番外編 投稿をいただきました
当ブログをご覧いただいた「bigapple」さんから、投稿がありました。
投稿いただいた記事は、2014年7月27日の「高級住宅地の広大な敷地内にある二つの建物(白金)」についてです。
コメントの全文を掲載します。
「この建物の近所に暮らしていた者です。外観、今も変わっていません。最近売却されたと聞きました。取り壊されるのでは?と心配です。山崎豊子さんの『二つの祖国』の中にもこの建物が出てきます。戦後の東京裁判の際、日系アメリカ人の軍人達がここで日夜資料作成を行っていたと言うような内容だったかと思いま す。ヨーロッパのように、このような歴史ある建物は美術館などにでもして遺して欲しいと切に願います」
服部邸が接収中、東京裁判や憲法草案を起草する裏舞台になり、これが「二つの祖国」に描かれていたことは知っていたのですが、それを当日の記事中に記すことを忘れていました。
bigappleさんからのご指摘で失念していたことを思い出しました。
接収当時、「服部ハウス」と呼ばれたその建物内でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)軍人、軍属のもとで食事賄いをしていた奈良村昭二、玲子さん夫妻(現在、東京・神楽坂で「キッチンえびす亭」経営)が、雑誌インタビューに応えた証言があります。
書き記すことを忘れてしまった内容は、こちらでご覧いただけます。
bigappleさん、ありがとうございました。
ステンドグラスを見に行く 乗降客で賑わう大都会の駅に心に潤いを与える自然を描いたグラス(東京・渋谷)
副都心線途中下車の駅構内にあるパプリックアートとしてのステンドグラスを巡るコースの最後は、渋谷駅です。
渋谷駅は、JR東日本の各線、東急の各線、京王・井の頭線と東京メトロの各線という4社の路線が乗り入れるターミナル駅です。JR以外の各線はすべてここをを起点・終点としています。
2012年度の各社合計の1日平均乗降人員は約310万人で、新宿駅に次いで全国2位の多さです。
明治18(1885)年に日本鉄道の駅が開業した時の利用者は、終日ゼロだったといいますから信じられない変化です。
昔から渋谷駅と言えば「忠犬ハチ公」の銅像がシンボルで、ハチ公口の出入り口を出るとよくテレビの中継風景に出て来るスクランブル交差点があります。
そして周辺が奥行きのある繁華街の一つになっています。
副都心線渋谷駅の地下2階にある半蔵門線方向の改札外通路に「海からのかおり」と題したステンドグラスがあります。横9m、縦2.4mのサイズです。
洋画家・大津英敏(えいびん、1943年〜)さんの原画をもとにステンドグラス化しています。子女の誕生を機に家族をテーマにした淡い色調の作品が多く、近年は風景画にも取り組んでいるといいます。
「海からのかおり」も、富士山を望む七里ヶ浜を舞台に大きく成長した愛娘をモデルに描いています。ステンドグラスは職人が制作しましたが、顔の部分は大津さんが直接描いたそうです。
大津さんの制作コメントがあります。
ひしめく人と、高層建築で溢れる大都会東京。
その街を縦横に走る地下鉄道と雑踏で賑わうメトロの新駅。
そのような場所でこそ、豊かな海や山の見える大自然の風景が、
心に潤いを与えるのではないだろうか。
それにしても天井灯がカメラレンズを通してしっかり画像に映り込んでいます。ハイアングルを変えてもローアングルに違えても入ってしまいます。
もちろん肉眼で見る場合も目に入って来ます。
地下鉄のコンコースの壁面の一画をギャラリーに見立て、多くの人が目にするパブリックアートにしているのですから作品を邪魔する照明はいただけません。
現在の照明技術からすると難しいことではないはずです。
ステンドグラスを見に行く 「私の我慢みたいな塊がこうした絵を描かせる」という画家が制作したグラス(東京・外苑前)
