2015.01.08 Thursday

スポンサーサイト

0

    一定期間更新がないため広告を表示しています

    2015.02.09 Monday

    ステンドグラスを見に行く  野外に置かれ輝きを失った「ごん狐」のグラス(愛知県半田市)

    0

      半田市の出身で戦前の児童文学作家に新美南吉(にいみ なんきち、1913−1943年)がいます。

      結核で29歳の若さで亡くなったため、作品数は多くはありませんが『ごん狐』、『手ぶくろを買いに』、『花のき村と盗人たち』、『おじいさんのランプ』などの代表作があります。


      Img_6009


      作品には「民芸品的な美しさ」と親しみ深さを感じさせ、今も多くの人に愛されている作家の一人です。


      また作品には故郷の半田市岩滑新田(やなべしんでん)が舞台となっているものも多いことから、半田市は町おこしに採り入れてきました。



      Img_6008


      新美南吉記念館を造り、南吉の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースの整備も進めて来ています。


      NTT半田支店はかつて公衆電話ボックスに「ごん狐」のステンドグラスを嵌めて、ごん狐の里、南吉のふるさとのPRに一役買っていました。


      地元の作家・平岡和弘さんが制作した横1.8m、縦90cmの作品です。



      Img_6011


      そのステンドグラスを平成24(2013)年、南吉生誕100周年にあたってリニューアルする記念館へ寄贈しました。


      記念館のステンドグラスを見に行きました。


      リニューアルされた記念館のエントランスにでも嵌入され、透過光を通して輝いているのかと期待したのですが、駐車場に車を入れて降りたら目の前にあるではありませんか。



      Img_6013


      駐車場の脇にあるのです。正直驚きました。


      野外に展示するステンドグラスというのは、どう鑑賞すればよいのでしょうか。ステンドグラスの輝きがありません。


      児童書、中でも絵本という形で小さな子どもたちに物語のストーリーの展開と絵描きの力を借りて自らの世界に描くのは、本を通してからです。


      少し考えてどこに設置をすればよかったか考えていただきたいところです。


      2015.02.08 Sunday

      ステンドグラスを見に行く  公会堂の窓から出征兵士を見送った幾何学模様のグラス(愛知県豊橋市)

      0

        豊橋市役所と隣り合わせた豊橋市八町通にロマネスク様式の風格のある建物があります。

        昭和6(1931)年に竣工した豊橋市公会堂です。

         

        Img_5854

          

        鉄骨鉄筋コンクリート造3階建てで、建築延べ面積約2,948屬△蠅泙后正面両側のドーム頂上までの高さは16mあるそうです。

        昭和3(1928)年の御大典(昭和天皇の即位式)奉祝記念事業として建設が決まっていたのですが、市役所庁舎の消失などから当初の予定より遅れて同6年に完成しました。

        建物の外観は正面に大階段があり、これを上ると5連アーチの出入り口を通って2階のホールへと向かいますが、通常は閉じられています。



                 Img_5878

         

        エントランスを挟んで左右に塔が建ちます。その上に幾何学模様のドーム型の屋根があり、ドーム近くにそれぞれ4羽の鷲が装飾されています。

        塔の上のドーム、ドームに施された幾何学模様などイスラム風も採り入れています。

        公会堂を設計したのは中村與資平(よしへい、1880−1963年)で、明治期から昭和にかけて朝鮮半島、中国、日本で活躍した建築家です。


        Img_5863

         

        中村は東京帝大(現 東京大学)建築学科を卒業後、辰野金吾が主宰する辰野葛西事務所に入り、その3年後の明治41(1908)年に朝鮮銀行本店の設計のため渡朝します。

        この後、ソウルに事務所を開設し、朝鮮半島、中国で銀行、学校、教会など数々の建物を手掛けています。

        大正11(1922)年に帰国して東京に中村工務所を開き、東京や故郷の静岡県を中心に数多くの仕事を遺しています。


        現存する代表的な建築物として豊橋市公会堂のほか、静岡銀行本店、静岡県庁本館、静岡市役所本館などがあります。


                 Img_5877

         

        左右の塔の内部は、3階までの階段が付いていてこの階段室などにステンドグラスがあります。

        花をアレンジした2種類の幾何学模様のデザインで、左右の階段室に取り付けられています。



                 Img_5880

         

        昭和6年に完工した豊橋市公会堂ですが折しも同年は満州事変の勃発した年で、公会堂の裏手にある吉田城址(現 豊橋公園)に歩兵第18連隊の本営がありました。

        開戦とともに兵士たちは軍旗を先頭に公会堂前を行進し出征していきました。階段室のステンドグラスもこの光景を目にしていたことでしょう。


        Img_5882

         

        昭和20(1945)年、豊橋も米軍機の空襲を受け市街地の9割を焼失しましたが、公会堂は戦禍を免れています。

        戦後になって数度にわたる改修工事を経て、エレベーターや空調設備も整い現在、市民の様々な催しに利用されています。

         


                 Img_5890                         (公会堂通用口に古いモザイクタイルが貼られています)



                 Img_5891



        2015.02.07 Saturday

        ステンドグラスを見に行く  風光明媚な三河湾を望む旧蒲郡ホテルのグラス(愛知県蒲郡市)

        0

          愛知県南東部に蒲郡市があり、三方を山に、沿岸部は渥美半島と知多半島に囲まれ三河湾に面しています。

          温暖な気候の海辺の街で、沿岸一帯が三河湾国定公園になっています。代表的な景勝地に三河湾に浮かぶ小島の竹島があります。


          Img_5822      (旧蒲郡ホテルから竹島と周辺の島々や渥美半島、知多半島まで三河湾が一望できます)


          対岸とは僅か400mしか離れておらず、竹島橋によって結ばれています。しかし竹島は暖地性の植生で植物相が大きく異なるという特異な環境があります。

          昭和5(1930)年に島全体が国の天然記念物に指定されています。これまでにサカキカズラ、カゴノキなど238種の高等植物が自生していることが分かっています。

          竹島は全域が八百富神社の境内で、弁財天が祀られており、開運・安産・縁結びのご利益があるとされます。


          Img_5843


          この温暖な景勝地に着目したのが名古屋の繊維会社「滝兵」(現 タキヒヨー)を経営していた滝 信四郎(のぶしろう、1868−1938年)です。

          明治45(1912)年に竹島海岸に料理旅館「常磐館」(現「海辺の文学記念館」)を建て、昭和7(1932)年に対岸から竹島までを私費で架橋します。


          Img_5833


          さらに同9(1934)年に山上に城郭風の木造3階建ての蒲郡ホテル(現 蒲郡クラシックホテル)を建てます。

          鉄道省国際観光局(当時)認定の国際観光旅館、つまり外貨獲得のための「国策ホテル」として営業を開始します。

          滝が負担したホテル建設費総額の4分の1の10万円だったといいます。


          Img_5840   (竹島まで歩いて渡る橋から旧蒲郡ホテルが見えます。下の白い外壁の建物がかつて常磐館の跡地に建てられた「海辺の文学記念館」です)


