2015.01.08 Thursday

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    2014.11.12 Wednesday

    鏝絵細工を探す旅 〜 水害を契機に建立された矢切神社の大棟を飾る龍の鏝絵(千葉県松戸市)

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      伊藤左千夫の純愛小説『野菊の墓』の舞台が千葉県松戸市の矢切で、矢切といえば江戸川を渡し舟で東京・葛飾柴又を結んでいて、葛飾柴又といえば一世を風靡したフーテンの寅さん……と連想が繋がって来ます。



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      『野菊の墓』は、矢切の渡しの近くの旧家に生まれた数え年15歳の少年・政夫と、2歳年上の従姉・民子との淡い恋を描いたもので、「 野菊の如き君なりき」という題名で木下恵介監督が映画化し松戸近郊の農村風景を美しく映像に収めていました。


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      矢切の渡しは江戸時代初期に幕府が設けた渡し場で、自由に旅人が行き来するために設けられたものではなく、農民が対岸の耕作地に通うために特別に許可されたものでした。


      こうした渡しが利根川水系の河川15カ所にあったといいます。



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      現在は、民営で観光渡船として下矢切と葛飾柴又の間を手漕ぎの船で往復しています。


      その矢切の渡しの乗り合い場の近くに矢切神社があります。



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      矢切神社の起こりは、宝永元(1704)年の長雨で江戸川が大洪水を起こし、川岸にあった矢切の民家は流され多数の死者を出したことに遡ります。



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      この不幸な経験から村民は、川岸から離れて台地に移住し、京都東山から稲荷を勧請して「稲荷五社大明神」を建立しました。祭神は、食物・稲などの穀物を司る神倉稲魂命です。


      現在は矢切の地名が広く知れ渡ってきたこともあり、矢切神社と名を改めています。


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      拝殿屋根の大棟と鬼瓦の間に彩色した龍の鏝絵が施されています。


      龍は干ばつの時の水乞い、増水時の治水の神−龍神として、鏝絵にも古くから多用されて来ました。



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      矢切神社の鏝絵は、地元の左官・高橋三四郎によって大正元(1912)年に作られたと伝えられています。


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      昨今は矢切周辺を巡る散策ツアーにも人気が出て、そのコースにこの矢切神社も組まれていて鏝絵もガイドされ知る人が増えて来ているようです。



      2014.11.11 Tuesday

      鏝絵細工を探す旅 〜 菊三郎が遺した鏝絵、漆喰細工の秀作(千葉県松戸市)

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        伊藤菊三郎(1889−1983年)は、前回書いたように吉田亀五郎(通称 沓亀)に彫塑を学ぶため弟子入りします。

        左官職の腕利きとして名が知れ渡っていた沓亀のもとにいろいろなところから仕事の依頼が舞い込みます。


        Dsc_0559           (菊三郎が生前使用していた数多くの鏝や箆=ヘラが遺され、記念館に保存されています)



        菊三郎は沓亀のもとでそれらの仕事をこなし、技を磨いて行きます。菊三郎が参画した大正期の主だった仕事を列挙すると

         大正5(1916)年   神田駿河台ニコライ堂新築工事に加わる

         大正7(1918)年    港区三田で洋館正面に人造石洗出し彫刻アカンサス模様を描く

         大正10(1921)年   丸の内の日本倶楽部の建築で石膏工事に初めて従事する

         大正11(1922)年   毎日新聞社屋上正面パラペットに高さ2mの楯飾りをセメントで塗り出す

                   郵船ビル、丸ビル、毎日新聞社の石膏彫刻の原型を作製

         大正15(1926)年    那須の御用邸のすべての彫刻の石膏模型を作る



        Dsc_0553               (記念館に菊三郎が学んだ古画帖などの書籍類が展示されています)



        大正11(1922)年に恩師の吉田亀五郎が病没します。


        菊三郎は晩年の亀五郎の様子について「師は大正10年秋に恵比寿大黒の制作に着手し、塗り出しを終わって病床に就き、翌11年正月快方に向かったので彩色に掛かられたが完成しないうちに病が再発して、近親の看護もむなしく1月31日についに帰らぬ人となられました」と書き残しています。


        前回掲載した「恵比寿大黒」が遺作となりました。


                                

                      Dsc_0504                      (昭和38=1963年、菊三郎74歳のときに制作した「能猩々=しょうじょう」です。能舞台で舞う赤ら顔の猩々を絢爛豪華で色鮮やかな能装束とともに描いています。装束に象徴されるように祝賀、慶賀の時に演目に上がるといいます)



        菊三郎はこの後、牧野萬蔵の下で建築彫塑の原型を学ぶようになります。亀五郎の時と同じく夜間学び、昼間は助手として作業に当たります。


        大正14(1925)に牧野建築彫塑研究所が創設されたのに伴い助教授を務めています。


        この頃から建築彫刻模型、石膏、漆喰、人造石彫塑工事を請け負うかたわら原型手として同業者間の仕事をしています。



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        戦前、戦中と仕事は限られ、国会議事堂の大理石、木彫模型(昭和5=1930年)、三越本店中央階段の金属彫刻模型(昭和8=1933年)、ドイツ大使館、赤坂離宮の車寄せ、玄関天井を塗るなどしたようですが大きな仕事の発注は得られなかったようです。