東京メトロ・副都心線の明治神宮前駅で降りて地下1階Bの神宮前交差点方面に向かうと、改札内の壁面に力強いデザインと鮮やかな色彩のステンドグラスが目に飛び込んできます。
「いつかは会える」と題した洋画家の野見山暁治(のみやまぎょうじ、1920年〜)さんが、平成20(2008)年に制作した横10m、縦2.6mの作品です。
横10mのサイズはご覧のようにレンズの枠内に収まりきれません。ですから瞬時にステンドグラスの前を通り過ぎる人たちに、インパクトを与えるような訴求力を重視したといいます。
野見山さんは現代日本を代表する画家の一人で、独特の造形で海外でも高い評価を得る一方、東京藝術大学で長く教鞭を執りその後、同大名誉教授となり文化功労者としても顕彰されています。
野見山さんがステンドグラスを制作したのはこれが初めてで、完成した時は87歳だったといいます。油絵の原画から始まりガラスに直接自ら絵付けをして仕上げるまで、1年半の時間を注いだそうです。
この「いつかは会える」を制作した後、平成23(2011)年にJR博多駅に「海の向こうから」、同25(2013)年には福岡空港国際線ターミナルに「そらの港」と題したステンドグラスを制作しています。
時流にとらわれることなく、ひたすら自己の絵画と格闘し続けてきた野見山さんは、絵画だけでなく文筆にも長け、『四百字のデッサン』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞、以来、エッセイスト、文筆家として自らの戦争体験、芸術論、交遊録、アトリエ日記などを書き、文筆作品も夥しい数に上ります。
その中で、自らが描く絵画について言及している部分があります。
「どうしてきみは文章のような絵を描かないのか相手のことを考えたらもう少しわかりやすい絵になるだろうに惜しいよ。誰かが私に言った。全くその通りだ。相手への
サービスをほんのちょっとだけでも絵の中で心がけさえすれば何でもないのだ。
あえて私は意地張っているわけではない。あえて分りにくい絵を描こうとしているわけでもない。ただ私が描きたいように描けばこうなる。言ってみれば男はじっと我慢みたいな塊が私にとっての絵の仕事であって自分としては我慢のために歯を食いしばっているけれど本当は愚痴タラタラがいっぱいあってそこを誰かに聞いてもらわないと歯をくいしばれないんだというのが正直なところかもしれな い。
理屈抜きで見れば私の絵に難解も糞もない。いずれにしても絵と文はまるっきり違うからこそ私は平気でやっていられるのだ。」
野見山さんは昭和18(1943)年に、学徒動員で東京美術学校を繰り上げ卒業となり22歳で入営します。夜明け前にひそかに博多湾から出航し、釜山から汽車に3日間乗せられてソ連国境に近い旧満州の荒涼とした冬の原野の任地に送りつけられます。
しかし、1カ月もたたないうちに野見山さんは病に侵され肋膜に水がたまり、死と隣り合わせの状態で日本に送還され、傷痍軍人施設で終戦を迎えるという自らの辛い体験があります。
こうしたことから若くして戦没した画学生の慰霊のため、遺作・遺品を集めた美術館を造ることを計画し、窪島誠一郎(1941年〜、父親は作家水上勉)さんとともに遺族のもとを2年かけて訪ね回り遺作を蒐集します。
そして平成9(1997)年に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を長野県上田市に開設したことでも知られます。
ステンドグラスを見に行く 慌ただしい都会にあって日常から離れて異次元の空間へ誘うグラス(東京・新宿)
副都心線の新宿3丁目駅は、東京メトロ・丸ノ内線と都営地下鉄・新宿線が乗り入れ、接続駅となっています。
この一帯はメトロプロムナードと呼ぶ地下通路が広がっていて、新宿駅、西武新宿駅、西新宿駅まで歩いて移動することができます。
副都心線の新宿3丁目駅の地下2階にある新宿3丁目交差点改札を出たコンコースにステンドグラスがあります。
