2015.01.08 Thursday

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    2013.01.29 Tuesday

    鬼師が遺した飾り瓦  家紋からたどり着いた瓦鍾馗(須坂市)

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      須坂市博物館が12年前に、市内に残る蔵の上に乗る屋根瓦を特集した企画展を開いています。そのときに小冊子を作り、須坂での瓦の変遷や職人の仕事について写真入りの解説をしています。


      その中に、小屋根の上に乗っている瓦鍾馗の写真がありました。写真で見る限りなかなかいい出来の鍾馗さんです。「これはぜひ見てみなければ」と探訪に出かけました。 



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      冊子の写真は家紋を雲水が囲み、その上に瓦鍾馗が乗っていて「新田町 K家」とあります。これだけ手掛かりがあれば、すぐに逢えるだろうと思ったのですが、そうはいきませんでした。



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      集落と近隣にK姓の宅は7軒ほどあり、くまなく探したのですが見当たりません。新築、改築したようなK家もありません。


      となると、何らかの事情で屋根から降ろしてしまったかと探索を断念するしかありません。


      外に出ていたご夫婦がいましたので、冊子を示して見たことがないかどうか尋ねました。そうすると「Kさんち(家)はこの家紋じゃない。これはAさんちじゃないか」といいます。


      ということで、最後にAさん宅を訪ねると、広い玄関の隅に鍾馗さんがあるではありませんか。あの冊子に載っていた鍾馗さんです。やっと探し当てられたときの喜びは格別です。


           

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      Aさん宅では近年家を新築し、「いったん降ろした際に重かったもので傷めてしまい、再び上げることができなくなったため玄関に置いている」とのことです。


      それにしても立派な鍾馗さんです。よく見ると、台座の部分に瓦屋の屋号であるヤマ印に一の文字があります。



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      須坂の蔵には飾り瓦もいろいろとあるのですが、大黒、恵比寿が多く鍾馗はなかなか見かけることはありません。


      上も下も同市内で目にした鍾馗ですが、最近上げられた型抜き製造されたものです



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      冊子の誤記で回り道をしたとはいえ、家紋が縁で数少ない須坂の鍾馗と巡り合え、すぐ目の前で見ることができたことは収穫でした。屋根から降ろした鍾馗さんが、これからも玄関で悪霊払いしてくれることでしょう。



      2013.01.28 Monday

      鬼師が遺した飾り瓦    上田市の北国街道沿いにある瓦鍾馗(上田市、青木村)

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        六文銭の旗紋で知られる真田昌幸(幸村の父)は、上田城を築き、約15年後の慶長3(1598)年、その城下に北国街道が通りました。

         
        しかし、2年後の慶長5年に豊臣側と徳川側に諸国を二分する天下分け目の関ケ原の戦いが起こり、真田家は西軍・豊臣側に付きます。真田軍は昌幸と幸村の采配で、東軍・徳川側の援護のため中山道経由で関ヶ原へ向かう家康の息子・徳川秀忠の大軍を領内で長時間引き留めます。

         
        このため、秀忠は関ケ原の戦いに間に合わないという結果を生みます。真田家は関ケ原の戦いに勝利した徳川家の怒りを買い、その後、上田城は徹底的に破壊されます。



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        現在残っている上田城祉は、後年になって上田を治めた千石氏によって築かれたものです。


        上田市を通る北国街道は、百万石の有力大名・加賀藩の参勤交代や佐渡金山から採掘した金を運ぶ要路として、五街道に次ぐ重要な街道とされていました。善光寺参りに向かう庶民も頻繁に往来しました。


        こうしたことから上田は城下町というより、北国街道の宿場町としての装いを濃くしていきました。



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        北国街道の上田宿は柳町にありました。旅籠や商家が軒を並べるようにできた宿で、現在も200mほどの直線に伸びた街区に、往時の姿を偲ばせるように軒の高さが同じ家並が整然と並んでいます。


