコに貿易会社を設立。大正に入るとシンガポールやビルマにも進出して陶磁器以外に医薬品や雑貨も扱うようになります。


      大正13(1924)年、名古屋陶磁器貿易商工同業組合の組合長に就任するなど陶磁器業界の重鎮として活躍しました。



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      そうして蓄えられた財を基に大正末期、為三郎が一番力に溢れていた時期に井元邸は建てられました。



                 Dsc_0524                            (洋館玄関のステンドグラス)


      井元邸のステンドグラスは、洋館玄関、応接室、洗面所、和館への入口欄間、そして洋館2階娯楽室に入れられました。


      Dsc_0525               (洗面所の欄間にあたる場所に設置されたステンドグラス)


      ステンドグラス研究家の田辺千代さんは「井元邸のスティンドグラスは、ドイツ、オーストリアに興った分離派(セセッション)の影響を受けたデザインとアメリ カン・アールデコを彷彿とさせるデザインが、実にさりげなく使われている。アメリカン・アールデコ様式意匠は昭和に入ると瞬く間に日本中に広まり、建築を はじめ室内装飾、装身具、日常生活用品等のあらゆるところに波及していった。橦木館のスティンドグラスは、この流行に先駆けた作品と言えよう」としています。



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      また、「橦木館に入れられたスティンドグラスの製作者は、宇野澤スティンド硝子工場草分けの職人梅澤鐡雄と思われ」るとしています。

       

      Dsc_0532                (水周り部分の各種のタイルにも注目です)


      為三郎の処世訓は「幸福は我が心にあり」で、好きなことを存分に行った豪放磊落(らいらく)な人物だったといいます。

      為三郎のそんな性格を垣間見せるエピソードがあります。



      Dsc_0540       (2階娯楽室とサンルームのステンドグラス。娯楽室にはビリヤードも置かれていたそうです)


      戦争が長引くにつれ昭和18(1943)年になると「家庭は小さな鉱山である」のふれ込みで、各家庭からの金属供出、回収が始まります。

       

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      最初は穴のあいたバケツ、 ナベ、カマなどが回収されたのですが、2回目以降は不用なもので無傷なナベ、カマなど、まだ使用出来るものまで供出するようになります。


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      家庭外でも、橋の欄干に使われている鉄材を取り外したり、ついにはお寺の梵鐘まで供出ということになっていきました。

                  

      Dsc_0549                 (応接室欄間に据えられたステンドグラス)


      井元邸ではこうした世の中の動きを察したのでしょう、いち早くステンドグラスを取り外し布で梱包し地下の物納庫に隠したそうです。


      ステンドグラスに使われている鉛は、すぐに鉄砲の弾丸に使用するべく供出するよう迫られるからです。



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      供出を拒んだりすると「非国民」の烙印が押され、村八分状態に追い込まれることから実質的に差し出さないということは不可能なことでした。



      Dsc_0554            (今ではなかなか見ることができなくなったガス窯戸と台所のタイル)


      拒む代わりにいち早く隠し込んで知らぬ顔をするなど豪放で磊落でなければなかなかそうはできなかった時代背景であったはずです。



      Dsc_0558                  (洋館と和館を分ける欄間にあるステンドグラス)


      井元邸の所有が市に移り、調査していたところ地下倉庫にステンドグラスが眠っているのが見つかり、窓などに嵌め込んで行くとぴったり落ち着いたと言います。

       

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      為三郎が陣頭指揮してステンドグラスを大切に梱包し、しまい込む姿が見えてくるようです。


      2015.02.01 Sunday

      ステンドグラスを見に行く  女優引退後、充実した生き方を送ったマダム貞奴の二葉御殿を彩ったグラス(愛知県名古屋市)

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        大正9(1920)年に東二葉町(現 東区白壁町)の小高い敷地に建てられた川上貞奴(さだやっこ、本名=貞、1871−1946年)の邸宅の2階から名古屋城や遠くには木曽御嶽山を望むことができたといいます。

        また中央線の車中からは、この洋館の赤い瓦が目に入ったそうです。


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        日本の女優第1号である川上貞奴が、明治44(1910)年に夫の川上音二郎が亡くなった後、大正7(1918)年から名古屋の東二葉町で、名古屋電
        会社、愛知電機鉄道会社の社長であった福沢桃介(1868−1938年)と新しい生活を始めます。


        Dsc_0469   (大広間に隣接する食堂に嵌入された槍が岳と高山植物を描いた図柄。桃介は木曽山脈=中央アルプスからの雪解け水を利用して木曽川水系に7カ所の発電所を建設しました)


        2人が名古屋市内で住んだ邸宅は「二葉御殿」と呼ばれ、2,000坪を超える敷地内に建てられた和洋折衷の建物は、桃介の事業の接待の場として使用されたのでしょうか、政財界など各方面の有力者が集うサロンとなりました。


        ここで貞奴は連日のようにやって来る大勢の客の応接をし、晩餐の手配に追われる傍ら川上絹布の経営者としての仕事もこなしました。


        Dsc_0476   (貞奴はダム工事の現場に桃介を訪ねることもあったといいます。こうした壮大なアルプスの光景も目にしていたに違いありません)


        また、電車で3時間かかる木曽のダム建設現場へ出かける桃介に同行することもあり、忙しくとも充実した日々の連続であったようです。

        貞奴は、幼い頃に生家が没落したことから芸者置屋の養女となり、やがて芸妓として座敷に上がりその才色兼備ぶりが話題となり、時の総理伊藤博文や元勲の西園寺公望などから贔屓にされ名実ともに日本一の芸妓になったといいます。


        Dsc_0477   (大広間に隣接する食堂に嵌入された槍が岳と高山植物を描いた図柄。桃介は南アルプスから雪解け水を利用して木曽川水系に7カ所の発電所を建設しました)


        当時、慶応義塾の学生であった福沢桃介と出会うのですが、馬術をしていた貞が野犬に襲われているのを桃介が追い払ったことが馴れ初めになったと言います。



        Dsc_0479   (コース料理の後の夜食に用意されるのは鯛茶漬けか鶏飯で、二葉御殿の名物として好評だったといいます。この槍が岳を描いたステンドグラスも創建当初からのものです)


        これをきっかけに2人は恋に落ちるのですが、1年後に桃介はかねてから婿入りすることになっていた福澤家の二女と結婚します。


        このため2人は
        長い別離を挟むそれぞれの道を歩みます。


        明治27(1894)年に自由民権運動の活動家で政治を風刺した「オッペケペー節」や壮士芝居で人気を得ていた川上音二郎と結婚します。


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        川上一座が興行のため渡ったアメリカ・サンフランシスコの公演で、女優「貞奴」として初めて舞台に立ちアメリカ各地で評判を得ました。


