2015.01.08 Thursday

スポンサーサイト

0

    一定期間更新がないため広告を表示しています

    2015.01.16 Friday

    レンガ積み職人が遺した建造物 〜 愛知県編   刈谷の最も古い小学校の昭和初期の校舎とレンガ塀(刈谷市)

    0

      刈谷市城町1丁目に周囲をレンガ塀で囲った建物があります。

      建物はレンガ塀が高いのと樹木の緑に覆われ見えにくいのですが、正面入り口に回ると「刈谷市郷土資料館」の看板が掛かっています。



      Img_5950


      この建物は昭和3(1928)年に亀城(きじょう)尋常高等小学校(現 刈谷市立亀城小学校)の本館として建てられたものです。


      亀城とはかつての刈谷城の別名で、小学校は三の丸の跡地に建てられました。


      レンガ塀もこの時、取り付けられています。


      Img_5953


      亀城小学校は明治6(1873)年に藩校の文礼館を継承し、刈谷町(当時)の最初の小学校として創立されました。



      Img_5955


      建物は側鉄筋コンクリート造2階建て、屋根は瓦葺き、建築面積は748屬△蠅泙后


      パットレスを付けた玄関ポーチがあり、外観にバロック様式を採り入れた和洋折衷になっています。


      Img_5956


      元愛知県の技手で当時、刈谷に建築事務所を構えていた大中 肇(1886−1950年)が設計しています。大中は西三河地方から知多半島にかけて学校、医院、住宅などを設計しています。


      Img_5957


      昭和55(1980)年、新校舎建て替えに伴って当初取り壊す方針でしたが、卒業生や市民の働きかけもあり資料館として存続することとなり、平成11(1999)年には、国の登録有形文化財に登録されています。



      Img_5958


      刈谷市に遺る数少ない昭和初期の洋風建築としての郷土資料館内には8つの展示室があり、刈谷市の歴史や考古資料、民族資料などを展示しています。


      2015.01.15 Thursday

      レンガ積み職人が遺した建造物 〜 愛知県編   明治期の遺産が現役で活躍するJR半田駅にある油庫(半田市)

      0
                            
        愛知県の知多半島の北半分の東側を武豊線(たけとよせん)というJR鉄道路線があります。

        大府駅(大府市)から武豊駅(武豊町)までの14.6kmを結んでいて、途中駅に半田駅があります。



        Img_6007


        武豊線敷設の歴史は古く、明治19(1886)年まで遡ります。明治時代、東京−大阪間の鉄道建設が計画された時、当初は中山道ルートで建設することになっていました。


        Img_5995


        中部地区ではこの中山道線建設のため、武豊港から陸揚げした資材輸送のために鉄道が敷設されます。

        現在武豊線となっている区間を含めた武豊駅−木曽川駅間が開通します。


                  Img_5994
                    (ホーム屋根のトラス構造に部分的な装飾も見ることができます)

                            
        その後、同43(1910)年になって跨線橋を造り、2年後に駅を再拡張し駅舎を増改築しています。


                   Img_5993_2

        この時の跨線橋が残り現在も使用されていて、全国のJR駅の中で最古の跨線橋になるそうです。



        Img_5992


        8本の脚柱が跨線橋を支えていますが、1世紀を越えて乗降客を守ってきたことになります。


        Img_5997


        武豊線は平成27(2015)年に電化される予定ですが、跨線橋の高さは電化規定に触れるらしいのですが、防護措置を行って使用を続けることにしています。


        Img_6003


        跨線橋に隣接してレンガ造の油庫(ランプ小屋)があります。

        跨線橋建設の次年の明治44(1911)年に造られています。

        寄棟の油庫というのも初めて見たような気がします。


        Img_5990


        現在ホームは改札口を入って跨線橋を渡ったホームが島式で使用されていて2番線が下り(武豊方面)、3番線が上り(大府方面)になっています。

        かつては1番線もあったのですが、現在は使用されておらず欠番になっています。


                  Img_6000

        油庫は旧1番線ホームにあるのですが、1番線の撤去でフェンスに囲まれホーム内から油庫へは近づけません。

        駅外に駐車場があるのですが、そちら側から覗けるようになっています。


        Img_5999


        駅舎は何度かのリニューアルはしているものの、明治45(1912)年に建築された木造駅舎になります。

        ですから、半田駅は明治期の鉄道遺産が現存し、現役で使用されている稀な駅といえます。



        2015.01.14 Wednesday

        レンガ積み職人が遺した建造物 〜 愛知県編   学生たちの小腹を満たしたパン店の物品庫(愛知県 豊橋市)