        最盛期は、呉服屋が25軒もあって賑わったそうです。街筋に柳の木が多かったことから柳町の名がついたといいます。


        その宿の外れの出入り口になる家の大棟に鍾馗の飾り瓦が上がっていました。


        この鍾馗さん、よく見るとつきものの剣を持っていません。手首の状態から剣が欠落したようにも見えません。そして、何かに腰を落としているポーズにも見えます。



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        上田市下塩尻は、かつて製糸工場や養蚕農家が林立し、蚕都・上田の名を全国に知らしめた地区です。


        旧北国街道が国道18号と並んで通っていて、少し中に入ると瓦葺きの大きな屋敷も残っています。


         

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        6年前に、愛知県在住の瓦鍾馗研究家の小沢正樹さんが瓦鍾馗の探索に上田市と隣りの青木村を訪れています。小沢さんから位置情報をいただき、見て回りました。


        1体は西塩尻駅の近くにあり(上の画像)、そしてもう1体は小沢さんが周辺を探索して発見した鍾馗さんです。その鍾馗さんが下の画像です。


        こちらの主人の話では、ここの家の前の通りが旧北国街道で、宅の中庭に昔の番所があったといいます。



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        近隣では通称「番所のうち(家)」と呼んでいたということです。


        瓦鍾馗については書き記されたものがなく、いつころに屋根に上がったものかは分からないのですが、「親から、自分が生まれた昭和2(1927)年には上がっていたという話を聞いています」といっていました。



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        次に向かったのが青木村です。小沢さんが訪れて以来、その後の消息が分からなくなっていたのですが、しっかり小屋根の上で厄神払をしていました。


        この鍾馗さんは、大正14(1925)年にこちらの屋敷を描いた水彩画のなかに小屋根の同じ位置に描写されていることから、このときにはすでに上がっていたことになります。少なくも90年を超えてこちらの家を見守り続けてきたわけです。




        2013.01.27 Sunday

        鬼師が遺した飾り瓦   間宿にあった鬼瓦(佐久市)

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          中山道の間宿(あいのしゅく)だった茂田井宿(佐久市)。間宿とは、江戸幕府が正式に認可されていなかった“旅籠”で、認可されていた宿場間にありました。


          宿場間の距離が離れている場合、旅人は難儀しますがこうした便宜のため自然発生的に興ったといいます。茂田井宿は、芦田宿(佐久市)と望月宿(佐久市)の間にできた休憩所になります。


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          幕末に水戸天狗党が挙兵し、尊皇攘夷の志を朝廷に奏上するため中山道を上り上洛する時、この宿に400人余りが宿泊したそうです。また、14代将軍家茂に嫁ぐことになった和宮もここを通って江戸へ向かったという歴史があります。


          ここに3体の瓦鍾馗があります。

           

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          いずれも鍾馗ガールことnaoさんが発見しました。二人で相談し、中山道の旧宿場町を探索してみようと計画を立て、いくつかの宿場を単独行するなかで見つけだしています。


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          3体とも小振りで、上がっている場所が目につきにくいところです。後日、尋ねてみましたが、なかなか探し当てられません。「3体ある」という事前情報がなければ、見落としていたかも知れません。


          時間は掛かりましたが、ご対面することができました。



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          ところで、この鍾馗さんの後部に白く囲んだものが見えますが、これは「影盛」といいます。


          箱棟が大きくなると軒を飾る鬼瓦も大きくしなければならず、屋根に重量が掛かってしまいます。このため木の骨組みを作り、漆喰を塗り込めて重量を軽減します。


          こうして鬼瓦のボリュウム感と全体のバランスを取ります。漆喰を使い鏝(こて)による細工になりますので、左官職人さんが影盛を作ります。


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          この茂田井宿で見た他の飾り瓦も掲載しておきます。


          鯉に乗っている人物と言えば、やはり琴高仙人でしょう。顔があまりにも若作りですが鯉の背に乗る人物は琴高仙人しかいませんので、これを制作した鬼師は若作りにすることで何か意味を持たせたのでしょうか。


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          一部が破損していますが、鶴の鬼瓦です。五三桐の紋様も見えます。


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          こんなかわいい竹林に遊ぶ雀の軒丸瓦もありました。




          2013.01.26 Saturday

          鬼師が遺した装飾瓦   鍾馗もいろいろ(長野市、安曇野市、筑北村)