        また、同33(1900)年パリ万博で公演し空前の話題を呼び、フランス政府から勲章を授かるなど、「マダム貞奴」として一躍有名になります。


        この公演に彫刻家のロダンも招待されていて貞奴に魅了され彼女の彫刻を作りたいと申し出たそうですが、貞奴はロダンの名声を知らず時間がないとの理由で断ったというエピソードがあります。 


         

                  Dsc_0486           (ドイツ人画家のミュッラーが描いた川上貞奴来演を知らせる舞台衣装をまとった「サダ・ヤッコ」のポスター。1900年のパリ万博ポ スターの影響を受けて作られたとされるものです。パリではキモノ風の「ヤッコドレス」が流行り、ドビッシーやピカソは彼女の演技を絶賛し、フランス政府は オフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与しています)


        その後、貞はフランスに渡り現地の劇場や女優養成学校を視察して帰国、同41(1908)年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を東京・芝に創立しています。


        同44(1911)年に音二郎が病没します。遺志を継いで公演活動を続けますが演劇界や世間から反発を買い、貞奴は音二郎の7回忌を済ませた後、大々的な引退興行を打ち舞台から身を引きます。



        Dsc_0505   (創建当初からのステンドグラスがもう一つあります。2階にある桃介の書斎に嵌められたカエデをデザインしたものです。カエデは貞奴が好んだ樹木です)


        引退後の大正7(1918)年に名古屋・大曽根に輸出向け最上級の絹を生産販売する「川上絹布株式会社」を設立し、同9(1920)年に名古屋・東二葉町に居を構えます。


        貞奴はここで、 15歳の頃から旧知の仲であった福沢桃介とともに暮らすようになります。



        Dsc_0493   (昭和12年に売却された二葉御殿は翌年に大掛かりな改築がなされます。現在、この桃介が使用したという書斎も古い資料をもとに復元されています)


        川上絹布蠅砲蓮15、6歳から20歳まで、40〜50人の女工が働いていました。


        作業は45分続き、15分休むというスタイル。女工たちはみな、紺のセー ラー服に靴を履き、女学生のような格好で働いていたそうです。


        昼休みの運動にはテニスをし、工場の中にはプールまであったといいます。



        Dsc_0488   (座布団が見えますが、貞奴が経営した川上絹布工場で作られたものです。絹製品は品質が高く、フランスなど海外へ輸出されていました)


        また、全員が寮で生活をし、夜にはお茶、お花、和裁などの習い事、休日には演芸会などのリクリエーションを開いていました。


        厳しい労働と安い給料で酷使されていた当時の女工の待遇から考えると、夢のような生活を送ることのできる、まったく新しい会社だったのです。



                                                   Dsc_0497                  (2階へ上がる螺旋階段を照らすようにステンドグラスの照明燈があります)


           過ぎし昔の夢なれや   工女工女と一口に

           とかく世間のさげすみを   うけて口惜しき身なりしが

           文化進める大御代の   恵みの風に大道を

           なみせる古き習わしや   思想を漸く吹き払い


        川上絹布会社の社歌の一節です。



        Dsc_0500          (照明燈の現物が遺っていたことから幾つかのレプリカを造り設置しています)

        福澤桃介は大正期に木曽川水系に多くの発電所を建設し「電力王」の異名を取りました。

        幼少から神童と呼ばれる秀才で、慶応義塾に進みます。


        慶応義塾での優秀な成績から福沢家に知られることとなり、福沢諭吉
        (1835−1901年)の次女ふさの婿となる為、福沢家の養子となりました。


                 

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        明治20(1887)年にアメリカへ留学。帰国後、北海道炭礦汽船鉄道会社に入社するものの肺結核を患い退社、療養生活に入ります。


        日露戦争をきっかけに株で大成功し、財をなし、これを元手に事業家への道を歩み始めました。



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        大正2(1913)年、名古屋電燈株式会社の取締役に就任。電力会社を合併し、大同電力株式会社を設立しました。



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        社長として名古屋を拠点に木曽川水系の電力開発に乗り出し、名古屋の二葉御殿では、川上貞奴の協力のもとに政財界の接客を行い、事業の推進を図りました。



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        日本初のダム式発電である大井発電所など木曽川に7カ所の発電所を建設しました。


        電力王、経営の鬼才とも呼ばれた所以で、我国の産業界に大きな足跡を残しました。



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        大正15(1926)年、木曽川を堰き止める前代未聞の大井川発電所のダム建設事業が軌道に乗り出すと病気がちになった桃介は後進に道を譲り、自身は東京に戻り隠居の道を選びました。



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        貞奴も大正13(1924)年に設立した「川上児童楽劇園」の指導のため東京と名古屋を行き来する生活を送っていましたが、昭和12(1937)年になって2,000坪に及ぶ土地は分割して売却します。


        二葉御殿も洋館部分の一部は取り壊され、残る部分も一部改築されて新しい所有者の住宅となりました。


                  
                   Dsc_0454                                                   

        当時の記録によると、玉砂利の道を入って行くと車寄せの前にロータリーがあり、電気仕掛けの噴水やサーチライトもがあったようです。


        2,000坪を超える敷地に建てられた屋敷は「二葉御殿」と呼ばれ、赤い屋根、緑の芝生、水を湛えた噴水があり、園遊会に招かれた客の中にはあまりの豪華さに思わず声をあげる人もいたそうです。


        設計施工は、当時の洋風住宅専門会社の「あめりか屋」で、米国住宅のデザインを採り入れた和洋折衷の建物でした。

        東西に長い建物の東側は、洋風建築様式が採り入れられており、入口から奥の建物西側部分は和風の部屋となっていました。


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        名古屋市は、平成12(2000)年に建物の寄付を受け、解体保管の後、
        平成17(2005)年に「文化のみち二葉館」として東区橦木町3丁目に移築復元しました。
         

        解体保管材をできる限り使用し、当時の雰囲気を残すように配慮したといいます。



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        二葉御殿には数多くのステンドグラスが飾られました。そのステンドグラスの原画は桃介の義弟でデザイナーとして名の売れていた杉浦非水(1876−1965年)です。

        またステンドグラスの制作に当たったのは宇野澤スティンド硝子製作所でした。


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        応接間に飾られた「初夏」と題する作品です。現在はテラス扉になっています。

        シャクナゲ、アジサイ、ユリ、カキツバタなどの初夏に咲く花に交じって左手に見える赤色の花はモミジアオイです。モミジアオイは明治の初年にアメリカから日本に伝えられた植物で、貞奴はアメリカへ巡業した時にモミジアオイを見て好きになったようです。