表題は「Hop, Step, Hop, Step −不思議の国のアリスシリーズ−1」で、横約8m、縦に2.6mあります。
制作したのは、銅版画家の山本容子さん(1952年〜)です。
京都市立芸術大学で学び、独自の銅版画の世界を確立し、書籍の装幀、挿画なども数多く手がけ、近年では、モザイク壁画やステンドグラスの制作など幅広い分野での創作活動を続けています。
アリスが人の言葉を喋る白ウサギと出合い、追いかけてウサギ穴に落ち、不思議の国に迷い込みさまざまな冒険をするという冒頭部分を描いています。
ステンドグラス作品の近くに山本さんの制作コメントが短く記されています。
日常の時間から離れて異次元へ誘う兎をテーマにしています。
私たちの生活する空間は、時間軸を含めて四次元の空間だといわれていますが、
楽しい気分になった時は、もっと高次元にいるように感じます。
そのような世界への入り口を描きました。
山本さんは先にも書いたように幅広い分野で活躍していますが、その中の一つとしてアート イン ホスピタル(病院アート)というのがあります。
入院して闘病生活を送る人たちが殺風景な天井を見て過ごすのではなく、ベッドで目を開いた時、きれいなものを見ることができる生活環境にしてあげたいという願いから、病室に天井画を描く活動も続けています。
小児科病棟には不思議の国のアリスの続編の「鏡の国のアリス」を題材にした絵を飾っているところもあります。
絵を見ながらストーリーを考えることで想像力を働かせ、前向きな気持ちにさせる効果を期待したいという気持ちからのようです。
山本さんがある対談の中で、作品作りにかける自らの気持ちを語っています。
「ピカソだってべつにピカソが偉いから好きになるわけではなくて、たまたま見た彼の絵が好きになったからですよね。一般の人たちにとって、美術はわかるとかわからないではなくて、まずは好き嫌いの問題です。そういう人たちに私の絵をじかに見てもらって、好きになっていただけたらエールを送ってもらおうと思いました」
ステンドグラスを見に行く 地下鉄と電車を断面化し俯瞰した西早稲田駅のグラス(東京・西早稲田)
前回、飯田橋駅に隣接する複合施設内にあるステンドグラスを紹介しました。これまでにもJRや地下鉄駅のコンコースなどに設置されているステンドグラスもたびたび取り上げて来ました。
近年こうした公共的な場所の一部をステンドグラスやモザイクタイルなどで装飾する「パブリックアート」が増えて来ています。
平成20(2008)年に開業した東京メトロ・副都心線の池袋−渋谷間の各8駅をさまざまな素材を駆使したパブリックアート14点が設置されています。
「活力(ENERGY)」をテーマに、12人が思い思いのパブリックアートを制作し展示しています。
うちステンドグラスは4駅にありますので、順次取り上げて紹介します。
西早稲田駅地下1階の早稲田大理工学部方面の改札を出た壁面に「地下鐵道乃圖」という表題のステンドグラスがあります。横5m、縦2.5mのサイズです。
制作したのは、山口 晃さん(1969年〜)で東京芸術大学で油画を専攻し、平成13(2001)年に岡本太郎記念現代芸術大賞優秀賞を受賞しています。
大和絵や浮世絵風のタッチで建築物などの俯瞰図の中に人物を入れて現代を描き込む画風で知られます。
この地下鐵道乃圖でも、自由でユーモラスな発想で地下鉄内の様子をいかんなく表現しています。
作者の制作コメントが作品の傍に掲げられています。
地下と云うのはどこか心躍るものがあります。
少年の「秘密基地ごころ」をくすぐるとでも云いましょうか、地面が
幾重にもかさなるあたり、何やらパラレルワールドの様でもあります。
そして「地下鉄」と云う、地上を走るものをわざわざ地下に
押し込んだ乗り物にもそうしたおもむきが、無きにしもあらずです。
そう云った様が見てとれるよう、断面図にして此の絵は示されてい
ます。
黄土色を背景色としてよく使用し、作品全体の色彩を浮かび上がらせる技法が採り入られています。