          旧蒲郡ホテルを設計したのは、元鉄道省の技師・久野 節(くの みさお、1882−1962年)で内装にアールデコ様式も採り入れています。施工は大林組が当たっています。

          ホテルの2階から3階へ上る階段室にステンドグラスが嵌められています。いつの頃に制作されて嵌入されたのか分かりませんが、一部に修復した跡が見て取れます。


          Img_5826


          滝 信四郎は繊維問屋・滝兵の5代目当主となってから株式会社化し、明治34(1901)年に社内改革に乗り出しそれまでの丁稚(でっち)奉公制を廃止し、月給制、公休日制を採り入れ待遇の改善に取り組みます。

          その一方で、蒲郡の観光開発に多額の私財を投資します。昭和9(1934)年に蒲郡ホテルを建設した後も観光開発を進めましたが、時代の流れは戦時体制に入って行きます。


                   Img_5829

          昭和13(1938)年に信四郎が亡くなりますが、この年に綿花配給切符判実施され国家総動員法公布されています。

          戦時中の昭和19(1944)年になると、常盤館、蒲郡ホテルなどを日本陸軍病院に供用され、営業を中止します。

          戦後は米軍に接収され昭和27(1952)年になってようやく全館解除され、営業を再開します。

          昭和天皇や皇族たちもたびたび宿泊し、高級ホテルとして隆盛します。


                   Img_5831

          しかし、昭和34(1959)年の伊勢湾台風によりホテル、常盤館とも大きな被害を被り、全館とも1カ月余り休養し復旧工事を行います。

          また、同45(1970)年大阪府吹田市の千里丘陵を会場に日本万国博覧会が開催され外国人の宿泊客を期待していましたが、誘客に失敗し当てが外れてしまいます。

          その後、公害問題で三河湾が汚染され竹島のアサリや三河湾の魚類に深刻な問題が発生し、折からの景気後退もあって観光客、宿泊客が激減します。


                  Img_5846
                         (三河湾に映える夕陽も美しい光景です)

          関連会社の縮小、整理を進めますが、同55(1980)年に経営継続を断念、ホテルを蒲郡市に売却します。

          同市は同62(1987)年に国土計画蠅愍渡し「蒲郡プリンスホテル」となりますが、旧蒲郡ホテルが創業して100年に当たる平成24(2012)年に呉竹荘グループが継承することになり、名称も「蒲郡クラシックホテル」に変わっています。


          2015.02.06 Friday

          ステンドグラスを見に行く  GHQの接収でも改造から免れた旧本多忠次邸を飾るグラス(愛知県岡崎市)

          0

            岡崎市欠町の小高い丘の上にスパニッシュ様式の木造2階建て一部鉄骨造の瀟洒な建物があります。

            旧本多忠次邸です。


            Img_5674


            本多忠次(1896−1999年)は
            、先祖に譜代大名として三河岡崎を長い期間にわたって治めてきた家系で、本多家17代忠敬の次男として生まれます。


            父・忠敬の逝去に伴い兄・忠昭が18代目の家督を相続し、忠次は東京・世田谷の野沢に約1年の歳月をかけて邸宅を建設したのがこの建物です。



            Img_5683

             

            平成13(2001)年に岡崎市は本多家からこの建物の寄付を受け、同24(2012)年に移設・復元工事を終え公開しています。


            復元された旧本多邸は、敷地面積約2,280屐建築床面積約522
            屬燃梓僂浪虻にフランス瓦を葺き、南側に3連アーチのアーケード・テラス、東側に2階部まで続く半円形のベイ・ウインドウがあります。


            画像では見えませんが、西側の玄関には車寄せがついて重厚に見えます。


                                                       Img_5689


            外壁は色モルタルで仕上げていて、アーチや窓枠にはスクラッチタイルで装飾しています。

            建物内部は日本間と洋間があり、各所にステンドグラスやモザイクタイルの装飾が施されていて、見応えがあります。


                                                       Img_5747


            中央に廊下があり南側に応接間、居間、食堂があり、北側に台所、女中部屋、便所、納戸、浴室があります。


            忠次は周到な調査の上、敷地選定や建物の基本設計を自ら行い邸宅建築に当たっています。完成したのは、昭和7(1932)年、忠次36歳の時です。



            Img_5701


            ステンドグラスは各所に嵌入されているのですが、玄関口から入ってすぐの廊下から見えるのが蓮花が浮かぶ池で遊ぶオシドリとハクチョウを描いたグラスです。鳥類はいずれも番いでデザインしています。


            団欒室の窓に取り付けられています。
             


                                                    Img_5749


            食堂の廊下側窓に取り付けられたステンドグラスの図案は、オリンピック聖火リレーで用いられるトーチをデザインしています。


            これまでに、昭和15(1940)年に東京で開催される予定だった第12回オリンピック大会について旧志賀高原ホテル(長野県山ノ内町、2013年11月27日付け)と三田商店(石川県金沢市、2014年2月1日付け)の掲載記事で取り上げました。



            Img_5761                (食堂欄間に取り付けられたオナガとバラを描いたステンドグラス)

            この旧本多邸のトーチをデザイン化したステンドグラスも、昭和7(1932)年に取り付けられていますので、この幻のオリンピックに終わった時代背景と深く関わっていると推測できます。



            Img_5694

                            

            忠次の先祖は徳川四天王の一人といわれた功臣の本多忠勝(1548−1610年)で、酒井忠次、榊原康政、井伊直政とともに徳川家康に仕え、その勇壮ぶりは「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(かしら)に本多平八」と適方からも讃えられたといいます。


            「唐の頭」は家康が趣味で集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜を指します。



            Img_5699


            忠勝は生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだそうですが、いずれの戦いでもかすり傷一つ負わなかったと伝えられる武将です。


            槍の名手で、その並はずれた武勇を織田信長は「花実兼備の勇士」、豊臣秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」と称賛したといわれます。