                  Dsc_0459             
        それで非水に頼んで原画の中に入れてもらったのではないかと見られています。

        水辺にはバンが、タイサンボクの幹にはキツツキが描かれています。

        この「初夏」と題するステンドグラスは川上邸が分割されて売却された時、取り壊した洋館部分から移して改築された部分に転用しています。


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        さらにその後、木曽のゴルフ場へ移されます。

        そして、
        旧二葉御殿に平成17(2005)年に約70年の歳月を経て再び蘇りました。

        下は「踊り子」と題するステンドグラスで、復元されたものです。

        復原に当たったのは松本スティントグラス製作所で、創業者の松本三郎は宇野澤スティンド硝子工場で修業した後、昭和23(1948)年に工房を創設しました。


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        ステンドグラスの制作に当たったのは宇野澤スティンド硝子製作所で、その職人として志村 博(1901−1991年)がいました。

        生前、仕事に携わった志村の記憶から「踊り子」という作品があったことが判明します。「一人は竪琴を持って、真ん中の女の人はタンバリンを持って踊っていて、もう一人の人は確か笛を吹いていた」というのが志村の記憶でした。


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        復元のための資料収集していた松本スティントグラス製作所の松本一郎(1972年〜)さんは次のように語っています。

        「最初に2枚の古写真を見せられましたが、白黒でぼやけていたので誰かが踊っているのだが表情もわからないし、手の向きとか、奏でている楽器の種類も分からなかった。左の女性の持っているものは琴ではなくて、最初は琵琶だと思った」

        「踊り子の手の向きなどの検討が大変だった。また描くたびに足下の模様や上の模様もどんどん変わっていった。最後まで悩んだのは中央の踊り子の表情だった」


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        杉浦非水の画集を参考にいろいろな顔のスケッチを作成して検討し、最終決定したのは原寸図を描いた後だったといいます。

        現在は大広間の一角に飾られていますが、当初は浴室の窓に嵌められていたと言います。


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        桃介は、昭和13(1938)年に渋谷の自宅で死去します。長野県南木曽には桃介ゆかりの施設が残されています。



        Img_2776   (長野県南木曽町に遺る桃介橋。木製の補剛トラスを持った吊り橋で、橋長247m、幅員2.7mあり日本有数の長大橋。大正10年に下流の読書発電所の建設用資材運搬路として建設されました)


        貞は昭和8(1933)年に岐阜県鵜沼に私財を投じて貞照寺を建立し、東京と鵜沼を行き来する生活を送りました。


        昭和21(1946)年、熱海の別荘で死去。死後は貞照寺に埋葬されました。
                          

                                            

        2015.01.24 Saturday

        ステンドグラスを見に行く  歴史上の人物が投宿する姿を見てきた老舗旅館のグラス(神奈川県箱根町)

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          箱根塔の沢は、いわゆる箱根七湯の一つとして江戸時代から世に知られていました。

          古い記録には文明年間(1469−1487年)にすでに温泉のあったことが記されていますが、温泉場としての開発は江戸期の初期の慶長19(1614)年に元湯(後の環翠楼=かんすいろう)が開かれたことが始まりとされます。実に400年前に遡ります。

               
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          (様々な歴史を刻んで来た環翠楼の建物。13代将軍徳川家定の御台所・天璋院篤姫は、14代将軍家茂の御台所・静寛院和宮の終焉の地となった環翠楼を訪れ、横を流れる早川を眺めながら号泣されたといわれます)
                                                                            塔の沢には元湯に次いで新たに湯治旅館ができて、江戸末期には9戸に及んだと言います。


          この頃、箱根の交通はまだまだ不便で箱根と言っても小田原に近い湯本や塔の沢が開かれたくらいで、宮の下、千石原方面は未開の地でした。


           

          Dsc_0096   (玄関口に箱根細工の名人・白川洗石が神代杉の地板に象眼した環翠楼の扁額が掲げられています。伊藤博文が作った漢詩から環翠楼の文字を採り、長 三州直筆の文字を細工しています)


          その塔の沢の元湯に明治10(1877)年に、かねてから脚気を患っていた第14代将軍家茂に降嫁した皇女・和宮(静寛院宮)が療養に滞在することになります。


          今では考えられないことですが、脚気は当時は不治の病として恐れられた病気でした。


           

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          江戸期には水戸光圀などの大名や豪商なども湯治に訪れ賑わった元湯ですが、和宮の療養となればこれまでとは違った思いで迎えたに違いありません。


          四周が緑に囲まれた地に転居して一時は清々しい心地で、歌会を催したり、塔の沢の婦女子を招いて茶菓子を振舞われたりしたようですが、まもなく病は日々重くなり食欲が衰え立ち上がることもできなくなり、静養後ひと月経たぬうちに逝去してしまいます。

          和宮の追慕に当時の館主が追悼碑を建立していて、今も環翠楼の中庭に遺っています。


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          元湯はなんどか所有者が変わってきましたが、明治17(1884)年に小田原の有力者・鈴木善左衛門の手に渡ります。

          鈴木は著名な大官、豪商、政客、文人らと親交が厚く、続々と来泊するようになり環翠楼の名が広く知られるようになったと言います。



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          環翠楼の館名も、明治23(1948)年にみごとな風光に感激した伊藤博文(1841−1909年)が当主に詩を贈呈、その漢詩の中の文字から命名しています。

          現在の建物は、大正期に造られた木造4階建てです。宮大工が造り上げた建築様式は、小柱、梁、筋交いを組み合わせた「総もたせ造り」や随所に銘木が使用された建物のすばらしさがあります。



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          鑑賞価値があったり稀少な価値のある木材を銘木と呼びますが、環翠楼には随所に銘木が使用されていて、現在もそれを見ることができます。


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          遣唐使により唐から伝来したことから特別に唐木(からき、とうぼく)と呼ばれる銘木があり、中でも、紫檀(シタン)、黒檀(コクタン)、鉄刀木(タガヤサン)は「唐木三大銘木」とされ珍重されて来ました。



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          鉄刀木は重硬で緻密な材質で、古くから銘木中の銘木として珍重されてきたものですが、2部屋の床柱に使用されていて環翠楼のステータスシンボルとなっています。


          大広間や客室の各部屋にも杉、桜、桐などの銘木がふんだんに使われています。

                                                                                                                                    

              

                                             Dsc_0205                                                                                                                      

          日本の伝統的な建築技法を駆使して造られた当館は、細かい部分にまで職人のこだわりが見てとれます。



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          かつての旅館は共同の洗面所、トイレが通常でした。水道配管、浄化槽設備、水洗化などの進歩、普及に合わせ共同の洗面所なども見られなくなりました。


          環翠楼には、かつての共同洗面所の施設が残っていて使用もできます。下はモザイクタイルです。



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          大浴場(内湯)も風呂タイルが張られています。