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            「遠くとも一生一度は詣れ」と昔からいわれた善光寺。江戸時代から各地の街道に善光寺へ向かう道として「善光寺道」の名がつくほど往還や宿場は賑わいました。

            人々が行き交うといろいろな生活情報が伝わり、屋根瓦にも西国の飾り瓦を上げる風習が伝わりました。西国からの人々が善光寺を往来した街道の一つに北国西往還(善光寺西街道)がありますが、多くの宿場とその周辺の屋根に鍾馗、恵比寿、大黒をはじめとした装飾瓦を見ることができます。

            しかし、善光寺のある長野市に入ると飾り瓦の数が減り、瓦鍾馗も姿を消すかのように少なくなります。



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            善光寺を目前に犀川越えの渡しを控え、すぐ近くに
            丹波島宿があり、ここに7体の鍾馗がありますが、他地域では2カ所以外見ることができません。


            そのうちの一体が、同市稲葉の民家の小屋根に上がっています。上の写真でいうと戸袋の近くになります。

            右手に握っていた刀剣が欠損していますが、口を固く結んで大きな目で邪鬼を睨みつけています。     

                 

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            『鍾馗さんを探せ!!』の著書があり、全国の瓦鍾馗蒐集の旅を続けている小沢正樹さんに教えていただき見て来ました。


            その小沢さんが安曇野へ来られた折に発見した豊科高家(たきべ)の小屋根の上に飾られていた鍾馗です。



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            全国を探訪しているだけあって、嗅覚が働くのでしょうか? 短時間のうちに探してきました。


            瓦鍾馗といえば、上の写真のように長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で悪霊や疫病を家に寄せつけないため睨みをきかせている姿で表されます。



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            筑北村には鍾馗の姿を模ったものではなく、文字を刻んだ鬼瓦がありました。「鍾馗」の文字で悪霊は退散するのかな?と拍子抜けしました。


            しかも鍾馗さんの鍾の文字が、「鐘」に化けています。


            こちらも、鐘になっています。

            「少し線が細いな、もっと肉太な文字にして悪霊に睨みを利かせて欲しいな」と思ったのですが…。



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            そして、これは極めつけといったところでしょうか。「鍾鬼」と刻まれた文字瓦です。小鬼を退治するのが鍾馗さんで、鍾馗は「鬼」ではないはず。


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            瓦職人さんの遊び心? それとも単なるミステークなのでしょうか。

            これも分かりません。



            2013.01.25 Friday

            鬼師が遺した飾り瓦   旧製糸工場主宅に残る三州鬼師・森田梅吉の吉祥瓦(須坂市)

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              かつて製糸業で繁栄を極めた須坂。昭和恐慌の荒波にもまれ衰退しましたが、今でも街のあちこちに往時を偲ばせる屋並みや繭蔵が残ります。


              神町の神林家は、明治18(1885)年に建築され舎まで有していました。


              今は工場などの建物はすでになく、経営者が住んでいた母屋が残るだけです。この母屋は典型的な町家造りをそのまま残しています。


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              大棟をはじめ屋根の主要なところに飾り瓦が乗っています。いずれも三州からの出稼ぎ鬼師・森田梅吉が制作したものです。


              妻飾りが立派で、棟の鬼瓦に鳥衾が付いた縁起ものの鶴と亀が乗せられています。


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              その下の妻面に、工場や屋敷を火災から守る願いを込めた見事な遊び龍が飾られています。


               

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              ふくよかで満面に笑みを湛えた大黒天と恵比寿(下)です。実にうまく細工されています。

              須坂市立博物館発行の『須坂の甍』によると、鬼瓦、飾り瓦などの「細工もの」を作るに当たって、地場にその技術をもった職人がいなかったため遠く三河から鬼師3人を招き、技を学んだといいます。

               

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              恵比寿の下に竹べらで刻んだ宝の文字が見えますが、こうした意匠も三河鬼師が伝えたものです。


              神林家では「明治14(1881)年ころ、豊野(現長野市)の瓦師にわざわざ頼んで造ってもらった」と伝えられていて、鬼師・森田梅吉の作と見られています。


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              母屋の軒に載っている留蓋瓦の竹林の虎です。