        0

          前回掲載した県立時習館高校の近くの田原街道沿いに、コンドーパン南栄蟹原店があります。

          赤地に白文字で屋号だけを書いた大きな看板がかかった店舗の隣りに、レンガ造の建物があります。


          Img_5907


          店の中のショーケースに並んでいるのは、菓子パン、サンドイッチなどのほかに、おにぎり、ヤキソバ、カステラまで陳列しリーズナブルな価格で販売しています。

          戦前は周辺に軍の施設が多く、戦後はその敷地が文教地区になり時習館高校のほかにも愛知大学や工業高校など学校施設が建ち並びます。

          小バラを空かせた兵士や学生が気軽に立ち寄り、買い食いする情景が浮かんで来ます。

          店舗の奥に畳敷きの座敷があり、買ったパンや焼そばを奥の座敷で食べる事が出来ます。

          学生たちは「コンパン」と呼んで来たそうです。


                   Img_5908

          明治40年代の古地図に載っていてこの頃から営業していた古いパン屋さんのようです。しかし、レンガ建物はいつ出来たのか、なぜ造られたのか、詳しいことは分かっていません。

          戦後はしばらく物品庫として使用されていたそうですが、現在は住居になっているそうです。確かに煙突も見えます。


          2015.01.13 Tuesday

          レンガ積み職人が遺した建造物 〜 愛知県編   薄墨桜が花咲く伝統校を偲ばせる旧豊橋中学の正門(豊橋市)

          0

            豊橋市富本町に愛知県立時習館高校があります。明治26(1893)年に開校した私立補習学校・時習館が前身です。


            Img_5919


            時習館の校名は吉田藩主・松平信復が宝暦2(1752)年に創設した藩校の時習館に因みます。

            孔子の論語にある「学びて時にこれを習う(学而時習之)」に由来しているそうです。



                      Img_5912

            明治26(1893)年に私立補習学校時習館が創設され、同28(1895)年に豊橋町立豊橋尋常中学時習館と改称するとともに校旗を制定しています。

            さらに同33(1900)年に愛知第4中学校となり、大正11(1922)年に豊橋中学校へと改称します。



                     Img_5917

            昭和20(1945)年、豊橋市は米軍による空襲を受け多数の家屋を焼失しましたが、中芝にあった豊橋中学校(当時)の校舎も被災して失われます。

            空襲で焼土となった豊橋中学校で焼け残ったのはレンガ造の校門だけでした。

            同21(1946)年に豊橋陸軍予備士官学校砲兵隊跡の現在の校地に移転します。


            Img_5915

             

            近くにある銘板に 「愛知県立時習館高等学校創立120周年記念事業 旧豊橋中学校正門 2012年8月 1906年8月中柴の地に竣工、1953年10月移築」と短く記されています。

            これからすると、焼け残った校門も保存することになり昭和28(1953)年の
            創立120周年記念事業として移築、整備したことになります。


                         Img_5913_2

                                

            門標に「愛知縣豊橋中學校」の文字も見えます。


                                

            Img_5909

             

            時習館高校の正門をくぐって間もなくのところに、1本の桜の木があります。高さが約13m、幹周り約120cm、推定樹齢20年の薄墨桜の若木です。



                    Img_5920


            薄墨桜はエドヒガンザクラの一種で、蕾のときは薄いピンク、満開時に白、散りぎわには特異な淡い墨色になるそうです。淡墨桜の名はこの散りぎわの色から来ているそうです。



            Img_5923                       (現在の時習館高校の正門)