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          大正時代に輸入した舶来タイルで、当時としては珍しかったといいます。


          今見ても斬新なデザインで、古めかしさ、違和感といったものが感じられないのではないでしょうか。



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          環翠楼は自家源泉を3本持っているそうです。


          37号泉、50号泉、110号泉と呼んでいて、それぞれの温泉を混合して各浴槽へ供給しています。



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                                                                                       「湯番」と呼ぶ温泉管理のスペシャリストが、毎日気温、湯温に応じて温度を調整し、お客に快適なかけ流し温泉を提供しているといいます。



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          この由緒ある歴史を刻んで来た環翠楼の館内5カ所に、小川三知(1867−1928年)が手掛けたとされるステンドグラスが嵌入されています。


          三知の作というのは伝承で、これを裏付けるものはないようです。



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          まず脱衣場の上部の明かり取りに、2種類の絵柄のステンドグラスがあります。


          環翠楼の大浴場は男女別に2カ所ありますが、日替わりで浴場使用を交替させています。


          ですから1泊して翌日また入浴すると、別のステンドグラスも見られることになります。



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          一つは、格子戸にハコネバラを描いたもので、ピンクの花色が優しく目に映って来ます。ハコネバラは漢字で書くと箱根薔薇で、別名サンショウバラ(山椒薔薇)とも言います。


          富士箱根地区に自生している日本の固有種になるそうです。サンショウバラの名は、葉の形がサンショウの葉に似ていることに由来します。


          幹は太く、5mほどの高さになり枝はよく分枝し、小枝の先端に5弁のピンク色の花をつけます。花は6月に咲き、花の大きさは5〜6cmになるそうです。



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          別の脱衣場にあるステンドグラスは、富士山を背景に駿河湾に浮かぶ帆かけ船ののどかな風景です。



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          帆を張った船が描かれていますので、芦ノ湖などの湖ではなく海洋でしょう。



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          浴場に向かう廊下に大きなサイズのステンドグラスがあります。



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          一つはハクチョウが遊ぶ湖を背景に、やはりハコネバラが垂れ岸辺にアヤメが花咲く風景が描かれています。

           

          もう一つはやはり廊下にあります。


          そしてもう1カ所は、1階の婦人用トイレの観音開き窓にあるアールデコ風の植物デザインです。



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          婦人用トイレは外からの自然光を映して輝くように設置されていますが、他の4点は蛍光灯を当てて色を浮かび上がらせるように羽目ごろし窓にしてあります。


          ですからそれぞれが伝承で伝わるように、設置当初の大正8年の建設年から設置場所を変えて来ていることは間違いのないところでしょう。


          見て分かるように、まったく作風の違うものです。



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          婦人用トイレのステンドグラスはまったく新しい材料のなかに収まっていますし、他は螢光照明がまだない頃ですので、透過光に向かって設置されていたことは容易に想像されます。


          環翠楼の名付け親は日本の初代首相伊藤博文ですが、伊藤はこの環翠楼がすっかり気に入りたびたび定宿にして訪れています。


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          明治24(1891)年に滋賀県大津市でロシア最後の皇帝となるニコライ皇太子が日本人巡査に斬りつけられる事件が発生します。


          この時、伊藤は環翠楼で宴の最中に伝達を受けたそうです。



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          同28(1895)年に日清戦争後の講和条約締結のため、当時の中国大統領にあたる李鴻章が来日します。李はこの時、環翠楼に宿泊しています。


          下って同44(1911)年には中国の革命家・孫文が中国から日本へ亡命しますが、孫文は環翠楼を定宿として使用しています。



          Dsc_0112             (婦人用トイレにあるアールデコ風の植物デザインのステンドグラス)


          明治中期の江戸相撲を飾った力士に大関の大砲(おおづつ)萬右衛門がいますが、大砲が環翠楼に静養にやって来たことを契機に環翠楼当主と縁戚関係になります。


          当時の大砲の手形が現在も残っています。



          Dsc_0115   (浴場に向かう廊下にあるステンドグラスは婦人用トイレにあるものと類似したデザインが描かれています)


          夏目漱石、島崎藤村や桂太郎(日露戦争時の総理大臣)、東郷平八郎(連合艦隊司令長官)、西園寺公望(最後の元老)も投宿しています。


          このほかにも明治の時代から日本の歴史に名を残す人物が環翠楼に登楼しています。こうした人々の目にも環翠楼のステンドグラスは映ったことでしょう。



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          現在の環翠楼の建物は、箱根登山鉄道が開通したのと同じ年の大正8(1919)年に改築工事を終えています。


          鉄道工事で隧道造成の掘削工事中に水が湧き出ました。環翠楼ではこの時の湧水を現在も飲料水や食事用に使用しています。



          2015.01.23 Friday

          ステンドグラスを見に行く  外国人客のダンスホールを飾った日本を象徴する風景を描いた富士屋ホテルのグラス(神奈川県箱根町)

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            明治11(1878)年に箱根・宮ノ下に日本で初めての本格的なリゾートホテルとして開業した富士屋ホテル。

            130余年の歴史と伝統を受け継ぐクラックックホテルです。


            Dsc_0941         (明治24=1891年に完成した社寺建築を思わせる瓦葺き屋根、唐破風の建物の本館)


            創業の明治11年といえば、この前年に九州(熊本県、宮崎県、大分県、鹿児島県)を舞台に西郷隆盛を盟主にして起こった士族による日本最後の内戦といわれる西南の役が起こりましたが、新政府軍によって鎮圧されています。


            そんな事件の余韻が残っていた世相の中での開業でした。



                    Dsc_0016                 (明治11=1878年に創業した当時の富士屋ホテルですが、同16年に焼失します)                      


            しかし、開業して6年目の明治16(1983)年に宮ノ下が火事に見舞われ、富士屋ホテルにも火の手が回りホテルは焼失し原形も失われます。

            明治24(1891)年、唐破風の玄関を持つ木造洋風建築で現在も活躍しているホテル本館が竣工します。この時、火力発電で館内を明るくしたといいます。


            2年後の同26年には水力発電を開発し、本館裏に発電所を設け自家発電で電気を賄っています。



                   Dsc_0018                    (焼失後の明治24=1891年に復興建築した富士屋ホテル全景)


            大正12(1919)年の関東大震災では被害がでて10カ月余り営業を休止しましたが、木造でありながら大変強固な建物で、現在でも使用している一階フロント・ロビー、二階の客室が被害を免れています。



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            同26(1893)年になってそれまでライバル旅館として競ってきた奈良屋旅館と富士屋ホテルとの間で協定を結びます。