              強い経口感染症でコレラという病気がありますが、日本で初めてコレラが確認されたのが江戸期の文政年間で、65万人が発症し多くの人たちの命を奪ったという記録があります。


              相次ぐ異国船来航と関係し、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、その後、コレラは怖い流行り病として恐れられました。


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              近在の村々から工女さんとして娘さんを預かり集団生活させていたわけですので、感染症などの流行り病が発生したら大変です。


              経営者は鬼師に縁起ものの他に疫病除けのため、強い力で魔物を寄せつけないという虎の装飾瓦を作らせ飾ったりしたのでしょう。


              鋭い爪を持ち前足に重心をおいて、悪霊が家に近づけば今にでも襲いかかりそうな威圧感を持った虎を森田梅吉は遺しました。



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              三河鬼師の技術は大作に限るものではなく、軒瓦、軒丸瓦などの小品も製作しています。森田作の波兎で、同家に軒瓦として並んでいます。



              2013.01.24 Thursday

              鬼師が遺した飾り瓦   須坂の瓦を発展させた森山家と三州鬼師・神谷喜三郎(須坂市)  

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                須坂の街は明治期になってから、製糸業で地域経済が潤い活況を呈しました。その後大正期(20世紀初頭)に入って最盛期を迎え、37の大規模工場に6,500人を超える工女が働く一大産業となりました。生糸の町として全国にその名が知れ渡ったといいます。

                絹糸の原料となる繭は温度変化や湿気に弱いため、こうした影響を受けにくい土蔵が生産量の増加に合わせ保管・貯蔵のため繭蔵として次々と造られました。

                土壁のため火災にも強く、白漆喰となまこ壁の美しさは、やがて財力をもった人たちの蔵としても新築されました。土蔵となると瓦葺きですので、これに伴い屋根瓦の需要が急速に伸びました。



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                須坂の瓦業は、穀町の森山喜惣治が文政4(1821)年に瓦屋の創業を須坂藩に願い出た文書が残っていることからこの時が始まりとみられています。


                すでに開業していた森山瓦屋に、注文が殺到したことはいうまでもありません。


                やがて町家の人々から桟瓦で葺きかえるだけではなく、防火や縁起を担いだ飾り瓦を屋根に乗せる求めが強くなりました。

                 


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                このため森山瓦屋では特別な技量をもった鬼師・神谷喜三郎を三河から招いて需要にこたえるとともに制作技術の指導を受けます。


                森山銀治郎、関太郎、武蔵と続く家業は、神谷から多くの制作技術を体得して須坂に優れた装飾瓦を遺したといいます。


                森山家は現在、家業を親類筋に譲り瓦業を営んでいませんが、三州鬼師・神谷喜三郎が制作した飾り瓦が受け継がれ、備品庫に収納保存されています。現当主の裕士さんにお願いして、装飾瓦の数々を見せていただきました。


                この中で、実に珍しい瓦鍾馗と対面しました。なにが珍しいかというと、まず両手でしっかりと刀剣を握っていますが、この刀は金物製で瓦ではありません。


                焼き上げた後に何かが当たり刀剣部分が欠損し、金属製の刀などを持たせたものなどを見かけることがありますが、それとは違って制作当初からこの剣を粘土にはめ込んで焼成しています。



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                それから、胴上に甲冑を着けています。甲冑姿の鍾馗も多くはありませんが、よく見ると黄色、緑が鎧に、唇の周りに赤銅色の跡が見えます。ということは、彩色されていたことになります。焼成前か後かは分かりませんが、彩色されて屋根に飾られていたことになります。


                森山家で拝見した装飾瓦の中に寒山拾得の寒山を模ったものがありました。茶目っ気たっぷりで柔和な表情が印象的です。



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                服部さんは「いいですね。特に顔が素晴らしいです。持っている巻物に「山里ハ」と百人一首の歌が書いてあるのもユーモアがあって楽しめますね」と絶賛しています。