        Dsc_0538   (菊三郎は動物を制作する時は動物園へ、花木などは気のすむまで時間をかけて写生したといいます)



        戦後の昭和20(1945)年になって左官業の仕事にようやく専念できるようになります。


        中でも同25(1950)年から同39(1964)年まで杉並区堀ノ内の妙法寺の山門、鐘楼、庫裡の屋根の鬼瓦の台に「波に千鳥」を塗り出しています。



        Dsc_0508         (明治100年記念で昭和43=1968年に作られた「建保時代之左官姿」の下絵)



        昭和32(1957)年ころ、つまり68歳となったころに菊三郎は一線を引退しますが、それまでに数々の仕事を果たしています。


        江東区北砂町の稲荷社に狐と若葉模様、渋谷区の祥雲寺庫裡のイラカ壁に雲と鶴を漆喰で塗り出しています。他に都内十数件の浴場の破風入り口の虹梁模様の塗り出しを行っています。


          

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        昭和45(1970)年、菊三郎81歳の時の「雨中の牡丹」と題した作品です。


        この作品と関連して、菊三郎が8歳前後の子どもだった明治30年頃の思い出を記しています。


        「左官職人が2人以上寄ると必ず『菊坊、これ頼むよと10銭銀貨1つと1銭銅貨1つを私の手に握らせる。毎度のことなのですぐに近所の酒屋へ向かいます。


        10銭は酒代、別の1銭は使い鎮なので、貧乏徳利と呼んでいた一升徳利に半分以上あるがわたしが帰るまでに母があり合わせでつまみものを出すものの、二人で燗もしないでがぶがぶ飲むのでたちまち無くなってしまう。


        別の一人がお金を出すので、わたしは再び空徳利を抱えて酒屋に飛ぶ。それも束の間で終わると今度は二人で『すまないなと言って6銭ずつ両手に握らすので使い賃が倍になります。


        内心喜んで買いに行き、家の近くまで帰ると『立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿が百合の花と都都逸で唄っているのが聞こえてきた−−という思い出を語っています。


                                                                                                                                      
                            Dsc_0521



        一線を退いてから自宅で扁額類なども積極的に塗り出し、左官彫塑の向上のために精力的に動いています。


        松戸市高塚新田で左官工事業を営む小倉利夫さんは「仕事のことで教えてもらいに行くと、ともかく親切に面倒を見てくれるいい人でした。みんなから『おじいちゃん』と慕われていましたよ」と生前の菊三郎を語っています。



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        今では漆喰細工の中でアカンサスなどの植物模様は通常よく見られる図案ですが、菊三郎はアカンサス図案も含めて書いています。


        左官彫塑では葡萄は洋館建築装飾のアカンサスに次ぐシンボルで レストランや果物店の外壁の看板に漆喰色モルタル 人造洗出で塗出し 内部ではキャバレー大会社の食堂の目に付きやすい壁に対し用の初期頃までは湿地くいで塗出したが 焼セッコーの導入して型抜が容易に出来るので益益用途が広大し、一般住宅の洋室の天井パネル  フリーズ(まあーり縁の下壁)に邦人には実物を知らぬアカンザスより見知る葡萄の方を好まれて数多く作他ので以上は装飾技法である

        表面の葡萄は自宅の庭の棚ので何と言種類か知らぬが写生したので  塗初めた時は未熟で見も青いので昨年のを想像した色で塗上たので カマキリは構図を しめるアイデアーで本年は未だ見かけぬ

                      昭和四十四年八月

                                               沓亀事  吉田亀五郎

                                                 門人   伊藤菊三郎 圬


        * すべて原文のままです。最後の「圬」の文字は訓で「こて」、音で「お」と読み「壁を塗る」の意があります。



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        菊三郎は器用な人で生前、祭壇の習作も手掛けたといいます。阿弥陀観音を中心に据えて周りの天空を天女たちが舞い、外枠には鳳凰、アカンサス、そして雲などが飾られています。


        生前の菊三郎は鏝絵をはじめとする漆喰細工について教えを乞うものがあると、懇切に指導したといいます。



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        伊藤菊三郎は、昭和も終わろうとしていた58(1983)年終焉を迎えます。享年94でした。


        雅号を甲艸(こうそう)と称し、沓亀の指導と自らの努力によって大正期から昭和期にかけて活躍した伊豆の長八の流れを汲んだ最後の鏝絵師と評されます。


          ………… ………… ………… ………… ………… ………… ………… ………… …………


        * 伊藤菊三郎翁記念館は館主の高橋敏夫さんが、菊三郎作品について詳しく説明するなどガイドしていただけます。従って高橋館主が不在の時は、休館となります。

        観覧を希望する場合は、事前の問い合わせが必要です。連絡先等はリンクページからお入りください。


        2014.11.10 Monday

        鏝絵細工を探す旅 〜 長八、沓亀の流れを受け継いだ伊藤菊三郎の仕事(千葉県松戸市)

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          漆喰細工、鏝絵を芸術の域に完成させたのは伊豆長八こと入江長八(1815−1889)でした。

          長八の下に多くの左官職人が弟子入りを希望してやって来ましたので
          数多くの門弟を持ちましたが、中でも卓越した技量を兼ね備えて四天王と呼ばれた高弟がいました。