            江戸時代から宮ノ下で営業して来た奈良屋旅館が日本人客専用に、富士屋ホテルは外国人客専用のホテルとして営業するという内容で、両宿泊施設の“棲み分け”を図るものでした。



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            協定はこの時から大正元(1912)年まで続き、富士屋ホテルは多くの外国人客で賑わいました。

            富士屋ホテルは外国人客を見込んで明治39(1906)年にいち早く洋風造りで現在も人気のある西洋館を竣工させています。



            Dsc_0940   (昭和11=1936年に和風意匠をテーマにした建物の集大成として造られた花御殿。大きな千鳥破風の屋根と校倉造を模した壁が象徴的な建物です。43室の客室には部屋番号の代わりに花の名前がつけられ、客室のドア、鍵、そして部屋のインテリアにも各部屋の花のモチーフ が使われています)


            富士屋ホテルの名称ですが、ホテルから秀峰・富士山を望むことはできないのですが、外国人客にとって富士山は美の象徴であることを意識して、かつて宮ノ下で500年の歴史を刻んでいた温泉旅館「藤屋」の名前をもとに「富士屋ホテル」と名付けたそうです。


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            明治20(1887)年
            塔ノ沢と宮ノ下間の約7kmの道路が開通します。

            道路ができたことでようやく人力車が宮ノ下まで通れるようになったものの、急な山道を登るには人夫が二人必要なことから椅子に棒をくくりつけて運ぶ「チェア」というものが発案されたそうです。



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            4〜6人の人夫によって担がれ、春秋のシーズンには宮ノ下より箱根を一周するチェアが70程あり、それを担ぐ300人近い人夫が毎朝ホテル本館の前後を取り巻いていたといいます。


            また、富士屋ホテルは送迎のために米国製のホワイトという大型乗り合い自動車を購入し、赤く塗って使用したことから宿泊客たちから「富士屋の弁当箱」と呼ばれて親しまれたそうです。



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            (フロント前のロビーにも様々な彫刻がありますが、かつてホテルで飼っていた尾長鳥を刻んで着色したものもあります。宿泊者の中にこの尾長鳥に親しみを持った人たちも多いことから制作したそうです)



            大正9(1920)年にカスケードルームが造られます。ダンスホールや社交場として華やかなシーンを演出してきたバンケットルーム (宴会場)です。



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            窓から庭園の小さな滝を望めることから、小滝を意味する「カスケード」と名付けられました。


            壁面にステンドグラスが設置されていて、緑あふれる箱根と富士山が描かれています。



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            カスケードルームができ上がって3年後の大正12(1923)年に箱根も関東大震災に遭い、富士屋ホテルも少なからずの被害があり大改修が行われた記録が残っております。


            その記録には、料理用のエレベーターの設置など記載はあるもののステンドグラスには触れられていないことから、大震災でもステンドグラスは大きな損傷を受けなかったようです。


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            コンシェルジュの話では、「目録とか実際の購入・依頼記録などの事実の確認の取れる様なものが無く、すべては先輩から後輩への口頭での引き継ぎ」とした上で次のように語っています。

             

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            「大正4(1915)年に創業者・山口仙ノ助の意思を引き継いだ2代目社長の山口正造は、外国人客に日本を象徴する風景としての富士山をダンスホール(カスケードルーム)のステンドグラスにデザインするよう制作依頼したものと見られています」


             

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            「依頼先は宇野澤辰雄の流れを持つ一門の方々にお願いし、実際のデザインをした方は分かりません」


             

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            またステンドグラスの上の欄間一面に、江戸時代の東海道の旅の様子や日本の名所、伝統行事を彫り込んだ彫刻で飾られています。


            一枚の板に両面まったく同じ絵柄を彫っためずらしいものです。



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            カスケードルームのステンドグラスとは別に、本館正面玄関の庇部分に幾つもの照明がステンドグラスで被われています。


            同じものは本館と別館を繋ぐ数々の骨董品のプロムナードとなっている天井灯などにも見られます。



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            正面玄関のショーウィンドーの通りは、昭和10(1935)年に造られていてこの時、ステンドグラスに被われた照明が取り付けられています。


            これもコンシェルジュは、宇野澤辰雄の流れを汲む一門の作と語っています。



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            宇野澤辰雄の流れを汲む一門」といえば、宇野澤辰雄の養父の辰美が、当時ステンドグラス制作の技術を辰雄から学んだ別府七郎(1873−1936年)、木内眞太郎(1880−1968年)などと「宇野澤スティンド硝子工場」を設立して、日本にステンドグラスを普及することになったのです。


            昨年11月26日付けの日光真教会の項でも記したように、別府七郎と木内眞太郎は、宇野澤スティンド硝子工場でステンドグラス制作の技術を学び大成します。



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            宇野澤スティンド硝子工場は、アメリカから単身留学して戻った小川三知(1867−1928年)が大正2(1913)年につくった「小川スタジオ」とともに、日本のステンドグラスの黎明期を切り拓いていくことになります。



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            この辺りの詳しいことはこちらをご覧ください。

            昭和20(1945)年、終戦を受けてGHQに接収され一般営業を停止します。富士ビューホテル、仙石ゴルフクラブハウスも相次いで米軍の接収下になります。



                                                             Dsc_0035_2                    (長かった接収が解除されて一般営業の再開を知らせるポスター)  

               

            富士ビューホテルは、昭和11(1936)年に富士山を間近に仰ぐ河口湖畔に建設された山梨で最初の洋風ホテルです。


            昭和15(1940)年に開催が予定されていた東京オリンピックに来日する外国人を見込んで建てられました。花御殿と時を同じくして建設しています。


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            この時の東京オリンピックは日中戦争の影響などから日本政府は開催権を返上し「幻のオリンピック」となったものです。

            同27(1952)年に長かった接収は解除されますが、米軍との自由契約でホテルなどの施設は貸与することになり一般営業は2年後の同29年まで延びることになります。


                   

            2014.12.22 Monday

            ステンドグラスを見に行く  広大なキャンパス内にある2つの並木を写し取ったグラス(北海道札幌市)

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              札幌を訪れたのは、6月の下旬。限られた時間を割いて北海道大学にも立ち寄りました。

              北大正門から総合博物館を目指して歩くと、中央食堂の横に「ファカルティハウス エンレイソウ」があります。

              教職員向けの施設で会議室、ギャラリー、レストランがあります。エンレイソウは北大のシンボルマークになっている花の名前です。


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              1階にレストラン「エルム」があり、学外者も自由に利用できます。


              エルムはハルニレの木の名前で、キャンパス内でその大木をあちこちで見ることができ、緑豊かな空間が広がっています。


              レストラン内の大窓からもこの豊かな自然を楽しみながら食事をとることができます。


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              その1階にサロンがあり壁面2カ所にステンドグラスが嵌められています。