            Img_5762


            忠勝は上総(現 千葉県)大多喜10万石の譜代大名として取り立てられて以降、本多家はその後、伊勢桑名、播磨姫路藩など転封を重ね明和6(1769)年に三河岡崎藩5万石に落ち着き、以後明治維新までの約100年間岡崎藩を治めました。



            Img_5722

             

            最後の岡崎藩主となった16代忠直は明治2(1869)年、版籍奉還で岡崎藩知事となりましたが、同4年の廃藩置県で岡崎県ができると藩知事の任を解かれ、江戸下屋敷のあった東京・本郷区森川町に住まいを移します。


            17代を継承した忠敬は所有していた旧岡崎城一円の土地を岡崎市に寄付し、二人の子息のうち忠次の兄・忠昭が18代目の家督を継いでいます。



                       Img_5713

             

            湯殿の窓にブドウの実と葉を描いたステンドグラスがあります。


            忠次は植物採集や登山を趣味としていたそうです。


            旧本多邸のステンドグラスはこうした忠次の耆好を表すように、植物、動物、自然を採り入れているのが特徴ともいえます。

                                                       


            Img_5719

             

            湯殿はステンドグラスも見応えがあるのですが、タイル装飾もみごとです。相互に全体を引き立て合っているともいえます。


            浴槽は抗火石にモルタルでモザイクタイルを貼っています。陶器製の山羊の口から出た湯水は一度下の平らな部分で受け、段差で下の浴槽へ貯水して行くようになっています。


            左の小さな水槽(4枚上の画像参照)にも新しい湯水を貯め、上がり湯などに使用しました。



                                                       Img_5715


            浴室の上げ下げ窓にもステンドグラスがあります。


            水中を泳ぐ魚が図案化されていて、忠次は「竜宮」と呼んでいたそうです。



                     Img_5723


            様々な色合いの魚や海藻類が自然光に輝く窓を見ながら浴槽にゆったり浸かっていると、確かに竜宮近くの海底が連想されてくるようです。



                                                       Img_5727


            これに合わせるように浴室のモザイクタイルも工夫されています。


             

                                                       Img_5728


            腰壁は肌色の角タイルですが、床は白とピンクのタイルが市松模様に貼られています。



            Img_5729


            浴槽のエプロンはモザイクタイルでリボン模様をデザイしています。



            Img_5730


            2階に忠次の書斎がありますが、その隣室にお茶室があります。お茶室全体がアール・デコ風にまとめられているモダンな部屋です。


            壁の出済み部分に取り付けた照明器具のデザインもアール・デコ調になっています。



                                                       Img_5740

             

            照明具底面、側面に色ガラスが入っていて、底面には同心円状に、側面には縦に桟が組まれています。


            忠次は色グラスが入った照明器具がお気に入りで、書斎での仕事の合間にこのお茶室でよく寛いだといいます。



            Img_5737_2


            東京・野沢にあった本多忠次邸は 戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収されます。



                  Img_5708                        (接収された東京・野沢時代の本多邸)


            戦時中も疎開することなく守り続けた自宅を、一時的とはいえ強制的に取り上げられるのですから忠次にとっては不本意で断腸の思いであったはずです。



            Img_5756                    (階段室に設置されているステンドグラス)


            忠次は建物に手を入れることは極力避けてもらいたい旨の手紙をGHQに提出し、自邸の保護を求めたという逸話があります。


             

            Img_5742


            それが功を奏したかどうかは分かりませんが、本多邸に居住したのはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサー(1880−1964年)の顧問弁護士カーペンター夫妻で、大きな改造は行わなかったといいます。


            接収住居の多くが改造されたなかでこのような事例は稀であったと見られています。

             


            Img_5759

                

            本多忠次邸は玄関や湯殿、浴室、便所などの水周りの床にモザイクタイルが貼られています。


            タイルの色は部屋によって異なり、それぞれの模様も違っています。



                                                   Img_5717

             

            玄関にモザイクタイル貼りの壁泉 があります。半円形の人造石研ぎ出し仕上げの手洗い器が付いています。


            手洗い器の上に半円状の壁面が奥まり上がドーム状になっています。この壁面水色のモザイクタイルが貼られています。

             

                                                         Img_5765


            中央部にライオンの顔をした陶器製の吐水口があり、手洗い器の右下の壁にある水洗レバーを回すと口から水が出るようになっています。



            2015.02.05 Thursday

            ステンドグラスを見に行く  法廷での審理で公平を貫く姿勢を表現した裁判所内のグラス(愛知県名古屋市)

            0

              以前、「レンガ積み職人が遺した建造物」で旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎(現 名古屋市市政資料館)を取り上げましたが、今回はこの中にあるステンドグラスを紹介します。

              旧庁舎はレンガ、鉄筋コンクリート造でネオ・バロック様式の3階建て洋風建築物です。


              Dsc_0584


              旧帝国憲法下の時代、全国8カ所に現在の高等裁判所にあたる控訴院のなかで、現在も当時の建物が残っているのは札幌と名古屋だけです。

              旧名古屋控訴院の建物は、1階は模造花崗岩とレンガを交互に積み重ね、2階以上は白い柱とその間の赤レンガの壁でみごとに調和しています。


                         Dsc_0611                   
              正面入口の階段室正面のステンドグラスは、公正な裁判を意味する天秤(てんびん)の絵が描かれています。


              人が人を裁くという厳粛な行為が行われる神聖な場所ということを表すものです。



                         Dsc_0616                                      

              この天秤のデザインに符合するかのように、公正な裁判を意味する神鏡と神剣を組み合わせた装飾が正面玄関の車寄せの上部にあります。


              中央階段室のステンドグラスは創建時のもので、この中央階段室でNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』のロケが2回行われています。


              首相官邸に見立てて加藤 剛さんが演じる内閣総理大臣伊藤博文が官邸階段を上るシーンです。



                        Dsc_0603

                        

              天秤を描いた大階段室の天井部に、日輪をデザインした別のステンドグラスがあります。


              円弧を描いた天井部の弧に合わせ、ステンドグラスもしなやかな丸みを持っています。


                       

              Dsc_0606


              旧名古屋控訴院庁舎の敷地内に、昭和3(1928)年施行の陪審法に伴い陪審法廷が増築されました。


              裁判所が移転した際に増築部分はすべて取り壊されて当時の陪審法廷は今はありません。



              Dsc_0646


              現在、旧控訴院の建物内では明治憲法下の法廷、現行憲法下の法廷、陪審法廷が再現し常設展示しています。

              その陪審法廷の天井部にステンドグラスがあります。


              幾何学模様の同じデザインのものが4枚嵌入されています。


               