          四天王の一人に沓亀こと吉田亀五郎(1844−1922年)がいました。当ブログでもこれまでに何度か沓亀について書いています。

          2012.11.20(ねこや楽器店)同年11.21(須賀神社)2013.3.13(宗泰院)です。ご覧ください。
                                                
                                                                    
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                       (伊藤菊三郎がスケッチした師匠吉田亀五郎の肖像画)

          沓亀の技量については周りのだれもが認めたことから、長八の流れを汲む正統派としての沓亀の下にも多くの職人たちが学びに来ました。

          師匠・沓亀に教えを乞うて大成したのが6人程いたといいますが、その中の一人に伊藤菊三郎
          (1889−1983年)がいました。

          伊藤菊三郎は明治22(1889)年、東京市箪笥町(現在の新宿区三栄町)に左官職人・伊藤留吉の三男として生まれています。
           
                          
                       Dsc_0531                         (東京・四谷から千葉・松戸市に移り住んだ晩年の伊藤菊三郎)        

          菊三郎15歳になった同37(1904)年、父が死亡し翌年、兄に従って家業の左官の仕事に就きます。

          同41(1908)年になって伊豆長八の高弟の一人吉田亀五郎(通称 沓亀)に彫塑修行のため入門します。

          昼間はもちろん師匠に付いて現場の仕事の助手、つまり左官の仕事
          を勤め、学ぶのは仕事を終えてから一段落した夜間でした。

          菊三郎の精進はこの後も続き、沓亀の指導の下、みごとに開花します。


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          (吉田亀五郎の遺作となった大正10=1921年作の「恵比寿大黒」で、作製途中ということで遺族から菊三郎は完成させることを頼まれましたが、亀五郎の技のすばらしさに菊三郎は手を入れられなかったと書き残しています)


          菊三郎は70歳近くになって第一線を退き、東京・四谷から息子のいる松戸に移り住みます。そこで新たに親交を結んだ人々がいます。


          菊三郎が生涯を全うしてから生前親交のあった一人が、遺品の寄贈を受けたり所有者から預かった菊三郎の
          作品を一堂に会し、松戸市大橋2丁目に「伊藤菊三郎翁記念館」を自費で開設しました。

          左官・塗装・吹付工事・内外装リフォーム工事など全般をやっている高橋工業所の会長・高橋敏夫さんで、同社内に記念館を開設し館長として来訪者に菊三郎の人となり、作品などについてのガイドも務めています。


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          記念館には保存状態の良い鏝絵作品のほかに、菊三郎が作品を制作する時に描いた数多くの下絵などが保存されています。高橋さんは今後とも長期にわたって保存するためこれらを額装したり、破れにくく色褪せしないよう特別な加工を施したりしています。


          ですから記念館は菊三郎や鏝絵を学ぶ上で数多くの資料が揃っています。こうした形で資料が保存されているのは、全国的に見てそう多くはありません。



                  Dsc_0507        (菊三郎はアマノイズメの天真爛漫さを好いていたようで、この他にもアマノイズメを題材にした作品を遺しています)   



          菊三郎は文字で記録することにまめで、作品の裏側や下絵の余白などに作品のいわれや背景、自分が制作するに至った経過、あるいは制作への思い入れなどを書き残しています。


          例えば、菊三郎が昭和48(1973)年に描いた「見立てアマノイズメの神」の裏には次のように書かれています。

          「表面に塗出したるは我国神話の天孫降臨の女神アマノイズメの神が 地上全権 猿田毘古尊との談判中 女神の艶姿にて尊を魅了に陥れ交渉を有利に導いた女神の才賀でもある


                            

                   Dsc_0542                  (アマノイズメを制作する前に描いた下絵が大切に保存されています)            

           

          江戸時代の浮世絵師は かかる伝説中の人物を当 時の風俗に仕立見立何何と題して盛に描かれたので 祖師の長八も之に倣いて作り伊豆松崎の浄願寺に白漆喰仕上の立体作が現存してある 沓亀師もホーロク面 に何牧となく塗出され 同輩も塗れたらしく されば数多く有るはずなれど 去る関東大震災や太平洋戦災にて失た事は残念である」(原文のまま)
          とした上で、ここから菊三郎は戦争への痛烈な批判を展開します。


                  

                   Dsc_0495            ( 菊三郎が昭和47=1972年に制作した「聖徳太子」像。かつて、大工、左官など建築関係の職人たちは、同業者間の結束を図るため「太子講」を開いていました。太子とは聖徳太子から来ていて、太子が法隆寺や四天王寺などの巨大建築を建立したことから大工や左官職人たちが、工匠の祖として祀り、講を組むようになったといいます)



          「天災なれば致し方ないが互いにエゴイズムの主張から戦争となり国民同士の殺あい前途有る青年を失い得がたき貴重物を焼却する争は万物の霊鳥と自称する人間のなすべき行為は人類の破滅を自から企たす所以である今後互に考えべきと想ふ」(原文のまま)


          こうして鏝絵作品の背面に直筆で作品の解説にとどまらず、自らの世界観、社会感なども書き記しています。

           