              2枚ともモチーフは北大構内の観光客や市民が散策に訪れる並木を描いています。


              うち1枚はポプラ並木で亭々と空に向かって伸びる巨木が250mほど連なり、夏のシーズンは力強い緑色の風景が心地よさを覚えます。



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              盛夏にポプラ並木の下で草食む馬が描かれています。青くグラス片で彩った影の部分に、舞い落ちるポプラの葉を描いています。

              ポプラ並木は平成16年の台風で多くのポプラが倒れてしまいましたが、若木を植樹するなどして、翌年に並木が再生しています。

              現在、並木道を約80mほど散策できるようになっています。


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              もう1枚は晩秋に色づいたイチョウ並木です。


              イチョウ並木は、長さ380mの道路の両側に70本のイチョウが植えられていて、秋の黄葉は圧巻でその姿を写し取っています。



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              毎年、イチョウが色づき始めると多くの観光客や市民がキャンパスを訪れ、黄葉を楽しむ姿が目立つようになります。




              2014.12.21 Sunday

              ステンドグラスを見に行く  雨の日に見たヴェネチアン・グラス美術館にあったステンドグラス(神奈川県箱根町)

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                箱根に滞在した一日目は天候が芳しくなく、到着するなり激しい雨に見舞われました。

                紅葉狩りなどできないので、千石原にある「箱根ガラスの森美術館」へ。こういうときは、屋根付きの館で雨を凌ぐにこしたことはありません。


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                この中のヴェネチアン・グラス美術館では「祝宴の器展」という企画展が催されていて、会期も終わりに近づいているせいか、かなり混雑しています。

                                    

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                中世ヨーロッパ貴族を熱狂させたという繊細で優美な輝きを放つヴェネチアン・ガラスの数々が展示されていました。



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                ヴェネチアングラスとは3万色を出せるという豊かな色彩が魅力のガラスで、16〜17世紀に黄金期を迎え、これらを所持、保有していることは貴族のステータスシンボルでもあったといいます。


                あのヴェルサイユ宮殿の鏡の回廊もヴェネチアングラス職人が手掛けたそうです。



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                ヴェネチアといえば水の都。水をイメージして造った庭園を持つ美術館で、常設は15〜20世紀の珍しいヴェネチアン・グラスを集めた約100点のコレクション展示があります。


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                企画展を見終わって流れるとショップへ向かうプロムナードがあり、こことショップにステンドグラスがありました。


                外はまだ激しい雨模様。ステンドグラスの絵模様の向こうに滴が見えます。



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                庭園は早くもクリスマスバージョンでクリスタルグラスが飾りつけられ、さぞかし夜はイルミネーションで輝くことでし
                ょう。

                 


                2014.12.20 Saturday

                ステンドグラスを見に行く  大正ロマンを漂わす喫茶室に落ち着き感をもたらすランプシェードのグラス(長野県松本市)

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                  長野県松本市は国宝松本城のある城下町として多くの観光客を呼び集めて来ました。

                  築城後400年を経て、現存する五重天守の中では日本最古の城です。黒と白のコントラストが北アルプスの山々に映えて見事な景観です。


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                  松本城を中心に街が開けましたが、現在も往時の賑わいを漂わせる通りがあります。

                  酒造業や呉服問屋が集まり繁盛したものの、江戸末期や明治に大火に見舞われたことから商人たちの知恵で「なまこ壁の土蔵」が造られ、今も蔵造りの工芸店や民芸品店が建ち並ぶ中町通り、市の中心部を流れる女鳥羽川沿いにある縄手通り商店街、明治、大正期の古い建物が並ぶ上土通りなど歴史を刻んだ通りがあります。


                  城下町ですので道幅は狭いところもあるのですが、入り組んだ小路に入って行くと面白い発見もあります。



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                  今年の1月、上土通り周辺の小路を散策していてひと休みするのに入った松本ホテル 花月の喫茶店にステンドグラスがありました。


                  喫茶店は明治29(1896)年創業の老舗ホテルの1階にあり、昭和48(1973)年から営業しています。


                  椅子などの調度類は松本民芸家具で統一され、店内はレトロで落ち着いた雰囲気があり、大人が憩える空間と言えます。


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                  天井から吊るされた照明のランプシェードがこのホテルの、あるいはこの喫茶店の雰囲気に実によく合っています。



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                  デザインも色づかいも華やかさはありませんが、それが落ち着いたいい雰囲気を醸し出してくれます。



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                  また喫茶室に掛っているホテル花月と松本城と北アルプスをシンプルに描いた壁掛けのステンドグラス、このホテルの雰囲気をよく描いています。


                   

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                  このホテルをよく利用するお客さんが制作して寄贈してくれたそうです。


                  2014.11.26 Wednesday

                  ステンドグラスを見に行く  静寂な堂内を彩る別府と木内の手によるグラス(栃木県日光市)

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                    東武日光線の東武日光駅、あるいはJR日光線の日光駅を降り立ち、通称「日本ロマンチック街道」(国道199、途中から120号)を世界遺産に登録された日光東照宮など二社一寺へ向かいます。

                    途中で東照宮へは西参道で分かれますが、国道120号線をさらに進むと石造の礼拝堂と鐘塔をもった重厚な教会が見えてきます。


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                    日光市本町にある日光真光教会です。

                    木立に囲まれた400坪ほどの平坦な敷地内に、礼拝堂、鐘塔のほかに司祭館があります。

                    近くの大谷川から採取した暗赤色の安山岩を積み上げた石造平屋建て、急勾配の天然スレート葺き切妻屋根、主棟は長方形の礼拝堂でその東南隅に鐘塔があります。

                    鐘塔は重厚な装いで意匠的にはロマネスクに近いゴシックの様式といえます。

                     

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                    この教会を設計したのは、立教大学の初代校長のジェームス・マクドナルド・ガーディナー(1857−1925年)です。


                    ガーディナーは、明治13(1880)年にアメリカ聖公会から築地居留地の立教学校に派遣され、教壇に立ちます。


                    まもなく23歳の若さで立教学校の3代目校長に就任し、大学となってからそのまま初代校長を務めています。 


                          
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                    しかし、かねてから関心が強かった建築設計への道に進むため、明治24(1891)年に職を辞して建築家として再出発します。


                    ガー ディナーは日本で40件余りの建築設計をしていますが、現存するのはこの日光真光教会のほか、立教大学赤レンガ校舎群、小浜聖路加教会(現小浜聖ルカ教 会)、京都五条教会(聖ヨハネ教会、博物館明治村に移築)、函館遺愛学院、京都市の聖アグネス教会、弘前昇天教会教会、横浜市の内田定槌邸(現 外交官の家)など10件余りになっています。