            ここにも銘板があり、次のように書かれています。


            「薄墨の桜 この桜は岐阜県本巣郡根尾谷にあり樹齢1500年、国指定天然記念物  薄墨桜の実生木である。吾々は卒業50周年を記念し母校の庭にこれを植えるものである 平成3年3月 豊橋中学校42回卒業生一同」



            2015.01.12 Monday

            レンガ積み職人が遺した建造物 〜 愛知県編   豊橋の街に電気を送り届けた旧牟呂発電所跡(豊橋市) 

            0

              豊橋市の市内を縦断する形で用水が流れています。この用水は牟呂(むろ)用水といい、田植え時期には満々と水を讃え水田を潤すといいます。

              現在の牟呂大西町の用水路にレンガ造の樋門跡が遺っています。愛知県内で最初の水力発電所になる旧牟呂発電所の跡です。


              Img_5926


              これは明治27(1894)年に初代豊橋町長や当時の豊橋商業会議所の会員らが発起人になって設立した豊橋電燈株式会社が、翌28年に造った水力、火力併用の発電所の遺構になります。

              発電出力は15kwで陸軍第18連隊などに電気を供給したといいます。当初予定していた出力に足りなかったため火力発電の施設を併設していたそうです。

              この旧牟呂村大西一帯は現在、区画整理事業も進み新興住宅地として新しい街区になっていますが、当時はもちろん山林と田畑が広がる郊外でした。


              Img_5925


              豊橋電燈株式会社は、名古屋など主要都市で電灯が普及しているのを見て今後の豊橋(当時は渥美郡豊橋町)の発展には電灯事業が必要だと考えて商議所メンバーが設立しました。

              当初は別地域に水力発電所を造り送電したのですが、水力不足のため安定した送電ができなかったといいます。

              このため水力発電機を改造した上で完成したばかりの牟呂用水に移し、当初計画では出力30kwを予定していたのですが、ここでも水量不足に悩まされ火力発電設備を追加するようになります。


              Img_5927


              豊橋電燈は明治39(1906)年に動力用電力の販売も行うため社名を豊橋電気に変更します。そして需要の増大を見込んで第2の発電所建設に乗り出し、同41(1908)年に豊橋の北方に見代発電所を完成させます。

              当初の出力は250kwで、10kvの電圧で変電所までの約25kmを送電し、ここで降圧して豊橋の町中へ配電しました。

              この後、豊橋電気は豊橋への帝国陸軍第15師団の設置や商工業の発展に伴い事業を発展させていきます。電力供給地域も広げ近隣町村にとどまらず静岡県内まで供給範囲を広げます。



              Img_5929


              大正4(1915)年に牟呂発電所は80kwの出力ができるまで増強されていましたが、他の水力発電所で十分な供給態勢が整っていたことから廃止されます。

              豊橋電気は明治43(1910)年に当時の筆頭株主だった福澤桃介(1868−1938年)を社長に迎えます。

              福澤は大正9(1920)年に大同電力(現 関西電力)、東邦電力(現 中部電力)を設立し「日本の電力王」と呼ばれた実業家です。


              Img_5930


              順調に業績を伸ばしてきた豊橋電気は、第一次世界大戦後の恐慌で経営が悪化します。福澤は自身が社長を兼任していた名古屋電灯と豊橋電気を合併させます。

              豊橋市の市会や株主が反対する行動を取りますが、結局合併が覆ることはありませんでした。

              豊橋電気を吸収合併した名古屋電灯はそのご関西電気に改組、大正11(1922)は東邦電力へとなっていきます。



              2015.01.11 Sunday

              レンガ積み職人が遺した建造物 〜 愛知県編   旧軍都に残る数少ない歩兵第18連隊の足跡(豊橋市)

              0
                 
                かつて豊橋市は明治期から昭和にかけて軍都と呼ばれていました。

                日露戦争で日本は12個師団総てを動員した為、駐留師団が本土にいないという異常な事態となります。そこで急ぎ新たに4個師団が相次いで創設されます。

                明治38(1905)年、豊橋市に第15師団が編成されます。


                Img_5893   (明治31年に新設された歩兵第18連隊営門跡=現豊橋公園正門。左手の屋根付き小屋は歩哨舎で当時の姿を残す数少ない遺構になっています)