                      Dsc_0641                 

              旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎のステンドグラス、ガラス工事を請け負ったのが高島屋呉服店装飾部大阪店であったことが遺されていた請求書から分かりました。


              取り付け工事も含めてステンドグラスに関わった人数は125人だったことも備考欄に記されていたそうです。



              Dsc_0645


              ステンドグラス研究家の田辺千代さんは「その制作には関西ステインド硝子製作所だけでなく、梅澤鐡雄の梅澤スティンド硝子製作所も関わったのではないかと充分考えられる」(『日本のステンドグラス 宇野澤辰雄の世界』)としています。



              2015.02.04 Wednesday

              ステンドグラスを見に行く  昭和初期に建てられた浄水場ポンプ室を飾ったグラス(愛知県岡崎市)

              0

                岡崎市水道局の六供(ろっく)浄水場にあるポンプ室を訪ねました。大掛かりな改修工事の最中です。

                交通規制も掛かっていて、大回りしなければ六供浄水場へ近づけません。通行許可車両に見えたのでしょうか、工事車両のため開かれていたゲートを通り浄水場へ入ることが出来ました。


                Img_5770


                後で聞いた話では浄水場は例年6月の水道週間にのみ、一般公開しているそうです。

                そんな事前の情報もなく、訪れてしまいました。

                受付け棟があるのですが、施錠されていて誰もいません。お目当てのポンプ室のステンドグラスも建物内部から見ることができません。



                Img_5777


                昭和8(1933)年に建造された六供浄水場ポンプ室です。

                ポンプ室の外壁は薄茶色の縦長タイルを貼り、コーナーや軒先はすべて丸みが付いていて、要所にテラコッタの装飾があります。



                Img_5772


                入り口両側の縦長窓に小さいながらステンドグラスがあるなど、こだわりの設計です。中に入れなかったので、外側から撮った画像です。


                ステンドグラスは両側に水玉紋様を大きく入れ、穂の長い植物を縦に4段、2列デザインしています。



                          Img_5774


                岡崎市水道局のデータでは、鉄筋コンクリート造平屋建て、地下1階で、設計は岡崎市臨時上水道部となっていて、ステンドグラスは伊藤正次、田中昌司となっています。



                          Img_5775

                 

                ポンプ室の隣りに配水塔があります。ポンプ室の翌年の昭和9(1934)年に建造されています。今も現役で活躍している配水塔です。


                浄水場は六供の小高い丘の上にあり、さらに配水塔の高さが17.2mあるので見る位置によっては結構大きく飛び込んできます。


                建造されてしばらくは高い建物もなかったでしょうから、岡崎の街のランドマークとしてあちらこちらから見えたことでしょう。



                          Img_5776


                入口上部に、当時の内務大臣・山本達雄が揮毫した「汪水沾洽(おうすいてんこう)」の銘板があります。豊かな水がゆき渡るという意味があるそうです。

                正面に高く伸びて上部がアーチ形になった階段室があり、円形の最上部には縦長窓が取り巻くユニークな形をしています。

                2015.02.03 Tuesday

                ステンドグラスを見に行く  名古屋近代化の時代、様々な人々が去来した地域に遺る教会のグラス(愛知県名古屋市)

                0

                  東区主税町3丁目にあるカトリック主税町教会は、礼拝堂正面ポーチが3連アーチが優しい弧を描き、礼拝堂の隣に復元された鐘楼にある鐘は1890年にフランスのマルセイユで造られたものになるそうです。


                  Dsc_0562


                  礼拝堂は木造平屋建て、桟瓦葺き、白漆喰で仕上げられています。


                  礼拝堂裏手に見えるケヤキの大木は都市景観保存樹に指定されています。



                  Dsc_0563


                  ここに3種類のステンドグラスがあります。

                  いずれも十字架をデザインしたものです。


                  Dsc_0569


                  天井部のバラ窓にある十字架はデザインも色遣いも現代的なものですが、1階の入り口や玄関にあるものは落ち着いた色を基調に仕上げています。


                  Dsc_0565

                   

                  昭和34(1959)年の伊勢湾台風後、入り口と外陣両側が増築したため、側廊ができ三廊式となったといいます。



                  Dsc_0568


                  名古屋城から徳川園にいたるエリアは、江戸から明治、大正へと続く名古屋近代化の歩みを伝えるさまざまな建造物が遺されています。


                  Dsc_0573


                  このエリアを「文化のみち」として建築遺産の保存・活用を進めています。

                  カトリック主税町教会は、町並み保存地区内にあります。


                  Dsc_0571


                  町並み保存地区は、木造の古い建物が数多く遺る白壁、主税、撞木町のエリアで戦災による焼失から免れました。

                  この一帯は近代産業の担い手となる起業家、宗教家、ジャーナリストなど様々な人々が去来し、交流する舞台となった地域です。


                   

                  2015.02.02 Monday

                  ステンドグラスを見に行く  戦時供出を免れるためいち早く地下倉庫に隠されたグラス(愛知県名古屋市)

                  0

                    文化のみち橦木館は、陶磁器商として活躍した井元為三郎(1874−1945年)が、大正末期から昭和初期に建てた邸宅です。

                    東区
                    橦木町2丁目の閑静な住宅街にあります。

                    大きく区画割りされた敷地に和館、洋館、東西2棟の蔵、茶室、庭園が遺されています。


                    Dsc_0516

                    この地域は明治初期から各種製造業が盛んでしたが、中でも輸出向けの陶磁器産業が中心でした。

                    最盛期には日本の輸出陶磁器の8割近くが名古屋を経由して全世界に輸出されていました。

                    井元為三郎は16歳で有田系の商店に入り、明治30(1897)年に24歳で独立、橦木町に隣接する飯田町に井元商店(現 井元産業株式会社)を構えます。


                    Dsc_0517


                    明治40年代にはサンフランシスコに貿易会社を設立。大正に入るとシンガポールやビルマにも進出して陶磁器以外に医薬品や雑貨も扱うようになります。


                    大正13(1924)年、名古屋陶磁器貿易商工同業組合の組合長に就任するなど陶磁器業界の重鎮として活躍しました。



                    Dsc_0519


                    そうして蓄えられた財を基に大正末期、為三郎が一番力に溢れていた時期に井元邸は建てられました。



                               Dsc_0524                            (洋館玄関のステンドグラス)


                    井元邸のステンドグラスは、洋館玄関、応接室、洗面所、和館への入口欄間、そして洋館2階娯楽室に入れられました。


                    Dsc_0525               (洗面所の欄間にあたる場所に設置されたステンドグラス)