                    Dsc_0589          (菊三郎が描いた下絵。菊三郎は太子が身に着ける袈裟などの着衣の色や柄に参考になるものが見つからず苦慮したようです)



          明治44(1911)年、22歳となった菊三郎は、四谷見附の料亭魚金の屋根の鬼瓦台に鯉の滝登りを塗っていた
          師匠の沓亀から波の描き方を現場で指導を受けます。

          菊三郎はこのときの師匠の教えに開眼したのでしょうか。

          後世になってからも「波と雲が鏝の基本だ」とよく語っていたそうです。

          同じ年、吉原遊郭が火災に遭い遊郭街の多くが炎上してしまいます。この復興建築で菊三郎は大黒楼のイラカに鶴を描いています。


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          師匠の沓亀は弟子たちに、徹底的に下絵を描くことを学ばせます。自ら描き溜めた下絵を見せ、それを弟子たちに筆と墨で模写させました。

          弟子たちは描く被写体の動きをよく観察し、どのように描けば生きているものを写し取ることができるかを
          考え、何度も何度も習作として描きます。

          弟子たちが提出して来たものを師匠は朱色の筆で修正します。



          Dsc_0569


          一枚の習作があります。円弧の中に逃げる2羽の雀を鷲が追っている姿を描いています。


          菊三郎が描いた上に師匠の朱筆が幾重にも入っています。鷲の姿を大きく描き、左右や尾羽などにより動きを入れるように修正しています。



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          獲物を狙う眼光の鋭さを表現するため、紙の余白に師匠自らが手本を描いています。


          その下に何本もの朱色の曲線が残っています。これは沓亀が菊三郎に絵筆の使い方を教えた跡のようです。



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          逃げ惑う雀の部分に紙を張った跡が見えます。菊三郎は紙の左隅に「張紙の所 朱画 師亀五郎直し筆」と書いてあります。


          菊三郎が初めに描いた雀に師匠の大幅な直しが入ったことから、菊三郎はそこに紙を張り上から筆運びも含めてなぞる練習をしたようです。


          下は禅画の「十牛図」の中にある「騎牛帰家」を描いたもので、逃げ出した牛をようやく捕え牛の背に乗って家路へ向かう童が横笛を吹いている姿を描いています。


                      Dsc_0500


          やはり菊三郎は左隅に記しています。「明治四十二年夏製作 (中略) 張紙の所 師亀五郎直ス」とあります。



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          よく見ると笛を吹いている左右の手の部分2カ所に紙が張ってあり、直した部分に彩色して1枚の完成した絵に仕立て上げています。

            

          2014.07.04 Friday

          鏝絵細工を探す旅 〜 黒漆喰を巧みに使い色彩効果が際立つ千光寺の蔵(富山県砺波市)

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            小杉左官の名工・竹内源造の遺した仕事を見る旅の最後は、砺波市芹谷にある千光寺です。

            砺波平野は庄川と小矢部川が造り出した扇状地に広がる農村地帯で、砺波市が中心都市になります。

            砺波平野の農村部では風や雨、雪の害から家を守るため周辺に樹木を植えて屋敷林を形成する景観をあちこちで目にすることが出来ます。地元では「カイニョ」と呼び、一般に散居村と呼称しています。

            この時季、田植え前の水を張った水田に亭々と伸びる樹木の姿と農家が映り、独特の光景を見せています。


            Img_4047


            尋ねる古刹・千光寺は、北陸でも最古の仏教寺院としての歴史を持つと言われます。


            一時は、皇室の勅願所として隆盛を極めましたが、永禄年間(1558−70)に越後の上杉謙信勢の兵火ですべて焼け落ちました。


            その後、豊臣秀吉が北陸平定の際に再建するものの江戸時代初期に焼失します。同中期になって加賀藩が支援に乗り出し、順次建物が再興されます。


            以降、火災に見舞われることなく今日まで繁栄を続けています。



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            観音堂に檀家の村人たちが寄進した扁額があります。


            扁額を制作したのは竹内源造で、檀家の人たちが千光寺の土蔵に描かれたみごとな鏝絵に感動し、源造に制作を依頼したという扁額です。



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            信仰心の篤い源造はこれを大いに喜び、寝食を忘れ制作に没頭したといいます。



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            奉納された作品は「布袋と福禄寿」と題され、ふくよかな布袋に子どもが馴染み片側の手で子どもの頭を撫で、もう片側の手に宝珠を手にしています。


            その宝珠を福禄寿が見つめ、布袋と何やら話し合っています。背に負った子どもの視線も宝珠に注がれています。



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            背景に雪を被った富士山と周辺の峰々を描き、これに朝日が差し込んでいます。松と釣瓶に水差しされた梅の花蕾も描かれています。


            1枚の奉納扁額のなかに、吉兆とされる題材を盛りたくさん描き切っています。



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            檀家の人たちが見て驚いたという源造が制作した鏝絵のある土蔵に向かいます。


            西蔵、東蔵の2戸前が並立していて1棟になっています。西蔵は天明5(1785)年、東蔵は文久2(1862)年に建てられています。


            外壁は明治末期に小杉左官の竹内組によって塗り直され、明治42(1909)年に完成しています。



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            源造は56年間の生涯に120点を超える作品を遺しています。このうち35点余りが制作年代が分かっていません。