                神谷が制作した装飾瓦は、他にも鯛を手にした恵比寿や恵比寿面など保存されていますが、床の間に飾ってある「身体を休める和牛」にもお目にかかることができました。


                当初から置物として制作したもので、なんとも穏やかな表情を見せながら休んでいます。



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                背骨やヒズメ、尾も丁寧な仕上げを施しています。置物として制作することを意識したのでしょうか、装飾文様も刻んでいます。


                神谷喜三郎の鬼師としての技の多才ぶりに驚かされます。



                2013.01.23 Wednesday

                鬼師が遺した飾り瓦    須坂市の寺社と選定保存技術保持者が制作した装飾瓦

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                  須坂市墨坂の八幡墨坂神社。参道を歩き鳥居をくぐり広い境内に出ると、正面に濃い褐色の大きな社殿が姿を現します。


                  実に豪華というべきか、賑やかというべきか、いろいろな飾りがついています。いくつの飾りがあるでしょうか。



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                  上の装飾瓦もそうですが、下の獅子もみごとです。相当な腕をもった鬼師でないと、なかなか造れません。



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                  技術の指導に来ていた三州からの鬼師の手造り品であることに間違いないでしょう。



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                  この八幡社は、数多い須坂市の寺社のなかでも屋根に置かれた飾り瓦の多いところといえます。



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                  墨坂神社・芝宮で見た鬼瓦ですが、珍しいことに鬼が何かを口にしています。よく目にする鬼瓦は、眼光鋭く口を開け悪霊を寄せつけない形相をしていて、こうして何かをくわえているというのは初見です。



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                  北小河原別府町の広円寺は、寺紋の揚羽紋があちこちに飾られています。


                  揚羽蝶の紋といえば、世界文化遺産に登録されている国宝姫路城の城主だった池田家の家紋も揚羽蝶紋です。第4代城主の池田輝政が織田信長から拝領し、姫路城にも軒丸瓦などにこの蝶紋が見られます。


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                  須坂市にある「蝶の民俗館」は、館長の今井彰さんが国内外で採集した蝶の標本展示にとどまらず、生活文化の視点から蝶にかかわる資料を展示しているユニークで楽しいミニ博物館です。 


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                  蝶の文化史からの研究を続けている今井さんは、姫路城の揚羽蝶紋の瓦を選定保存技術保持者に認定された鬼師・小林平一さん(故人)に制作を依頼、でき上がった蝶紋瓦が2階展示室に飾られています。


                  相野島町の源信寺山門には、4体の人物瓦が乗っています。


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                  何を(誰を)模ったのか、いつころのものかなど、いま一つよく分かりません。


                  上は面を付けた能楽師が舞っているようにも見えますし、下は茶坊主のような風体ですが、これもどう考えればよいのか分かりません。



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                  同市内にはさまざまな装飾が施されてい軒瓦、軒丸瓦もあります。



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                  2013.01.22 Tuesday

                  鬼師が遺した飾り瓦   屋根の上にある宝尽くし(青木村、東御市、須坂市、長野市、安曇野市)

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                    屋根の上に、こんな球根が芽を出したような形の飾り瓦を目にしたことはありませんか?


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                    これは如意宝珠(にょいほうじゅ)といい、望んだものをすべて出し、願い事を何でもかなえてくれる神秘的な宝の珠(たま)のことで、上方が尖って火炎の燃え上がったような形をした珠をいいます。


                    今で言うならば、さしずめ「ドラえもんの四次元ポケット」に当たるのでしょうか。



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                                         (青木村)


                    如意宝珠は、如意輪観音、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、吉祥天、孔雀明王などの仏が持つものとされ、それらの仏像などでも手にしている姿を見ることができます。



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                                            (東御市)


                    「宝尽くし」という日本の伝統的な文様があります。吉祥・招福を願う気持ちが縁起物の形になり、着物や器物を飾ってきました。



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                                          (長野市・善光寺)


                    宝尽くしは、如意宝珠、鑰(やく)、打出の小槌、金嚢、隠蓑、隠笠、丁字、花輪違、金函などが代表的な文様ですが、時代・地方により多少の違いがあるようです。



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                                          (安曇野市)