                    ステンドグラス研究家の田辺千代さんは「井元邸のスティンドグラスは、ドイツ、オーストリアに興った分離派(セセッション)の影響を受けたデザインとアメリ カン・アールデコを彷彿とさせるデザインが、実にさりげなく使われている。アメリカン・アールデコ様式意匠は昭和に入ると瞬く間に日本中に広まり、建築を はじめ室内装飾、装身具、日常生活用品等のあらゆるところに波及していった。橦木館のスティンドグラスは、この流行に先駆けた作品と言えよう」としています。



                               Dsc_0530


                    また、「橦木館に入れられたスティンドグラスの製作者は、宇野澤スティンド硝子工場草分けの職人梅澤鐡雄と思われ」るとしています。

                     

                    Dsc_0532                (水周り部分の各種のタイルにも注目です)


                    為三郎の処世訓は「幸福は我が心にあり」で、好きなことを存分に行った豪放磊落(らいらく)な人物だったといいます。

                    為三郎のそんな性格を垣間見せるエピソードがあります。



                    Dsc_0540       (2階娯楽室とサンルームのステンドグラス。娯楽室にはビリヤードも置かれていたそうです)


                    戦争が長引くにつれ昭和18(1943)年になると「家庭は小さな鉱山である」のふれ込みで、各家庭からの金属供出、回収が始まります。

                     

                    Dsc_0537


                    最初は穴のあいたバケツ、 ナベ、カマなどが回収されたのですが、2回目以降は不用なもので無傷なナベ、カマなど、まだ使用出来るものまで供出するようになります。


                               Dsc_0539


                    家庭外でも、橋の欄干に使われている鉄材を取り外したり、ついにはお寺の梵鐘まで供出ということになっていきました。

                                

                    Dsc_0549                 (応接室欄間に据えられたステンドグラス)


                    井元邸ではこうした世の中の動きを察したのでしょう、いち早くステンドグラスを取り外し布で梱包し地下の物納庫に隠したそうです。


                    ステンドグラスに使われている鉛は、すぐに鉄砲の弾丸に使用するべく供出するよう迫られるからです。



                    Dsc_0551


                    供出を拒んだりすると「非国民」の烙印が押され、村八分状態に追い込まれることから実質的に差し出さないということは不可能なことでした。



                    Dsc_0554            (今ではなかなか見ることができなくなったガス窯戸と台所のタイル)


                    拒む代わりにいち早く隠し込んで知らぬ顔をするなど豪放で磊落でなければなかなかそうはできなかった時代背景であったはずです。



                    Dsc_0558                  (洋館と和館を分ける欄間にあるステンドグラス)


                    井元邸の所有が市に移り、調査していたところ地下倉庫にステンドグラスが眠っているのが見つかり、窓などに嵌め込んで行くとぴったり落ち着いたと言います。

                     

                    Dsc_0557


                    為三郎が陣頭指揮してステンドグラスを大切に梱包し、しまい込む姿が見えてくるようです。


                    2015.02.01 Sunday

                    ステンドグラスを見に行く  女優引退後、充実した生き方を送ったマダム貞奴の二葉御殿を彩ったグラス(愛知県名古屋市)

                    0

                      大正9(1920)年に東二葉町(現 東区白壁町)の小高い敷地に建てられた川上貞奴(さだやっこ、本名=貞、1871−1946年)の邸宅の2階から名古屋城や遠くには木曽御嶽山を望むことができたといいます。

                      また中央線の車中からは、この洋館の赤い瓦が目に入ったそうです。


                      Dsc_0445


                      日本の女優第1号である川上貞奴が、明治44(1910)年に夫の川上音二郎が亡くなった後、大正7(1918)年から名古屋の東二葉町で、名古屋電
                      会社、愛知電機鉄道会社の社長であった福沢桃介(1868−1938年)と新しい生活を始めます。


                      Dsc_0469   (大広間に隣接する食堂に嵌入された槍が岳と高山植物を描いた図柄。桃介は木曽山脈=中央アルプスからの雪解け水を利用して木曽川水系に7カ所の発電所を建設しました)


                      2人が名古屋市内で住んだ邸宅は「二葉御殿」と呼ばれ、2,000坪を超える敷地内に建てられた和洋折衷の建物は、桃介の事業の接待の場として使用されたのでしょうか、政財界など各方面の有力者が集うサロンとなりました。


                      ここで貞奴は連日のようにやって来る大勢の客の応接をし、晩餐の手配に追われる傍ら川上絹布の経営者としての仕事もこなしました。


                      Dsc_0476   (貞奴はダム工事の現場に桃介を訪ねることもあったといいます。こうした壮大なアルプスの光景も目にしていたに違いありません)


                      また、電車で3時間かかる木曽のダム建設現場へ出かける桃介に同行することもあり、忙しくとも充実した日々の連続であったようです。

                      貞奴は、幼い頃に生家が没落したことから芸者置屋の養女となり、やがて芸妓として座敷に上がりその才色兼備ぶりが話題となり、時の総理伊藤博文や元勲の西園寺公望などから贔屓にされ名実ともに日本一の芸妓になったといいます。


                      Dsc_0477   (大広間に隣接する食堂に嵌入された槍が岳と高山植物を描いた図柄。桃介は南アルプスから雪解け水を利用して木曽川水系に7カ所の発電所を建設しました)


                      当時、慶応義塾の学生であった福沢桃介と出会うのですが、馬術をしていた貞が野犬に襲われているのを桃介が追い払ったことが馴れ初めになったと言います。



                      Dsc_0479   (コース料理の後の夜食に用意されるのは鯛茶漬けか鶏飯で、二葉御殿の名物として好評だったといいます。この槍が岳を描いたステンドグラスも創建当初からのものです)


                      これをきっかけに2人は恋に落ちるのですが、1年後に桃介はかねてから婿入りすることになっていた福澤家の二女と結婚します。


                      このため2人は
                      長い別離を挟むそれぞれの道を歩みます。


                      明治27(1894)年に自由民権運動の活動家で政治を風刺した「オッペケペー節」や壮士芝居で人気を得ていた川上音二郎と結婚します。


                                Dsc_0480


                      川上一座が興行のため渡ったアメリカ・サンフランシスコの公演で、女優「貞奴」として初めて舞台に立ちアメリカ各地で評判を得ました。


                      また、同33(1900)年パリ万博で公演し空前の話題を呼び、フランス政府から勲章を授かるなど、「マダム貞奴」として一躍有名になります。


                      この公演に彫刻家のロダンも招待されていて貞奴に魅了され彼女の彫刻を作りたいと申し出たそうですが、貞奴はロダンの名声を知らず時間がないとの理由で断ったというエピソードがあります。 