成田国際空港第一ターミナル4F出発ロビーにも「飛行機百珍図」と題した空港内や飛行機を断面化した俯瞰図が展示されています。
ステンドグラスを見に行く 埋め立てた外濠に区境を示すグラス(東京・飯田橋)
JR飯田橋駅は中央本線の駅になるのですが、駅構内の案内表示は「中央・総武線(各駅停車)」と表記されています。
首都圏では一般に「中央線」と言うと中央線快速電車を連想し、中央本線の区間でも、各駅停車については単に「総武線」と呼ばれています。飯田橋駅はその総武線の各駅停車の電車が停まる駅になります。
東京メトロの東西線、南北線、有楽町線や都営地下鉄の大江戸線の4路線が乗り入れています。この辺りは千代田区、新宿区、文京区が境を接しています。
例えば、地下2階にある東西線は千代田区、有楽町線と南北線は新宿区、地下6階の深い位置にある大江戸線は文京区、そしてJR飯田橋駅はこれら3区にまたがっているといった具合です。
(嵌め込まれたステンドグラスの背面と明かり取り用の天井部から自然光が射しこみ、グラスは鮮やかな輝きを見せてくれます)
飯田橋駅前にそびえる駅ビルがあります。飯田橋セントラルプラザ 「RAMLA(ラムラ)」で、オフィスやショップの並ぶ複合施設で飯田橋のランドマークタワーになっています。
ラムラはJR駅の東口と西口の間にあり、1〜2Fには、40余りのレストランやカフェ、テイクアウトショップなどがあり、その上部階は住宅棟(千代田区側)と東京都飯田橋庁舎(新宿区側)や東京都の関連団体などが入居している事務棟になっています。
ここに2点のステンドグラスがあります。そのうちの一つがラムラの中央部にあるエントランスホール、多目的ホールとして使用されているスペースの1階から2階へ上る階段室に取り付けられています。
木の幹の茶、若葉の緑、青空のブルーを基調にした「大樹」と題したもので、背面部と天窓からの自然光をいっぱい取り入れて輝くステンドグラスがあります。
(ラムラ内の階段下の1階通路に区境を示す菱形のプレートが埋め込まれています)
ステンドグラスの近くに銘板があり、「東京都『文化のデザイン事業』、 作者 吉田誠、1984年」と刻まれています。
東京都の文化のデザイン事業というのは、公共施設の壁面をモザイクで飾ったり、玄関まわりに彫刻を置いたりして文化的な香りを取り込もうという試みで、最近は多くの自治体で同じような試みが見られるようになっています。
東京都は昭和56(1981)年から始めています。
この多目的ホールは千代田区と新宿区の区境にあることから「区境ホール」とも呼ばれ、床に境界を示すプレートが埋め込まれています。
ステンドグラスの右半部は新宿区、左は千代田区になります。
通常は自治体の区分は通りであったり川や用水であったりすることが多いのですが、ここは建物の内部に境界があります。おそらくこうした事例は東京にも、全国的にもそう多くはないと思います。
なぜこうした境界が生じたのかと言うと、もともとこの建物は飯田壕と呼ぶ外壕を1970年代の初めに埋め立てたことに由来します。
(飯田濠の石垣の一部が遺され、暗渠の上に小さな水辺公園がありかつての飯田濠を偲ばせます)
戦時中東京は、米軍のB29爆撃機による度重なる空爆を受け、いたるところ瓦礫の山となりました。
(JR総武線のプラットホームから区境ホールのステンドグラスの位置が分かります)
戦後復興に際し、膨大な量の瓦礫を外壕に埋めたのです。昭和25(1950)年頃までに多くの濠の埋め立てが進められました。数少なく残っていた外壕の飯田壕も周辺住民の反対を押し切り、1970年代に暗渠化されます。
その上に後年、飯田橋セントラルプラザが建ったわけですから、堀が通っていた真ん中を人為的に区境としたわけです。跡地に建てられた川や壕などを境界にする場合、通常その中央部を境にします。
埋め立てられた外壕は道路となり、外堀通りと呼ばれるようになります。