            明治末年から大正5(1916)年までの記録がなく、詳しい制作年が不明になっています。



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            源造の年齢にして26歳から30歳までの期間になるのですが、詳しい制作記録がないのです。


            この間に、この千光寺の土蔵に描かれた鏝絵や奉納扁額をはじめ富山市東岩瀬のS家の「白拍子」、「琴高仙人」や、砺波市の元名越家土蔵にあり現在は竹内源造記念館に移築された「双龍」など評価の高い作品を手掛けています。

             

            千光寺の鏝絵は土蔵の塗り直しが終わった明治42年までに制作されたと見るのが順当なところです。


                                                                           Img_4060


            千光寺土蔵の妻側の2階窓に両開きの黒漆喰土扉が付いています。



                          Img_4061                                

            両面とも「松と鷹」を描いた源造の鏝絵があります。


            この土扉の鷹や唐破風の龍は源造が得意とした高肉彫りで造られていて、みごとな出来栄えです。


            Img_4073


            蔵の戸前正面は鏝絵を保護するため格子が設けられていますが、格子の間から十分拝観できる形になっています。



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            両脇の腰壁に黒漆喰で縁取りした壁面いっぱいに、様々な姿の9羽の丹頂鶴が等身大のサイズで描かれています。


                                                       Img_4087


            丹頂鶴はその美しさから古来から親しまれて来ました。

            丹頂の丹は赤いことを意味し、頭頂に露出した皮膚が赤いことからこの名が付けられました。



            Img_4074


            しなやかな肢体の丹頂鶴が、カップルで、あるいは子連れの家族の姿で描かれています。


            Img_4078

              

            源造は、どこでこのような姿かたちを見せてくれる鶴をスケッチしたのでしょうか。


            丹頂鶴は北海道にしか生息していませんし、鶴が富山県に飛来していたとも思えません。



                                       Img_4079

             

            出入り口土扉に、恵比寿と大黒天が愛される穏やかな表情で描かれています。



                                              Img_4082


            下部分は、 波間に遊ぶ亀が描かれています。


             

                                                    Img_4081


            鉢巻や隅柱、妻窓などに手が掛かる黒漆喰で仕上げています。


                                                         Img_4086


            黒漆喰で仕上げることにより蔵に重厚感も増しますが、源造は黒漆喰にして鏝絵の色彩がより鮮明に浮かび上がらせることを考えたのではないかと思うのです。



                                                         Img_4083


            源造は口数の少ない寡黙な人だったといいますが、住み込んでいる弟子たちと一緒に食事を摂るときはやさしく声を掛け、家族同様に面倒を見たといいます。


            しかし、仕事の上では厳しく教えられたことができない時は、棒で頭を叩かれることもあったといいます。


                 

                                                   Img_4084


            源造は仕事の最中、脳溢血で突然倒れ昏睡状態に陥り半日後に息を引き取ったといいます。


            鏝一本で生きた65年の生涯でした。遺した仕事で現存が確認されているものが120点余り、今回の旅ではその一部しか見ることはできませんでした。


            改めて現造が遺した足跡を訪ね歩こうと思います。



            2014.07.03 Thursday

            鏝絵細工を探す旅 〜 源造作と伝わるるもののあやうさ(富山県高岡市)

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              高岡市中曽根の中曽根神社に武内源造が制作した鶏や狐の塑像が奉納されているというので尋ねました。

              Web上の画像を見るとかわいい姿で造形されていて、源造が制作した作品の中では異色になると関心を持ったのです。


              Img_4527


              辿り着いた中曽根宮でその塑像を見た時、「これは一体……」−−唖然としてしまったというのが率直な感想でした。


              正面の左右の門柱に雌雄のニワトリ2羽と玉垣の上にキツネの塑像2体が奉納されています。


              そのどれもが最近新たに彩色したようになっているのです。しかも原色に近い色がすべてに塗られています。


              年月を経た色の風合いといったものがまったくありません。社(やしろ)のなかで何か浮いて見えてしまいます。



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              かつて小杉町教育委員会がまとめた「竹内源造作品集」では、塑像はモルタル製で昭和10(1935)年、源造49歳時の作品とされるものです。


              そして新聞報道によると、最近、制作当時の姿に復元したと言います。「制作当時の姿に復元」といいますが、源造は自らの作品にこのような原色に近い色を用いたのでしょうか。


              制作年とされる昭和10年前後の作品年表を見ても、このような色づかいをしているものは他に見当たりません。



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              それにこの塑像は本当に源造が手掛けた作品なのでしょうか、新たな疑問が湧いて来ました。


              源造が制作した塑像を見る限り、そのほとんどは細かいところまで忠実に描写し作品に投影しています。そうした作風が源造の持ち味だと思って来たのですが…。



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              こうしてデフォルメしたものは、となみ散居村ミュージアムと砺波市役所庄川庁舎にあるライオン像くらいでしょうか。


              中曽根神社のニワトリ、キツネ、そしてライオン像をじっと見ていて、源造が制作した姿が浮かんでこないのです。あまりにも他の作品との間に違和感を感じるのです。



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              もっとはっきりいうと、源造でなくともこのような塑像は造れるように思えるのです。