                       

                                Dsc_0486           (ドイツ人画家のミュッラーが描いた川上貞奴来演を知らせる舞台衣装をまとった「サダ・ヤッコ」のポスター。1900年のパリ万博ポ スターの影響を受けて作られたとされるものです。パリではキモノ風の「ヤッコドレス」が流行り、ドビッシーやピカソは彼女の演技を絶賛し、フランス政府は オフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与しています)


                      その後、貞はフランスに渡り現地の劇場や女優養成学校を視察して帰国、同41(1908)年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を東京・芝に創立しています。


                      同44(1911)年に音二郎が病没します。遺志を継いで公演活動を続けますが演劇界や世間から反発を買い、貞奴は音二郎の7回忌を済ませた後、大々的な引退興行を打ち舞台から身を引きます。



                      Dsc_0505   (創建当初からのステンドグラスがもう一つあります。2階にある桃介の書斎に嵌められたカエデをデザインしたものです。カエデは貞奴が好んだ樹木です)


                      引退後の大正7(1918)年に名古屋・大曽根に輸出向け最上級の絹を生産販売する「川上絹布株式会社」を設立し、同9(1920)年に名古屋・東二葉町に居を構えます。


                      貞奴はここで、 15歳の頃から旧知の仲であった福沢桃介とともに暮らすようになります。



                      Dsc_0493   (昭和12年に売却された二葉御殿は翌年に大掛かりな改築がなされます。現在、この桃介が使用したという書斎も古い資料をもとに復元されています)


                      川上絹布蠅砲蓮15、6歳から20歳まで、40〜50人の女工が働いていました。


                      作業は45分続き、15分休むというスタイル。女工たちはみな、紺のセー ラー服に靴を履き、女学生のような格好で働いていたそうです。


                      昼休みの運動にはテニスをし、工場の中にはプールまであったといいます。



                      Dsc_0488   (座布団が見えますが、貞奴が経営した川上絹布工場で作られたものです。絹製品は品質が高く、フランスなど海外へ輸出されていました)


                      また、全員が寮で生活をし、夜にはお茶、お花、和裁などの習い事、休日には演芸会などのリクリエーションを開いていました。


                      厳しい労働と安い給料で酷使されていた当時の女工の待遇から考えると、夢のような生活を送ることのできる、まったく新しい会社だったのです。



                                                                 Dsc_0497                  (2階へ上がる螺旋階段を照らすようにステンドグラスの照明燈があります)


                         過ぎし昔の夢なれや   工女工女と一口に

                         とかく世間のさげすみを   うけて口惜しき身なりしが

                         文化進める大御代の   恵みの風に大道を

                         なみせる古き習わしや   思想を漸く吹き払い


                      川上絹布会社の社歌の一節です。



                      Dsc_0500          (照明燈の現物が遺っていたことから幾つかのレプリカを造り設置しています)

                      福澤桃介は大正期に木曽川水系に多くの発電所を建設し「電力王」の異名を取りました。

                      幼少から神童と呼ばれる秀才で、慶応義塾に進みます。


                      慶応義塾での優秀な成績から福沢家に知られることとなり、福沢諭吉
                      (1835−1901年)の次女ふさの婿となる為、福沢家の養子となりました。


                               

                               Dsc_0482

                       

                      明治20(1887)年にアメリカへ留学。帰国後、北海道炭礦汽船鉄道会社に入社するものの肺結核を患い退社、療養生活に入ります。


                      日露戦争をきっかけに株で大成功し、財をなし、これを元手に事業家への道を歩み始めました。



                      Dsc_0449


                      大正2(1913)年、名古屋電燈株式会社の取締役に就任。電力会社を合併し、大同電力株式会社を設立しました。



                      Dsc_0451


                      社長として名古屋を拠点に木曽川水系の電力開発に乗り出し、名古屋の二葉御殿では、川上貞奴の協力のもとに政財界の接客を行い、事業の推進を図りました。



                      Dsc_0450


                      日本初のダム式発電である大井発電所など木曽川に7カ所の発電所を建設しました。


                      電力王、経営の鬼才とも呼ばれた所以で、我国の産業界に大きな足跡を残しました。



                      Dsc_0452


                      大正15(1926)年、木曽川を堰き止める前代未聞の大井川発電所のダム建設事業が軌道に乗り出すと病気がちになった桃介は後進に道を譲り、自身は東京に戻り隠居の道を選びました。



                      Dsc_0490


                      貞奴も大正13(1924)年に設立した「川上児童楽劇園」の指導のため東京と名古屋を行き来する生活を送っていましたが、昭和12(1937)年になって2,000坪に及ぶ土地は分割して売却します。


                      二葉御殿も洋館部分の一部は取り壊され、残る部分も一部改築されて新しい所有者の住宅となりました。


                                
                                 Dsc_0454                                                   

                      当時の記録によると、玉砂利の道を入って行くと車寄せの前にロータリーがあり、電気仕掛けの噴水やサーチライトもがあったようです。


                      2,000坪を超える敷地に建てられた屋敷は「二葉御殿」と呼ばれ、赤い屋根、緑の芝生、水を湛えた噴水があり、園遊会に招かれた客の中にはあまりの豪華さに思わず声をあげる人もいたそうです。


                      設計施工は、当時の洋風住宅専門会社の「あめりか屋」で、米国住宅のデザインを採り入れた和洋折衷の建物でした。

                      東西に長い建物の東側は、洋風建築様式が採り入れられており、入口から奥の建物西側部分は和風の部屋となっていました。


                      Dsc_0456


                      名古屋市は、平成12(2000)年に建物の寄付を受け、解体保管の後、
                      平成17(2005)年に「文化のみち二葉館」として東区橦木町3丁目に移築復元しました。
                       

                      解体保管材をできる限り使用し、当時の雰囲気を残すように配慮したといいます。



                      Dsc_0457


                      二葉御殿には数多くのステンドグラスが飾られました。そのステンドグラスの原画は桃介の義弟でデザイナーとして名の売れていた杉浦非水(1876−1965年)です。

                      またステンドグラスの制作に当たったのは宇野澤スティンド硝子製作所でした。


                      Dsc_0458


                      応接間に飾られた「初夏」と題する作品です。現在はテラス扉になっています。

                      シャクナゲ、アジサイ、ユリ、カキツバタなどの初夏に咲く花に交じって左手に見える赤色の花はモミジアオイです。モミジアオイは明治の初年にアメリカから日本に伝えられた植物で、貞奴はアメリカへ巡業した時にモミジアオイを見て好きになったようです。