                    右側に如意宝珠が見えますが、鬼瓦に見える鍵のような装飾が鑰です。鑰は蔵を開けるときの鍵になります。



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                                                                                 (墨坂神社・芝宮)


                    日本の古代の一時期,律令法という体系を基に国家統治がなされました。中央集権的な官僚制国家機構や国家的土地所有を行い、良・賤の身分制度を敷いていました。


                    地方の国府にとって朝廷から預かった「公印」(印)と、財宝の入っている正倉の「鍵」(鑰)は最も大事なものとされ、「印鑰」を管理していた所を祀る神社までできたそうです。



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                                         (東御市・法善寺)


                    今でも石川県七尾市、熊本県八代市、宮崎県西都市など各地に「印鑰(いんにゃく、あるいは、いんやく)神社」の名がついた神社があります。


                    鑰は、こうした歴史を背景に、宝を象徴するものとして文様に用いられ現在にいたっているわけです。


                    上の鑰は、東御市の法善寺に飾られていたものですが、ここの装飾瓦は宝尽くしが満載です。鑰の左に珊瑚(さんご)があり、その左に真珠貝、さらに隠蓑があります。



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                    打ち出の小槌があり、その左手に珊瑚があります。右にあるのは巾着でしょう。


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                    経文の巻き物もありましたし、その右にあるのは宝尽くしの七宝の一つである真珠貝(アコヤ貝)の貝柱のように見えます。


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                    縁起物にも宝尽くしにも関係ありませんが、善光寺の近くの宿坊の屋根にネコがいました。居眠りをしているようです。もちろん飾り瓦のネコです。





                    2013.01.21 Monday

                    鬼師が遺した飾り瓦    仙人も十人十色(長野市、佐久市、須坂市、上田市、東御市、安曇野市)

                    0

                      「仙人」と聞いて思い浮かぶのは、何でしょうか。人里離れた仙境で悠々自適に暮らす年老いた謎の人物 ? 不老不死のチョー長生きしたという得体の知れない人物 ? 

                      仙人は道教の理想の人物で人間界を離れて山中に住み不老不死の法を修め、神変自在の法術を体得した人達
                      を指すのだそうです。


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                      その道に詳しい人の話によると、古来、仙人と称される人たちは、25人ほどいるそうです。日光東照宮の陽明門や曳山の装飾彫刻などに登場しますが、それぞれにエピソードがありそれに因んだ動物や楽器などを携えることが多いといいます。


                      実は屋根の上にも、仙人がいます。飾り瓦ですので陽明門や曳山のようにきらびやかな彩色は施されていませんが、その気になって探すと仙人とご対面できます。

                      まず長野市善光寺参道にある宿坊で見かけた琴高(きんこう)です。


                      Photo

                      琴高は鯉乗り仙人ともいわれ、鯉に乗って描かれます。

                      中国戦国時代、趙の国の人ということで、200年余り諸国放浪をつづけた後、「龍の子を取って来る」と弟子たちに言い残して川の中に入り、約束の日に大きな鯉に乗って現れ感嘆させたといいます。



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                      こちらは佐久市茂田井で見ました。両腕が欠損していますがこの仙人は琴の名手だったといいますので、琴を手に携えていたのかもしれません。


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                      須坂市のまゆ蔵館に展示されている琴高仙人です。波の上を鯉に乗る姿で手の込んだ制作になっています。市内にあった繭蔵に上がっていたものを解体する時に取り外して保存展示しているものです。

                      銘が入っていませんのではっきりとは分かりませんが、須坂市には腕のいい鬼師が三州(愛知県高浜市)から技術指導に来ていますので、それら鬼師のだれかが作ったものと思われます。



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                      上田市国分寺の庫裡の近くの池の側に置かれているのは、かつて国分寺の小屋根に上がっていたもの



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                      傷んだことから葺き替え時に降ろされ、今は余生(?)を池の畔で鯉に乗って過ごしています。


                      上田市武石で見かけた亀仙人あるいは亀乗り仙人こと黄安(こうあん)です。前漢・武帝時代(前156〜前87)に登場した仙人だそうです。



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                      3尺もある亀に乗っており、その亀は3000年に1回しか首を出さなかったと言われています。黄安は5回水中から姿を現したのを人々に目撃されたといわれ、単純計算でも黄安は1万5千年生きたことになります。