もう一つのステンドグラスは、東京理科大学の関連施設がある2階へ昇降する階段の壁面にあります。
ステンドグラスの下部に小さな銘板があり、作品名の「巌」とデザイン制作した「GAMMA」とだけ刻まれています。
ステンドグラスを見に行く 175万冊の蔵書数を誇る一橋大学図書館のグラス(東京・国立市)
東京・国立市にある一橋大学は日本で最も古い社会科学系の大学で、明治8(1875)年に森 有礼(ありのり、1847−1889年)が開いた私塾の商法講習所が前身になります。
森は、明治期の外交官、政治家で初代の文部大臣を務めています。幕末期にロンドン大学に留学し、後に初代のアメリカ代理公使としてワシントンに滞在しています。
(3連アーチの正面入り口が印象的で、音響効果にも優れた兼松講堂。ここに伊東忠太オリジナルの奇怪な空想動物が“棲み”ます)
商法講習所は大正9(1920)年に東京市に移管され、東京高等商業学校と統合し商学専門の旧制官立大学・東京商科大学となります。
しかし、同12(1923)年に関東大震災で東京・一ツ橋にあった校舎が壊滅的な被害を受けます。西武鉄道創業者の堤康次郎(1889−1964年)が現在の国立市に学園都市開発を計画したことを契機に、東京商科大学を昭和2(1927)年に移転することになります。
昭和24(1949)年に商学部、経済学部、法学社会学部の3学部制となり一橋大学と改称し、2年後に法学社会学部が法学部と社会学部に分離して現在の4学部制になりました。
一橋大学の特徴は少人数教育を重視していることで、全学部の学生の合計は1学年1,000人前後で、開学以来の卒業生の数も7万人程度だといいます。
少人数教育の特色は、一般の授業については他学部の科目も原則自由に履修でき、他学部の専攻を副専攻とすることができる副専攻プログラムや、他学部への転学も可能というも伝統に表れています。
また戦前から国際色ある教育が実践され、外国人教師を任用したり500名を超える留学生も受け入れて来ています。
建物はロマネスク様式で統一され、細部の意匠に不可思議で不気味な空想動物や怪物の装飾がみられるのです。
「伊東忠太妖怪ワールド」「伊東忠太動物園」と呼ばれる怪獣が、建物のいたるところに施されてその数およそ100体に及ぶそうです。
建物正面の三連アーチが印象的な兼松講堂は、移転したキャンパス内で最初に建てられた建物で、伊東忠太の設計で昭和2(1927)年に建築されています。
兼松商店(現兼松株式会社)
の創業者・兼松房治郎(1845−1913年)の遺訓により寄贈されたことから兼松講堂の名があります。このデザインを基調にしてその後本館や図書館が次々と建てられました。
講堂は音響に優れていて、これまでにチェコ・フィルハーモニーやウィーン・フィル、ベルリン・フィルの首席奏者を招いてクラッシックコンサートも開かれています。
本館は車寄せが重厚感を際立たせています。その車寄せにも奇怪な動物の顔が飾られています。
日時計の台座にも妖怪が彫られていますが、向こうに見える付属図書館も伊東の設計で昭和5(1930)年に竣工しています。
半円アーチにコリント式オーダーを配した通用口、柱頭はコリント式に設計しています。
真ん中の時計塔の中央には3連のアーチ窓がありステンドグラスが嵌め込まれています。
また、図書館入り口にもステンドグラスがあり智を象徴するフクロウがデザインされています。訪問した時は休館のため内側から見ることができなく、外側からの撮影となりました。
また同じ本を複数所蔵していないといいます。開架図書数は100万冊で、他の国立大学図書館に比べても貸出数が多いといいます。
ステンドグラスを見に行く 明治天皇の事蹟を描いた絵画館にあるグラス(東京・神宮外苑)
映画やテレビドラマのロケ地として明治神宮外苑にあるイチョウ並木がよく登場します。
青山通りが外苑の入り口になりますが、両側のイチョウの並木の中心に絵画館があるように植裁されてます。