                                Dsc_0459             
                      それで非水に頼んで原画の中に入れてもらったのではないかと見られています。

                      水辺にはバンが、タイサンボクの幹にはキツツキが描かれています。

                      この「初夏」と題するステンドグラスは川上邸が分割されて売却された時、取り壊した洋館部分から移して改築された部分に転用しています。


                                 Dsc_0460

                      さらにその後、木曽のゴルフ場へ移されます。

                      そして、
                      旧二葉御殿に平成17(2005)年に約70年の歳月を経て再び蘇りました。

                      下は「踊り子」と題するステンドグラスで、復元されたものです。

                      復原に当たったのは松本スティントグラス製作所で、創業者の松本三郎は宇野澤スティンド硝子工場で修業した後、昭和23(1948)年に工房を創設しました。


                      Dsc_0461


                      ステンドグラスの制作に当たったのは宇野澤スティンド硝子製作所で、その職人として志村 博(1901−1991年)がいました。

                      生前、仕事に携わった志村の記憶から「踊り子」という作品があったことが判明します。「一人は竪琴を持って、真ん中の女の人はタンバリンを持って踊っていて、もう一人の人は確か笛を吹いていた」というのが志村の記憶でした。


                                 Dsc_0464

                       

                      復元のための資料収集していた松本スティントグラス製作所の松本一郎(1972年〜)さんは次のように語っています。

                      「最初に2枚の古写真を見せられましたが、白黒でぼやけていたので誰かが踊っているのだが表情もわからないし、手の向きとか、奏でている楽器の種類も分からなかった。左の女性の持っているものは琴ではなくて、最初は琵琶だと思った」

                      「踊り子の手の向きなどの検討が大変だった。また描くたびに足下の模様や上の模様もどんどん変わっていった。最後まで悩んだのは中央の踊り子の表情だった」


                                 Dsc_0465

                       

                      杉浦非水の画集を参考にいろいろな顔のスケッチを作成して検討し、最終決定したのは原寸図を描いた後だったといいます。

                      現在は大広間の一角に飾られていますが、当初は浴室の窓に嵌められていたと言います。


                                 Dsc_0466


                      桃介は、昭和13(1938)年に渋谷の自宅で死去します。長野県南木曽には桃介ゆかりの施設が残されています。



                      Img_2776   (長野県南木曽町に遺る桃介橋。木製の補剛トラスを持った吊り橋で、橋長247m、幅員2.7mあり日本有数の長大橋。大正10年に下流の読書発電所の建設用資材運搬路として建設されました)


                      貞は昭和8(1933)年に岐阜県鵜沼に私財を投じて貞照寺を建立し、東京と鵜沼を行き来する生活を送りました。


                      昭和21(1946)年、熱海の別荘で死去。死後は貞照寺に埋葬されました。
                                        

                                                          

                      2015.01.24 Saturday

                      ステンドグラスを見に行く  歴史上の人物が投宿する姿を見てきた老舗旅館のグラス(神奈川県箱根町)

                      0

                        箱根塔の沢は、いわゆる箱根七湯の一つとして江戸時代から世に知られていました。

                        古い記録には文明年間(1469−1487年)にすでに温泉のあったことが記されていますが、温泉場としての開発は江戸期の初期の慶長19(1614)年に元湯(後の環翠楼=かんすいろう)が開かれたことが始まりとされます。実に400年前に遡ります。

                             
                                                            Dsc_0214
                        (様々な歴史を刻んで来た環翠楼の建物。13代将軍徳川家定の御台所・天璋院篤姫は、14代将軍家茂の御台所・静寛院和宮の終焉の地となった環翠楼を訪れ、横を流れる早川を眺めながら号泣されたといわれます)
                                                                                          塔の沢には元湯に次いで新たに湯治旅館ができて、江戸末期には9戸に及んだと言います。


                        この頃、箱根の交通はまだまだ不便で箱根と言っても小田原に近い湯本や塔の沢が開かれたくらいで、宮の下、千石原方面は未開の地でした。


                         

                        Dsc_0096   (玄関口に箱根細工の名人・白川洗石が神代杉の地板に象眼した環翠楼の扁額が掲げられています。伊藤博文が作った漢詩から環翠楼の文字を採り、長 三州直筆の文字を細工しています)


                        その塔の沢の元湯に明治10(1877)年に、かねてから脚気を患っていた第14代将軍家茂に降嫁した皇女・和宮(静寛院宮)が療養に滞在することになります。


                        今では考えられないことですが、脚気は当時は不治の病として恐れられた病気でした。


                         

                        Dsc_0116


                        江戸期には水戸光圀などの大名や豪商なども湯治に訪れ賑わった元湯ですが、和宮の療養となればこれまでとは違った思いで迎えたに違いありません。


                        四周が緑に囲まれた地に転居して一時は清々しい心地で、歌会を催したり、塔の沢の婦女子を招いて茶菓子を振舞われたりしたようですが、まもなく病は日々重くなり食欲が衰え立ち上がることもできなくなり、静養後ひと月経たぬうちに逝去してしまいます。

                        和宮の追慕に当時の館主が追悼碑を建立していて、今も環翠楼の中庭に遺っています。


                        Dsc_0130


                        元湯はなんどか所有者が変わってきましたが、明治17(1884)年に小田原の有力者・鈴木善左衛門の手に渡ります。

                        鈴木は著名な大官、豪商、政客、文人らと親交が厚く、続々と来泊するようになり環翠楼の名が広く知られるようになったと言います。



                        Dsc_0125

                         

                        環翠楼の館名も、明治23(1948)年にみごとな風光に感激した伊藤博文(1841−1909年)が当主に詩を贈呈、その漢詩の中の文字から命名しています。

                        現在の建物は、大正期に造られた木造4階建てです。宮大工が造り上げた建築様式は、小柱、梁、筋交いを組み合わせた「総もたせ造り」や随所に銘木が使用された建物のすばらしさがあります。



                        Dsc_0165

                         
                        鑑賞価値があったり稀少な価値のある木材を銘木と呼びますが、環翠楼には随所に銘木が使用されていて、現在もそれを見ることができます。


                        Dsc_0098


                        遣唐使により唐から伝来したことから特別に唐木(からき、とうぼく)と呼ばれる銘木があり、中でも、紫檀(シタン)、黒檀(コクタン)、鉄刀木(タガヤサン)は「唐木三大銘木」とされ珍重されて来ました。