                    ガー ディナーと立教大学については、過去記事のファイルにあります。詳しくはこちらをご覧ください。



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                     日光真光教会は石造ということもあって重厚な印象のゴシック式建築で、ガーディナーの後期の代表作になります。


                    この日光で初めて聖公会の礼拝が行われたのは、明治8(1875)年です。

                    日光見物に来た外国人聖職と、通訳として同行し後に聖職となった当時の日本人学生の二人が中禅寺湖畔の宿屋の二階で聖餐式を行ったという記録があります。


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                    高温で多湿な日本の夏を苦手とする外国人は避暑地として日光に集うようになり、教会の建立が求められました。

                    そして、明治23(1890)年に宇都宮−日光間の鉄道が開通する数年前から避暑に日光を訪れていたガーディナー夫妻が、家族や友人とともに礼拝所の建築に取りかかります。


                    明治32(1899)年にガーディナーが設計した木造の礼拝堂が建てられ、同38(1905)年に日光変容貌教会となります。


                    現在の石造教会堂は、大正5(1916)年に聖別され、日光真光教会と改称されました。


                     

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                    この礼拝堂の床下には、設計者のガーディナーと妻・フロレンスの遺骨が納められています。



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                    礼拝堂内は観光客で賑わう表通りとは別世界で静寂そのものです。


                    簡素で落ち着きのある中に唯一の彩りとも言えるステンドグラスが目を引きます。



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                    聖書は新訳、旧訳も目を通したことがなく、ここに描かれている図案が何なのか分かりません。


                    田辺千代さんの著書『日本のステンドグラス 宇野澤辰雄の世界』(白楊社刊)の中に詳しく掲載されていますので引用します。



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                    「上段は左から右へ聖ペテロの天国への鍵、聖アンデレの斜めの十字架、聖ヤコブの牧杖、聖トマスの定規へと続く」



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                    「中段がなかなか面白い。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四聖人は福音書記者と呼ばれ、それぞれ紙のような物や皮のような物を持っている」



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                    「下段は小ヤコブから始まって、マッテアの斧、タダイの槍で終わる。下段に示されたユダヤ教やキリスト教で司教や主教がかぶる冠、棍棒、ケルト十字架、剣、鋸等も、それぞれ使徒を象徴するものである」



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                    そして、この著書の中でステンドグラスの制作者についても「真光教会のスティンドグラス作品は、焼き付けの<キリストの変容>は外国製と思われるが、十ニ使徒一ニ面の作品と鳩は紛れもな宇野澤組スティンド硝子製作所によるものである。今から九六年も前に、設計者ガーディナーと意見を交わして製作を進めた別府七郎と木内真太郎の若き日を想像しながら(以下略)」と、特定しています。


                    Dsc_0328   (日本のステンドグラス史研究の第一人者の田辺千代さんが「何と、大阪鴻池本店二階応接室の鳩とよく似ている」と評した洗礼室上のステンドグラス)



                    別府七郎(1873−1936年)と木内眞太郎(1880−1968年)は、宇野澤スティンド硝子工場でステンドグラス制作の技術を学び大成します。


                    宇野澤スティンド硝子工場は、アメリカから単身留学して戻った小川三知(1867−1928年)が大正2(1913)年につくった「小川スタジオ」とともに、日本のステンドグラスの黎明期を切り拓いていくことになります。



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                    この辺りの詳しいことはこちらをご覧ください。



                    2014.11.24 Monday

                    ステンドグラスを見に行く  中島飛行機創設者の応接室を飾る三崎彌三郎のグラス(群馬県太田市)

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                      群馬県太田市押切町に中島飛行機製作所の創設者である中島 知久平(ちくへい、1844−1944年)が両親のために生家の近くに築いた邸宅があります。


                      敷地面積が10,000屬鯆兇─築地塀に囲まれた敷地内に、主屋、表門、門衛所、蔵、屋敷神社殿などがあり、主屋南側に3,000屬箸い錣譴觜大で平坦な庭園が広がっています。



                      Dsc_0182


                      平成20(2008)年に太田市が行った同邸宅の調査の際に主屋から棟札が見つかり、主屋の上棟が昭和5(1930)年であることが分かりました。


                      主屋の設計監督は宮内省内匠寮(たくみりょう)出身の伊藤藤一(とういち、生没年不明)で、東京・芝の増上寺の


                      主屋は玄関棟、客室棟、居間棟、食堂棟などからなり、応接室などに洋風建築を採り入れるなどしていますが、全体として近代和風建築の体になっています。

                      各棟は中庭を囲むように「ロ」の字型に建っています。


                       

                      Dsc_0219


                      左が客室棟で右が仏間と両親の居間になります。


                      次の間や客間の襖や柱に水に浸かったようなシミが見られます。


                      昭和22(1947)年9月に関東から東北地方に大きな災害をもたらしたカスリーン台風によって近くの利根川が氾濫して、中島邸にも水が押し寄せ床上浸水の被害に遭った痕跡です。



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                      カスリーン台風は死者1,077人、行方不明者853人、負傷者が1,547人、住宅の損壊9,298棟、浸水384,743棟、耕地流失埋没 12,927 ha、罹災者は40万人を超え、戦後間もない関東地方を中心に甚大な被害をもたらしました。


                      特に群馬県や栃木県では土石流や河川の氾濫が多発し、群馬県では592人、栃木県352人の死者が出ました。


                      また、利根川や荒川などの堤防が決壊により埼玉県東部から東京都の下町一帯にかけての広い地域で家屋の浸水が発生しました。



                      Dsc_0200


                      玄関を入ると22畳ほどの広間があり、右手に応接間が2部屋続きます。


                      広間と応接間の天井にはシャンデリアが架かり、床はモザイク文様の板張りになっています。


                      2部屋ある応接間にそれぞれ大理石製の暖炉が設置され、その中に電気ストーブが据えられていました。


                                                                            Dsc_0198


                      応接間の窓とドアの上部にステンドグラスが装飾されています。


                      三崎彌三郎(1886−1962年)が設立した玲光社東京店が制作しています。

                      三崎が制作したステンドグラスのなかで、
                      現存が確認されている数少ない作品の一つになります。


                      Dsc_0186


                      日本のステンドグラス史研究家の田辺千代さんによると、三崎彌太郎京都工芸美術学校を卒業後、「辰野金吾建築事務所に入所し、松本與作らとともに東京駅舎の装飾・デザインを担当した。草創期の宇野澤スティンド硝子工場のデザインも担当。木内真太郎に乞われて東京玲光社を設立したが、戦後はスティンドグラスの世界から離れる」(『日本のステンドグラス  明治・大正・昭和の名品』)と記されています。