                これに先立ち明治17(1884)年に名古屋鎮台に第1から第3大隊が設置され、同19(1886)年までに豊橋に移駐したのが軍都の始まりになります。

                同21(1888)年の第3師団が創設されたのに伴いこれに所属しましたが、第15師団が編成されたのに伴い所属変更になります。


                Img_5892


                しかし、第一次世界大戦後の世界的な軍縮の機運広がりと大正12(1923)年に起こった関東大震災の復興費用の捻出が深刻になり、大正14(1925)年になって軍事費の削減に迫られます。

                政府は第15師団を含めた4個師団(高田、岡山、久留米)の廃止を決めます。約3万4,000人の将兵と軍馬6,000頭を削減した
                「宇垣軍縮」です。

                これによって
                第15師団は第3師団に復帰します。


                Img_5894   (明治6=1873年の失火で城内の多くの建物が焼失しました。戦後の昭和29=1954年、隅櫓が再建されました)


                歩兵第18連隊の人員規模は、約4千人だったといいます。兵営は吉田城跡に置いていました。

                幕藩時代、吉田城は東海道の重要な防衛拠点の1つでした。このため江戸幕府の老中、大坂城代、京都所司代格の3万石から8万石の有能な譜代大名が城主に選ばれたといいます。

                出世城などと呼ばれ国替えも頻繁に行われ、最後に入ったのは大河内松平家でした。明治2(1869)年版籍奉還したことから明治政府下の豊橋城となり、同4(1871)年に敷地は兵武省の管轄となります。



                           Img_5896                              (歩兵第18連隊記念碑)


                 明治6年城趾内に名古屋鎮台の豊橋分営所が設置され、同8(1875)年に大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が置かれます。

                昭和19(1944)年2月の動員下令を受け3月にグアム島へ向かいます。しかし、その途中輸送船・崎戸丸は米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没します。

                連隊長以下2,200名が死亡、救助されて生き残りサイパン上陸を果たしたのは約1,800名だったといいます。




                          Img_5900                  (公園内にある「連隊記念碑」。このほかに歩兵第229連隊、第118連隊の記念碑があります)


                6月上旬になると第2、第3大隊の2個大隊がグアムら移駐します。第1大隊もサイパンから移駐することになっていたのですが、米軍の空襲が始まりグアムへの移動は断念しなければなります。

                6月20日になって米軍はサイパン島に上陸を始めます。グアム移駐に間にあわなかった第1大隊、第3迫撃砲中隊、衛生隊はこれに遭遇します。その後の夜間戦闘で連隊長以下の大部分が戦死します。

                7月21日、グアム島に移った連隊兵士は米軍上陸の防御戦に臨みます。戦車第9連隊の1個小隊を先頭に残りの兵力で向かい合いますが、集中砲火を浴びて連隊長以下大部分の将兵が戦死、玉砕します。

                第18連隊の玉砕とともに豊橋の軍都としての役割も終えます。
                       



                Img_5903


                この公園内で出会ったお年寄りからこんな話を聞きました。「戦後、取り残された木造の兵舎を教室にして学校の授業を再開したのですよ」

                戦後の混乱も落ち着きを取り戻してから第18連隊の兵営は取り壊され、豊橋公園として整備され、美術館やスポーツ施設、文化会館などが建設され市民の文化ゾーンとなっています。



                Img_5904


                歩兵18連隊の跡も消えていく中で、国道1号に面した豊橋市役所の立体駐車場のある敷地内に、レンガ造の歩兵18連隊西門が残っています。歩道からも見えます。


                明治18(1885)年の連隊創設から同31(1898)年まで、歩兵第18連隊営門として使用されていました。


                        Img_5905


                近くに説明板があり「これは昭和34年9月 国道1号線工事のために移転し復元した門である  昭和39年7月 歩兵第18連隊西門保存会」と短く記されています。


                以前は木製の門扉もあったそうですが、現在は木扉の柱部分の一部が残るだけです。門柱に折れ釘が残っていますが、おそらくは歩兵第18連隊と書かれた看板を抑えていたものと思われます。