                                     Dsc_0127_2


                        鉄刀木は重硬で緻密な材質で、古くから銘木中の銘木として珍重されてきたものですが、2部屋の床柱に使用されていて環翠楼のステータスシンボルとなっています。


                        大広間や客室の各部屋にも杉、桜、桐などの銘木がふんだんに使われています。

                                                                                                                                                  

                            

                                                           Dsc_0205                                                                                                                      

                        日本の伝統的な建築技法を駆使して造られた当館は、細かい部分にまで職人のこだわりが見てとれます。



                        Dsc_0190


                        かつての旅館は共同の洗面所、トイレが通常でした。水道配管、浄化槽設備、水洗化などの進歩、普及に合わせ共同の洗面所なども見られなくなりました。


                        環翠楼には、かつての共同洗面所の施設が残っていて使用もできます。下はモザイクタイルです。



                        Dsc_0163


                        大浴場(内湯)も風呂タイルが張られています。



                        Dsc_0176


                        大正時代に輸入した舶来タイルで、当時としては珍しかったといいます。


                        今見ても斬新なデザインで、古めかしさ、違和感といったものが感じられないのではないでしょうか。



                        Dsc_0187_2


                        環翠楼は自家源泉を3本持っているそうです。


                        37号泉、50号泉、110号泉と呼んでいて、それぞれの温泉を混合して各浴槽へ供給しています。



                        Dsc_0188_2

                                                                                                     「湯番」と呼ぶ温泉管理のスペシャリストが、毎日気温、湯温に応じて温度を調整し、お客に快適なかけ流し温泉を提供しているといいます。



                        Dsc_0167


                        この由緒ある歴史を刻んで来た環翠楼の館内5カ所に、小川三知(1867−1928年)が手掛けたとされるステンドグラスが嵌入されています。


                        三知の作というのは伝承で、これを裏付けるものはないようです。



                        Dsc_0168


                        まず脱衣場の上部の明かり取りに、2種類の絵柄のステンドグラスがあります。


                        環翠楼の大浴場は男女別に2カ所ありますが、日替わりで浴場使用を交替させています。


                        ですから1泊して翌日また入浴すると、別のステンドグラスも見られることになります。



                        Dsc_0171


                        一つは、格子戸にハコネバラを描いたもので、ピンクの花色が優しく目に映って来ます。ハコネバラは漢字で書くと箱根薔薇で、別名サンショウバラ(山椒薔薇)とも言います。


                        富士箱根地区に自生している日本の固有種になるそうです。サンショウバラの名は、葉の形がサンショウの葉に似ていることに由来します。


                        幹は太く、5mほどの高さになり枝はよく分枝し、小枝の先端に5弁のピンク色の花をつけます。花は6月に咲き、花の大きさは5〜6cmになるそうです。



                        Dsc_0172


                        別の脱衣場にあるステンドグラスは、富士山を背景に駿河湾に浮かぶ帆かけ船ののどかな風景です。



                        Dsc_0189


                        帆を張った船が描かれていますので、芦ノ湖などの湖ではなく海洋でしょう。



                        Dsc_0185

                        浴場に向かう廊下に大きなサイズのステンドグラスがあります。



                         Dsc_0182


                        一つはハクチョウが遊ぶ湖を背景に、やはりハコネバラが垂れ岸辺にアヤメが花咲く風景が描かれています。

                         

                        もう一つはやはり廊下にあります。


                        そしてもう1カ所は、1階の婦人用トイレの観音開き窓にあるアールデコ風の植物デザインです。



                        Dsc_0141_2


                        婦人用トイレは外からの自然光を映して輝くように設置されていますが、他の4点は蛍光灯を当てて色を浮かび上がらせるように羽目ごろし窓にしてあります。


                        ですからそれぞれが伝承で伝わるように、設置当初の大正8年の建設年から設置場所を変えて来ていることは間違いのないところでしょう。


                        見て分かるように、まったく作風の違うものです。



                        Dsc_0144


                        婦人用トイレのステンドグラスはまったく新しい材料のなかに収まっていますし、他は螢光照明がまだない頃ですので、透過光に向かって設置されていたことは容易に想像されます。


                        環翠楼の名付け親は日本の初代首相伊藤博文ですが、伊藤はこの環翠楼がすっかり気に入りたびたび定宿にして訪れています。


                        Dsc_0151


                        明治24(1891)年に滋賀県大津市でロシア最後の皇帝となるニコライ皇太子が日本人巡査に斬りつけられる事件が発生します。


                        この時、伊藤は環翠楼で宴の最中に伝達を受けたそうです。



                        Dsc_0153


                        同28(1895)年に日清戦争後の講和条約締結のため、当時の中国大統領にあたる李鴻章が来日します。李はこの時、環翠楼に宿泊しています。


                        下って同44(1911)年には中国の革命家・孫文が中国から日本へ亡命しますが、孫文は環翠楼を定宿として使用しています。



                        Dsc_0112             (婦人用トイレにあるアールデコ風の植物デザインのステンドグラス)


                        明治中期の江戸相撲を飾った力士に大関の大砲(おおづつ)萬右衛門がいますが、大砲が環翠楼に静養にやって来たことを契機に環翠楼当主と縁戚関係になります。


                        当時の大砲の手形が現在も残っています。



                        Dsc_0115   (浴場に向かう廊下にあるステンドグラスは婦人用トイレにあるものと類似したデザインが描かれています)


                        夏目漱石、島崎藤村や桂太郎(日露戦争時の総理大臣)、東郷平八郎(連合艦隊司令長官)、西園寺公望(最後の元老)も投宿しています。


                        このほかにも明治の時代から日本の歴史に名を残す人物が環翠楼に登楼しています。こうした人々の目にも環翠楼のステンドグラスは映ったことでしょう。



                        Dsc_0149


                        現在の環翠楼の建物は、箱根登山鉄道が開通したのと同じ年の大正8(1919)年に改築工事を終えています。


                        鉄道工事で隧道造成の掘削工事中に水が湧き出ました。環翠楼ではこの時の湧水を現在も飲料水や食事用に使用しています。



                        Calendar
                         123456
                        78910111213
                        14151617181920
                        21222324252627
                        28293031   
                        << May 2017 >>
                        PR
                        Selected Entries
                        Categories
                        Archives
                        Recent Comment
                        Links
                        Profile
                        Search this site.
                        Others
                        Mobile
                        qrcode
                        Powered by
                        30days Album
                        無料ブログ作成サービス JUGEM