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                      また、2014年2月23日掲載の「『新幹線の父』の邸宅を飾ったグラス」のなかで三崎彌太郎について触れています。併せご覧ください。



                      Dsc_0191


                      ただ残念なことに、応接間を飾るステンドグラスのうち廊下側の壁に取り付けたものが3点ほどあります。



                      Dsc_0195


                      これが壁に嵌め込まれていて、まったく透過光を通しません。


                      どうしてこのような嵌入をしたのか、三崎の力作であるだけに惜しまれます。



                      Dsc_0206


                      戦前、戦中にかけて全国の主要な地に工場を置き、今で言えば大企業であった中島飛行機製作所の記録や回顧録は数少ないといえます。


                      飛行機に夢を賭けた若い技術者達の情熱とエネルギーが、数々の高い技術力を生み出しました。



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                      しかし、中島飛行機は退官した海軍将校・中島 知久平らによって設立された航空機メーカーで、設立当初から戦闘機の受注生産を目的に設立された航空機メーカー会社、軍需産業でした。


                      戦争という異常な時代に必死に飛行機を設計し生産しましたが、それらの飛行機によって若者の命が奪われたことは間違いのない事実です。


                      こうした事実を美化するようなことは決してあってはならないという反省が過去を記録してこなかったのかもしれません。



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                      通常、飛行機の生産は、エンジンはエンジン、機体部分は機体部分でそれぞれが専門のメーカーに分かれ生産するのですが、中島飛行機の場合エンジンから機体まで全てを一貫生産で行ったという高い技術力を備えていたといわれます。


                      その高い技術力は世界的に知られており、例えばゼロ戦のうち有名なものはほとんどが中島飛行機が生産し、終戦直前まで三菱重工業をも上回る実績を持っていました。


                      昭和20(1945)年の終戦まで、東洋最大、世界有数の航空機メーカーとして名が知られていたそうです。



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                      しかし、戦争末期になると国内各地にあった中島飛行場の工場はアメリカ軍の爆撃目標にされほとんどが壊滅状態になってしまいました。



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                      戦後GHQ(連合軍総司令部)は占領施策で中島飛行機を12社に分社化し、航空機の製造を禁じました。


                      これは事実上、中島飛行機を解体するための措置だったのですが、分社されたそれぞれの会社は、一部の会社が再び合併によって再結集しています。



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                      この再結集によって誕生した会社が富士重工業(スバル)です。また、現在の日産と合併した会社もあり、日本の自動車産業には旧中島飛行機の流れを汲む会社があります。



                      2014.11.23 Sunday

                      ステンドグラスを見に行く  旧家の蔵から発見された小川三知が制作した可愛いフクロウのグラス(群馬県桐生市)

                      0
                                                      
                        なぜその地域新聞の切り抜きが手元にあるのか、今となっては判然としないのですが、頭の片隅で記事内容がずうっと気になっていました。

                        切り抜き記事は平成17(2005)年6月4日付けで、紙面は「夕刊 桐生タイムス」というローカルペーパーです。


                        Dsc_0146


                        「桐生の旧家で発見  小川三知のステンドグラス」の地紋に「これだけでも文化財」の大見出しが躍ります。


                        所有者の森 壽作さんとステンドグラス史研究家の田辺千代さんが、三知作の「ふくろう」のステンドグラスを挟んで談笑している写真が載っています。


                        資料ケースの中にあったスクラップを久しぶりに見て「早く見ておきたい」の気持ちが高じ森さんとも連絡が付き、訊ねることになりました。



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                        途中数カ所に立ち寄ったため、桐生市内に入った時はすっかり陽も落ち夕餉支度の時間になっていました。恐縮する私に温かく接して下さるご夫妻。


                        ふくろうのステンドグラスは、応接間に嵌めごろしのフレーム枠を造り、そこに嵌入されていました。


                        七代目当主の壽作さんの話によると、曽祖父で2代目宗作(1863−1932年)さんが発注したようだといいます。



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                        「わたしは小さかった頃、身体が丈夫ではなくたびたび学校を休んでいたようです。そんな時、茶室風の小さな部屋に布団が敷かれ寝るようにされました。部屋の西側の窓にこのステンドグラスがあり、フクロウの眼が怖かったのですね。なぜでしょうかね。今見ると可愛い表情なのに…」とステンドグラスの思い出を語ってくれました。


                        ステンドグラスはその後、主屋の増改築で茶室を潰すため取り外され蔵にしまわれたままになります。



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                        そんなある日、一本の電話が鳴ります。田辺さんからです。


                        田辺さんは三知の関係者から預かった膨大な資料の中に、三知が書いた日記に桐生の森合資会社から発注があったことが記録されているのを発見、現在の森家に当たるのではないかと連絡し、このステンドグラスの所在確認ができたのです。



                                                             
                        その内容が「夕刊 桐生タイムス」に大々的に取り上げられると市内はもちろん、近郊からも見学者が急増したといいます。


                        中でも三知の故郷、静岡市で各地に遺る三知作品を鑑賞するツアーが組まれ団体バス数台で訪れるようなこともあったそうです。

                                                                                                                                                                                         (白磁タイル張りの森合資会社 事務所)  

                                                       

                        このステンドグラスのある森家ですが、国登録有形文化財の森合資会社事務所、同店蔵、森家住宅石蔵(旧穀蔵)の3棟の建造物がある桐生の名家です。


                        明治37(1904)年に創業した森合資会社は、白磁タイル貼りの事務所を大正3(1914)年に、それ以前に出来ていた店蔵とともに和洋が一体となった歴史を感じさせる建物です。                                                                         

                                                                                                                                         

                                                              (大正3年築の森家住宅石蔵=旧穀蔵)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      桐生の名家・森家は様々な分野で活躍した多くの人材を輩出して来ました。


                        その一人に昭和の時代に活躍した歴史家・羽仁五郎(1901−1983年)がいます。五郎は羽仁家の養嗣子となり姓が森から羽仁に変わりましたが、森家の出身です。


                        羽仁は昭和2(1927)年、日本大学・自由学園の教授となり、著述で戦前の軍国主義に抵抗し多くの知識人の共感を得、マルクス主義者として活躍します。同22(1947)年参議院議員(全国区、無所属)に当選、国立国会図書館の設立に尽力します。


                        同47(1972)年、桐生市に蔵書1万3千冊を寄贈し、羽仁文庫になっています。同41(1966)年に自伝『私の大学』の中で故郷・桐生を自由都市として紹介しています。        


                         …… …… …… …… …… …… …… …… …… …… …… …… …… ……


                        森合資会社事務所、同店蔵、森家住宅石蔵(旧穀蔵)の3棟の画像は、桐生市教育委員会より提供いただいたものです。


                                                       

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