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                      ある日、黄安は皇帝・武帝に呼ばれ、仙人の話をしましたが、武帝が亡くなった後は人知れず何処かへ消えたということです。

                      上の黄安は、東御市の寺院にいました。



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                      こちらは、善光寺宿坊の小屋根に琴高仙人と対で上がっていた亀仙人です。



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                      まゆ蔵館の琴高と並んで陳列されていた黄安です。亀の表情は厳しく、爪先や鱗まで丁寧に造り込んでいます。



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                      波まで意匠していてデザイン性でも優れているといえます。


                      これまでは同定できた仙人ですが、どうもよく分からないのが下の3体です。



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                      風貌は仙人風ですが、それでは誰かと言うことになると挿話と照らし合わせてもよく分かりません。


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                      いずれもしっかりとした技量をもった鬼師が制作しています。

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                      あなたならこの仙人、だれだと思われますか?




                      2013.01.20 Sunday

                      鬼師が遺した飾り瓦   瓦で作った福をもたらす七福神(岐阜県高山市、長野市、松本市、安曇野市)

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                        屋根に上がっている福をもたらすとされる「七福神」の飾り瓦で、圧倒的に多いのは大黒天と恵比寿の2柱です。これは西日本、東日本に関わらず共通しているようです。

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                        ですから、他の神たちが上がっていたりすると、鍾馗とは違った感動があります。上は岐阜県高山市で見た布袋です。

                        着衣から腹をはだけ福々しい体格を見せ、頭を丸め僧形をしています。


                        下は、長野市豊野の今は引退して隠居されている元瓦職人さんの居間に鎮座していた布袋和尚です。



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                        七福神の一柱にして、唯一実在の人物といわれる布袋さんですが、こちらは付きものの軍配こそ手にしていませんが、禅僧を表すように半跏趺坐(はんかふざ)しようとしているのでしょうか? しかし、お腹が邪魔してうまく組めないため失笑しているようです。


                        瓦製造が盛んだった須坂市で修業していたころ、「三州から来ていた鬼師に作ってもらった」と言い、以来、家宝として大事に床の間に飾ってある置き物です。



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                        松本市里山辺の老舗旅館の小屋根に上がっていた弁財天です。「弁才天」、「弁天」とも表記される七福神のうちの唯一の女神ですが、腕が2本の二臂の場合と、8本の八臂の姿があります。


                        天女のような面持ちで頭に宝冠を載せ、この宝冠に白蛇がいます。上のように二臂の場合は琵琶を抱える姿で、八臂の姿で表されるときは宝珠や宝剣など8本の腕にさまざまなものを持って表現されます。


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                        甲冑をまとっていることからも分かるように、戦闘の神・毘沙門天(びしゃもんてん)です。型抜きされたもので、安曇野市堀金の屋敷塀の隅に上がっています。


                        もともとインドのヴァイシュラヴァナという神で、漢字で音を当て毘沙門天となったそうです。 


                         片手に宝塔(仏舎利を収める)を持ち、もう片方に棒か戟(げき)を持った姿で出てきます。邪鬼を踏む場合もあり、鍾馗と間違える場合も多いようです。

                                        

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                        戦国の武将・上杉謙信が尊崇し軍旗に毘の字を用いるなどでつとに有名ですが、仏教の世界で四天王のうち北方を守る神とされ、多聞天とも呼ばれます。
                         
                        大黒天、恵比寿を合わせると七福神は5柱となり、残りは福禄寿、寿老人になりますが、これまでにお目にかかったことがありません。

                        福禄寿と寿老人は、どちらが寿老人でどちらが福禄寿が区別がつかないほど混合が激しくなっています。杖、巻物、団扇(うちわ)を手にし、鶴や鹿などの動物を伴い頭が長いなど、共通点ばかりです。

                        この厄介な2柱を鬼師はどう制作するのかなと思っていましたら、瓦鍾馗研究家の小沢正樹さんが三重県伊賀市の古宿で七福神のオンパレードを発見しています。こちらをご覧ください。





                         

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