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              源造は作品に関する記録や日記、あるいは手紙などを書き遺さなかったことから、源造自ら自作と証するものがありません。


              1点の例外を除いて作品に銘を入れることもなく、落款を押印することもありませんでした。



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              ですから、施主、弟子などの関係者や源造の家族などからの伝聞で源造作となっているようなのですが、中には疑問符の付くものも出て来るのではないでしょうか。



              2014.07.02 Wednesday

              鏝絵細工を探す旅 〜 源造が制作した旧中越銀行の玄関天井を飾った大胆、繊細なアカンサス(富山県砺波市)

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                砺波市花園町のチューリップ公園内に、砺波郷土資料館として使用されている建物があります。

                この建物は、現在の砺波市本町3丁目に明治42(1909)年に竣工した旧中越銀行本店の建物です。中越銀行は砺波地方の当時の地主たちが発起人となり、同27(1894)年に設立されています。



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                明治時代建築物のなかでも洋風を採り入れた木造土蔵造りで、外壁面は現在タイルが貼られていますが、当初は黒漆喰の格調の高い重厚な雰囲気の建物だったといいます。建築面積が約309屐延床面積が約492屬△蠅泙后


                概括設計は東京建築設計の技師 長岡平三、実施設計と工事監督は地元設計士の藤井助之丞(すけのじょう)が担当しました。



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                この玄関天井一面を、当時23歳だった竹内源造が描いた鏝絵が飾っています。


                大変巧妙な鏝さばきで、大胆でしかも繊細なアカンサス模様を描いています。



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                源造は明治34(1901)年に僅か15歳で、東京・帝国ホテルの左官仕事で小杉左官と称せられた先輩に交じって上京しています。しかも受け持った仕事が貴賓室の漆喰彫刻だったと言います。


                残念ながら現存しませんので見ることはできませんが、当時から異能の才能を持った職人だったことをうかがわせます。


                天井壁面にこれだけ大きな作品を遺したのは鏝絵師の中でも稀で、「さすが源造!」と感嘆してしまいます。


                 

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                建物内部は吹抜けの営業室を中心に、三方をロビーで囲んでおり、化粧材はすべて欅を用いて、全体をコリント様式の彫刻でまとめています。



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                中越銀行は大正12(1923)年に富山合同貯蓄銀行となった後、昭和18(1943)年に高岡銀行など他3行と統合され北陸銀行となり、建物はそれ以降、同行砺波支店になります。


                土地区画整理事業のため取り壊しの予定でしたが、昭和53(1978)年に砺波市に寄贈され、現在地に移築復元しています。



                2014.07.01 Tuesday

                鏝絵細工を探す旅 〜 上海事変で戦死した若い兵士像に精魂込めた源造(富山県砺波市)

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                  庄川大仏の近くの同じ庄川町金屋地孔の民家の庭に大きな忠魂碑が建っています。忠魂碑の周囲に多くの塑像が飾られています。

                  竹内源造の昭和7(1932)年の作で、やはりモルタル製です。


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                  上海事変に出兵し23歳で戦死した金屋出身の山田文作の供養のために、母親が当時、庄川大仏の制作に来ていた源造に依頼して建立した忠魂碑です。

                                      

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                  日清戦争後、日本は軍備増強を図り明治31(1898)年に新たに6個師団を設置、このうち第9師団は、北陸の富山、石川、福井各県の兵士で構成されました。

                  同師団は、昭和7(1932)年に起こった第一次上海事変に動員されています。

                  日本は中国軍との戦闘で769人の戦死者を出していますが、
                  山田文作はその一人になります。



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                  忠魂碑は、一般に「山田文作像」と呼ばれています。像の高さが約1.7m、台座を入れると約5mになります。

                  材料のセメントは当時は非常に高額で、制作に掛かった費用は「家2〜3軒建つほどだった」という話が伝わります。
                   
                  当時、小牧ダムの建設景気で潤ったこの地方の経済的な豊かさも、制作依頼に向かわせたという見方をする人もいます。


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                  塑像は心木に藁縄などを巻きつけ、粒子の荒いモルタル土から、細かい仕上げ用モルタル土へと順次盛り上げ、箆(へら)や指で造型します。


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                  小銃を右手前に立て、布で作った背嚢(はいのう=リュックサック)を背負った兵士姿を模っています。


                  本人の顔に似せるため、源造はなんどもやり直しては遺族に見せ造り上げたそうです。


                  源造は他の作品でも制作したものが気に入らなければ、なんども造り直すという強い職人気質の持ち主だったといいます。


                  また、背嚢や軍服の皺にいたる細部まで丁寧に仕上げていて、精魂込めて造り上げた跡が見て取れます。



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                  忠魂額の前に唐獅子の塑像を置き、像の前の両側の柱頭に勇猛な姿の2羽の鷲を配置し、壁面に鳳凰を描いています。


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                  さらに文作の足元に4羽の鳩がいます。源造は柳条湖事件に端を発し満州事変へと向かうきな臭い時代の中にあって、鳩を配置することで平和を祈念したのでしょうか。

                  こうした塑像を見ると、源造の力量が相当なものであったことが分かります。


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                  像は平成23(2011)〜24年にかけて一度、修復しています。