                 

                2015.01.10 Saturday

                レンガ積み職人が遺した建造物 〜 愛知県編   300年の伝統を誇る豊石神社の祭礼に掲げられる幟を収納する蔵(愛知県武豊町)

                0

                  半田市や常滑市に隣接し三河湾に面する沿岸に工業地帯が広がる武豊町(たけとよちょう)は、竜宮や助けた亀の背に負ぶさって、乙姫の待つ竜宮に出かけたに由来する負亀といった地名や、浦島屋敷、浦島川、浦ノ島、乙姫橋などが残り「浦島太郎伝説の町」としてPRしています。

                  同町明神戸(みょうじんど)に豊石神社があります。



                  Img_5985


                  明治11(1878)年、長尾村と大足村が合併し武豊村になりましたが、それぞれの村の産土神の武雄神社と豊石神社から頭文字をとって村名にしたといわれる一方の神社です。


                  御祭神は、日本武尊、姫大御神、須佐之男命になります。



                  Img_5984


                  参道に石灯篭が立ち並び、入母屋造り、瓦葺きの拝殿、檜皮葺の本殿があります。

                  拝殿の左手にレンガ造の建物があります。



                  Img_5974


                  神社境内にあるレンガ造の建造物については以前にも掲載したことがありますが、この時は茶黒の焼き過ぎレンガを使っていてそう違和感もなかったのですが、豊石神社境内に建っているのは赤レンガ造です。


                  多少とも異質な感があります。



                  Img_5977

                   

                  撮影していると、参詣している年配の女性に会いました。


                  軽装姿から地元の人と分かりましたので、何を収蔵しているのか聞いてみました。



                  Img_5978

                   

                  すると「お祭りの時の幟(のぼり)などの道具類が入っている」といいます。例年7月に豊石神社で、300年の伝統がある「蛇車まつり」が開催されます。



                  Img_5980


                  日中に蛇車と呼ぶ11基の山車を地区内を曳き廻し、陽が落ちてから神社に曳き込まれた山車の上から蛇が火を噴くように「蛇ノ口花火」と呼ばれる手筒花火が山車の上から左右に大きく振られ、山車が前後に動くといいます。



                  Img_5982


                  御祭神の姫大御神が衣浦湾に棲む龍神の娘が人間に化身し、若武者に想いを寄せたものの結ばれぬ恋に命を落とし、その霊を慰めるためにからくり花火が考案されたのが手筒花火の由来するそうです。


                  蛇ノ口花火は龍神の目玉に見立て、山車の上に乗せられた蛇の口から火を噴く様子が幻想的だといいます。 


                   

                  Img_5981

                   

                  こうした話を聞いて当初抱いた違和感も薄らぎ、祭礼小道具を大切に収納するためのレンガ蔵に合点した思いでした。

                   

                  2015.01.09 Friday

                  レンガ積み職人が遺した建造物 〜 愛知県編   財を成した岩瀬が地域文化の向上を願って建設した図書館(愛知県西尾市)

                  0

                    西尾市亀沢町に市立図書館がありますが、その裏手に平成15(2003)年に国内で初の「古書ミュージアム」としてリニューアルし、4年後の同19(2007)年に博物館法に基づく博物館として登録を受けた岩瀬文庫新館があります。

                    その並びにレンガ造の岩瀬文庫があります。



                    Img_5948          (中央から右手に見える岩瀬文庫新館の奥手にレンガ造の岩瀬文庫が見えます)


                    西尾市民が「赤レンガの書庫」と呼ばれている岩瀬文庫は、明治41(1908)年に西尾の実業家、岩瀬弥助(1867−1930年)が私財を投じて創設した私設の図書館です。


                    岩瀬弥助は肥料を商って蓄えた資金を土地と株式に投資し、巨額の財をなしたといいます。その一方で赤十字や学校建設などに多額の寄付をするという慈善事業家の顔も持っていて、この文庫開設も地域社会の文化向上を願って開設されたものと見られています。


                    建物は当初、土蔵造りでしたが大正6(1917)年から増設工事が行われ2年後に現存する形になりました。現在は西尾市の施設になっています。



                    Img_5940


                    地上3階建て、地下1階の建物で、外壁はレンガ造ですが表面に素焼きタイルを貼って小口積みしたように見せています。タイルは常滑のメーカー・陶栄が制作しています。


                    外からの火を防ぐためレンガや化粧タイルを使用したほか、窓を鉄扉にしていました。鉄扉は現在、アルミサッシに取り換えられています。



                             Img_5939


                    また内壁に漆喰を厚く塗っていて季節や昼夜の温度変化を防ぐ構造になっています。


                    内部は床と小屋組みは木造の混構造で、床は湿気がこもらないようにスノコ状になっています。


                    書架は蔵書の大きさや形態に合わせオーダーメイドで高さ、幅、奥行を変えています。



                    Img_5932    (建物にアクセントをつけるため窓の上部や窓台に石材を用い、遠目からも変化のある外観になっています)


                    当時の最新の技術を動員した設計は名古屋に設計事務所を開いていた西原建築工務所で、代表は福岡県技師から移籍した元愛知県営繕課技師の西原吉治郎(1868〜1935年)です。


                    岩瀬が収集した蔵書は重要文化財の『後奈良天皇宸翰般若心経』をはじめ、古典、古書から近代書、国内のほか中国や朝鮮のものを含め8万点余りになるそうです。




                              Img_5945


                    昭和5(1930)年に岩崎弥助は亡くなりますが、遺言によって文庫は財団法人になります。


                    しかし、同12(1937)年の法人基金の国家への献金や同20(1945)年の三河地震で被災して運営が困難に直面します。


                                       

                    Img_5935


                    蔵書の散逸を憂慮した市民の声を背景に、文庫の土地と建物は財団から市へ寄贈、蔵書は市が一括購入することなり、現在の西尾市岩瀬文庫として引き継がれていくことになりました。 

                     

                    岩崎弥助についてはこちらに詳しく書かれています。

                     

                    2015.01.08 Thursday

                    レンガ積み職人が遺した建造物 〜 愛知県編   フリークラッシックをはじめ色いろな建築様式を採り入れた旧岡崎銀行(愛知県岡崎市)

                    0

                      岡崎市の旧東海道は「二十七曲がり」と呼ぶ左右に何度もクランク状に折れ曲がる道があります。

                      これは道を直角にジグザクにすることによって敵の侵入を容易にさせないための枡形(ますがた)という街区造りでした。


                      Img_5782   (南側の正面玄関は2階部に向かって伸びる2本の柱や赤レンガと白御影石を組み合わせたデザインなど当時の流行を採り入れながらフリークラッシック様式で仕上げています)


                      天正18(1590)年から慶長5(1600)年にかけ岡崎城主を務めた秀吉の家臣・田中吉政が整備したといわれています。


                      Img_5781


                      この二十七曲がりに面した伝馬通り1丁目に旧岡崎銀行本店(現 岡崎信用金庫資料館)があります。


                      Img_5780


                      赤レンガに地元・岡崎の御影石をふんだんに使用した重厚な本格的な洋風建築物です。



                               Img_5783                  (辰野式の特徴の尖塔屋根があります。戦災で失われましたが、復元されました)


                      ルネッサンス様式を基調に、中世のゴチック様式の造形要素を加味したフリー・クラッシックの様式にセセッションを一部に加えています。


                      Img_5785

                       

                      明治23(1890)年に岡崎の有力者が設立した岡崎銀行が本店ビルを建設するため、設計を鈴木禎次(1870−1941年)に依頼し大正6(1917)年に竣工しました。

                        


                               Img_5786               (2階窓上のアーチとキーストーンに当時流行したセセッション様式が採り入れられています)