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                  制作から80年が経ち、ゲートルを巻いた脛の部分や鉄砲の表面のモルタルが経年劣化ではがれ、中の鉄筋がむき出しになるなど傷みが進んだため、修理を行っています。



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                  鳩や鷹も羽が折れたり、尾の部分の心木がむき出しになったりしたことからステンレスで補強し、表面をモルタルで成形して仕上げたそうです。



                  2014.06.30 Monday

                  鏝絵細工を探す旅 〜 小杉左官を輩出した町の旧街道筋にある鏝絵看板(富山県射水市)

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                    射水市小杉町の旧北陸道の面影の残る通りを歩くと、商店のあちこちにユニークな鏝絵の看板が見えます。

                    十社宮を訪ねた時に宮司夫人からそのことを聞いて、これは拝見しようと思いました。

                    その時、「ここにもあるのですよ」と教えてくれたのが宝物殿入り口の左手に掲げられていた下の画像です。



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                    竹内源造を生んだ射水市の旧小杉町地区を中心に、鏝絵による地域おこしの取り組みとして「鏝絵看板設置事業」を、平成18(2006)年から進めてきたそうです。



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                    これまでに50枚近くの看板が完成し、施設や店先などを飾っています。


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                    看板ですから一目でその施設や商店が何を扱っているのかが分かるようでなければなりませんし、町並みの景観に合わせなければなりませんので、いろいろと工夫が凝らされているようです。


                    鏝絵は看板としてだけではなく、店内装飾として飾っているところもあります。



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                    源造の孫弟子にあたるという鏝絵師や県左官業協同組合の職人、講習会で鏝絵作りを学んだ商工会女性部のメンバーたちが制作に当たっているということです。



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                    これまでに設置されたのは、旧街道筋周辺にある小杉展示館を皮切りに料理店、呉服店、精肉店、精米店、酒店などに掲げられています。



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                    小杉展示館は明治33(1900)年に開業した「小杉貯金銀行」の社屋として、明治44(1911)年に建造された黒漆喰の土蔵造りの建物です。この黒漆喰も小杉左官が遺した仕事です。



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                    建物は入口突き当たりの彫刻ペディメントや天井装飾のデザインなの意匠など随所に明治後期の洋風建築が採り入れられているのを見ることができます。


                    下の金物店の看板は「大鋸」を模っています。大鋸は、「おが」あるいは「おおのこ」と読み、機械製材が導入される前に木材の縦引き製材のために用いられた道具です。


                    大鋸を使って製材することを木挽(こびき)と呼んでいました。木挽する人たちが多く集まっていたところを木挽町といい、現在でもこの地名が残っているところがあります。


                    大鋸の中に薪が使用されていた頃の炊飯、料理道具としての釜や鍋が描かれています。ここの店で扱っていたのでしょうか。



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                    関係者は、鏝絵による地域起こしの取り組みを今後も継続して取り組んでいきたいと話しています。



                    2014.06.29 Sunday

                    鏝絵細工を探す旅 〜 ダム建設景気に湧いた街に残る源造の仕事(富山県砺波市)

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                      砺波市庄川町金屋に3階建て鉄筋コンクリート造の大きな建物があります。昭和8(1933)年に建設された「木村産業」の店舗兼事務所です。

                      当時、土木業等を営んでいた初代の木村長次郎が設計し、外装、内装の施工は竹内源造率いる竹内組が請け負っています。


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                      外壁を見ると 右書きに「火薬  木村組」と書かれています。これは庄川流域に築造された小牧ダムに関連しています。


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                      流域では昭和初期に多くのダムや発電所が設けられ電源開発が進められますが、砺波市金屋地区はダム建設用地までの道路開削、建設工事用の資材の搬入、土砂の搬出など多くの雇用が生じ外部労働力の流入などもあり、街はかつてない好景気に湧きました。


                      木村産業の正面ファサード外壁にある火薬とはダム建設に当たって岩盤を崩すダイナマイトなどの火薬類を取り扱っかっていることを示し、同社は当時この取り引きで大きな利益を得たといいます。


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                      外壁は当時としてはまだ高級建設材だったセメントを使用したモルタル仕上げになっています。随所に源造が腕を振るった造形が施され独特の偉容を誇っています。

                      源造は店内の装飾も手掛けていて、2階の事務所天井丸柱の柱頭「龍」なども制作しています。


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                      木村産業の玄関入り口の欄間にステンドグラスが飾られています。

                      当時としては地方都市の社屋にこうした装飾が見られることはそう多くはなく、やはり電源開発がもたらした経済効果の名残りが感じられます。


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                      庄川は、岐阜県高山市の山中峠(1,375m)の湿原を水源とし、合掌造りで世界遺産に登録されている白川郷や五箇山の集落を通り、砺波市庄川町に来て水量豊かな流れとなります。


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                      大正2(1913)年庄川町を訪れた富山県氷見市出身の浅野総一郎(1848−1930年)は、この流れを見て 「おお、黄金が流れる。黄金が流れている」と叫んで、ダム式発電所の計画を立てたといいます。

                      浅野総一郎はコークスやコールタールの廃物をセメント製造の燃料として用いる方法を開発し、浅野セメント(後の日本セメント、現在の太平洋セメント)を立ち上げ「明治のセメント王」と呼ばれ、一代で浅野財閥を築いています。