                      鈴木は東京帝大工科大学で辰野金吾(1854−1919年)の下で学び、卒業後、名古屋を拠点に東海地方の近代建築に関わりました。



                      Img_5787


                      岡崎市は昭和20(1945)年の戦時中、米軍戦闘機の空襲を受け市域の3分の1が被災します。旧岡崎銀行本店の建物も内部は焼失したものの外郭は残りました。



                      Img_5788


                      戦後になって廃墟状態になっていた旧岡崎銀行本店の建物を、岡崎商工会議所が買い取ります。


                      同会議所も戦災で建物を焼失していました。



                      Img_5791


                      昭和25(1950)年に補修を終え会議所会館として同51(1976)年まで使用されました。


                      手狭まになったことから商工会議所は新たに会館を建設し移転します。



                      Img_5792


                      当初、老朽化も進んでいたことから取り壊しが予定されていましたが、保存を望む声も高まり、岡崎信用金庫が土地・建物を商工会議所から譲り受けます。



                      Img_5799


                      岡崎信用金庫は外壁を保護するため内側から鉄筋コンクリートで固めて補強します。


                      戦災で失われた角型の尖塔屋根、ルネッサンス様式の箱型屋根、煙突などを建設当時の姿に復元します。


                       

                                Img_5802


                      その上で昭和57(1982)年に岡崎信用金庫資料館として公開されています。


                       
                      2014.12.23 Tuesday

                      レンガ積み職人が遺した建造物 〜 群馬県編(供   雑然とした中に在った「わ鐡」の油庫(桐生市)

                      0

                        桐生市相生町2丁目にある相老(あいおい)駅は、わたらせ渓谷鐡道のわたらせ渓谷線と東武鉄道の桐生線が乗り入れて接続駅になっています。

                        画像の右手に見える高層建築物は県営団地です。


                        Dsc_0179


                        わたらせ渓谷線は、群馬県桐生市の桐生駅と栃木県日光市の間藤駅を結ぶ約44kmの路線で、JR東日本・足尾線を引き継いだ第3セクターが運営しています。


                        ディゼルカーが渡良瀬川上流の渓谷に沿って走り、新緑、紅葉など季節を通しての渓谷美が堪能できます。一方、最上流部の足尾近辺では、未だ禿山が連なり過去の足尾鉱毒事件による鉱毒被害の影響が現在も残ります。

                                   Dsc_0172

                        わたらせ渓谷鐵道の通称は、「わ鐵」ですが、「わた渓」と呼ぶ沿線住民もいます。


                        群馬、栃木両県にまたがって17駅があり、12の無人駅に公募のボランティア駅長「ふるさと駅長」がいます。



                        Dsc_0173


                        相老駅は、明治44(1911)年に足尾鉄道の相生駅として開業しています。


                        駅名は当初、旧相生村の地名をそのまま持って来て相生駅としていたのですが、兵庫県の相生駅と重なることから翌年、相老に変更したといいます。


                        Dsc_0174


                        大正2(1918)年に足尾鉄道が国有化され、国有鉄道と東武鉄道の駅になります。

                        現在も改札口は2社で共用していますが、駅業務はわたらせ渓谷鐡道が行っています。



                        Dsc_0176


                        ここに油庫があります。入り口がアルミサッシの開き戸になっているということは、現在も使用されているのでしょう。

                        それにしても、周りに物が無造作に置かれたり、放置自転車があったり…。写真を撮るにも雑然とした風景の一部に入って来ます。



                          ……… ……… ……… ……… ……… ……… ……… ……… ……… ……… ……… ………



                        今年もご覧いただきましてありがとうございました。本年はこれにて打ち止めということに…。


                        明くる年ですが、これまでの東日本、北日本地方偏重から、少し西へ向かおうかなと思っています。


                        といっても、まだまだ東、北日本エリアに未踏の地が残っています。ですから、西へ行ったり、北へ向かったり、かと思うと突然、南の地方が載ったりするかもしれません。


                        どうぞ、新しい年もお付き合いください。


                        それでは、よいお年をお迎えください。



                        Calendar
                            123
                        45678910
                        11121314151617
                        18192021222324
                        252627282930 
                        << June 2017 >>
                        PR
                        Selected Entries
                        Categories
                        Archives
                        Recent Comment
                        Links
                        Profile
                        Search this site.
                        Others
                        Mobile
                        qrcode
                        Powered by
                        30days Album
                        無料ブログ作成サービス JUGEM