                      第1次大戦後の未曾有の好景気に沸いた産業界の中にあって浅野はかねてから庄川流域での発電事業に着眼していました。


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                      同5(1916)年には庄川の水利権使用を県に申請し、同8年に電源開発への水利権使用が認可され、同15(1926)年にダム工事は正式に許可されます。

                      しかし、建設工事開始を目前にして大手木材業者が「発電工事認可取消し」の訴訟を起こします。

                      明治期から五箇山や飛騨山地の木材を運び出すのに庄川の流れを利用した流送(木材の川下げ)を行っていたからです。

                      以後8年間も裁判で争うこととなり、激しい訴訟合戦と実力行使で対立が深まりました 。


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                      浅野の当初の計画は、庄川流域の電源開発で得られた発生電力を伏木港付近の変電所へ送り、伏木港工業地帯のセメントや製鉄製造工場などへの送電しようとするものでした。


                      さらに、高岡−伏木間の運河が開削された場合、運河両岸に建設される新設工場の電力需要に応えようとするものでした。


                      幾多の曲折がありましたが、昭和5(1930)年に日本初の発電用大型ダムとして小牧ダムは完成します。高さ79m、堤頂長300mあり、当時「東洋一」の規模を誇りました。


                      同年中に湛水を開始し、発電所も運転稼働しました。



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                      小牧ダムの開発がもたらした地方経済への波及で、竹内源造がらみの造形物がもう一つあります。

                      青島地区の用水に架かる一本橋の親柱に飾られていたライオン像です。制作年は不明ですが、昭和7(1932)年から翌年にかけて源造は庄川町に滞在しあちこちで仕事をしていますので、この頃の作と見られます。


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                      ライオン像は橋の四隅の親柱に飾られていましたので、4基ありました。


                      橋の改修に伴い庄川町役場前(現在の庄川支所庁舎)の
                      駐車場の一隅に保存されていました。


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                      現在は、3基が「となみ散居村ミュージアム」に移設され、どういうわけか1基のみが
                      駐車場の隅に置かれています。

                      手入れもされているようには見えず、深い苔が被い始めています。



                      2014.06.28 Saturday

                      鏝絵細工を探す旅 〜 源造が制作した納骨仏といわれる庄川大仏(富山県砺波市)

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                        砺波市庄川(しょうがわ)町金屋の光照寺の境内に、竹内源造が造った庄川大仏があります。


                        くすんだ緑青色をしていますので青銅製に見えますが、鉄筋コンクリート製の阿弥陀如来座像です。



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                                                                             高岡大仏(高岡市)、小杉大仏(射水市)と並んで越中三大仏の一つとされ、金屋大仏、十万納骨大仏とも呼ばれています。



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                        別名で「十万納骨大仏」と呼ばれるのは、10万人信徒の死没者慰霊の供養仏(骨仏)から来ていると言われます。


                        つまり、実際に10万人分の遺骨が納められているかどうかは定かではありませんが、多くの部分遺骨を粉にしてコンクリートに練り混ぜそれを御仏の顔部分の材にして供養しているそうです。


                         

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                        光照寺の30代住職が大仏建立を発願し、北海道から近畿まで広がっていた信徒から浄財を集め建造に取りかかったと言います。


                        大仏制作の依頼がどのような経緯で源造の下に舞い込んだのかは明らかではありませんが、信仰心に篤い源造は精魂込めて制作に当たったことは間違いありません。



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                        高さは総体で10.1m(大仏本体は6.3m)、顔部分だけでも2.2m、肩幅3.9m、胴幅が4.5mあります。



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                        大仏が建立された昭和7(1932)年までに国内にはコンクリート製の大仏は、大分・別府の別府大仏など数える程しかありません。セメントがまだ高価な建築資材だったからです。


                         

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                        ちなみに別府大仏も納骨大仏で、庄川大仏建立の4年前の昭和3(1928)年に建立され、傷みが激しくなったことから同64(1989)年に取り壊されています。



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                        庄川大仏が建立以来、80年を経ても今なお大きく傷んでいないということは、制作に当たった
                        源造がセメント、砂、水の配合技術を研究し長持ちさせる術を体得していたからと言えるようです。



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                        庄川大仏は冬期の寒冷で部分的に割れ目が入ったことなどから、昭和58(1982)年に一度改修しています。

                        お年寄りの氏子の話によるとこの時、顔部分が以前より膨らみ源造の初期作品が変わってしまったと言います。


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                        それからさらに30年以上経ち、損傷が激しくなってきていることから再度改修工事が見込まれています。


                        今度の修復に際しては、源造の原型を崩さないよう願いたいところです。



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                        大仏の前に源造が造ったコンクリート製の香炉と賽銭箱があります。香炉に唐獅子と鳳凰を描き、賽銭箱に鬼の座像を模っています。


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                        鬼が抱えてる蓮の葉の底に穴が開いていてそこに賽銭が落ちて行く構造になっています。



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                        さらに座像の4面に源造は、鳳凰、群龍、唐獅子を鏝で描いています。いずれも力強く躍動する姿を絵にしています。


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                              (源造が庄川大仏の制作依頼を受けて描いた下図が射水市の竹内源造記念館に保存されています)



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