画像では実際の並木の距離より絵画館が遠くにあるように見えるのですが、これは遠近法によるもので中央の消失点に絵画館があるからです。
絵画館は正式には聖徳(せいとく)記念絵画館と言い、幕末から明治期にかけての明治天皇の事績を描いた絵画を展示している美術館です。
「大政奉還」(邨田丹陵作)、「江戸開城談判」(結城素明作)、「岩倉大使欧米派遣」(山口蓬春作)など教科書や歴史書に掲載される絵画を見ることができます。
明治天皇崩御後の大正8(1919)年に建築計画が持ち上がり、同15(1926)年に竣工しています。
ドーム状の荘厳な鉄筋コンクリート造2階建てで、延べ面積4700m²あるそうです。
中央ドームの頂上部までの高さは約32mで、中央の径15mのドームを入れて左右対称に構成した幅が約112m、奥行が約34mあります。
外観は花崗岩を貼り、当時流行したセセッション様式を採り入れた重厚なデザインで仕上げています。
設計は公募による設計競技で1等となった大蔵省臨時建築部技手・小林正紹(まさつぐ、1890−1980年)の原案に、明治神宮造営局の小林政一(まさいち、生没年不明)、高橋貞太郎(ていたろう、1892−1970年)が実施設計を行っています。
絵画館の玄関ホールと館内にステンドグラスがあります。館内の撮影は一切認められていませんので、エントランスホールのステンドグラスを紹介します。
といっても、制作者、制作年代はデータがなくまったく分かりません。三連の尖頭窓に同じシンプルなデザインのステンドグラスが高い位置にある明かり取りに嵌入されています。
ステンドグラスを見に行く 入院者の心の支えになった聖路加病院礼拝堂にあるグラス(東京・築地)
築地にある聖路加(せいるか)国際病院は明治7(1874)年、当時在った外国人居留地に宣教医師によって造られた診療所が始まりになるそうです。
現在は東京でも最もよく知られる大規模総合病院の一つですが、予防医療にも力を注ぎ医療行政にも積極的に関与していることで知られています。
いわゆる病院ランキングではたびたび上位にランクされているようですし、医学生の臨床研修施設として人気の高い病院です。
平成4(1992)年にツインタワーとも呼ばれる47、38階建ての新病棟施設が竣工し、すっかり様変わりしました。新病棟は施設内のあらゆる壁面に酸素供給口が設けられて大規模災害時に救急救命の医療処置ができるようになっています。
平成
7(1995)年に地下鉄サリン事件が発生しましたが、被害者診療時に大いに活用されました。
現在、病院敷地内を3区分し、旧病院棟があったところを第1街区として病院の歴史を刻んだ施設を保存しています。
その第1街区に聖路加病院礼拝堂があります。礼拝堂は明治33(1900)年に建てられましたが、関東大震災やその2年後の火災に遭って焼失し、昭和11(1936)年に再建されたのが現在の礼拝堂になります。
当時はどの病室からも礼拝堂屋上の十字架を見ることができ、入院患者の精神的な支えになっていたと言われています。
昭和20(1945)年の敗戦とともに病院と看護学校の建物のすべてが米軍に接収され、礼拝堂は米国陸軍42病院のチャペルとして使用されました。
接収は同31(1956)年まで続き、解除された後、礼拝堂で病院再興感謝礼拝を行い喜びを分かち合ったと言います。
礼拝堂に幾枚かのステンドグラスがあります。入院患者の信者さんが祈りを捧げている時は撮影できませんので、外扉を閉めて窓越しから正面祭壇のみ写真に収めました。
礼拝堂のステンドグラスは、当時予算の関係から手の込んだ聖人画などは作れなかったといいます。ですから抽象的な図柄でキリスト教の殉教の歴史を象徴するようにしたそうです。
礼拝堂の前の床タイルにハエやネズミなど、伝染病を媒介する動物がレリーフとして彫られいます。足で踏みつけることによって感染を予防する意識を向上させる狙いから飾られていると言います。
ステンドグラスを見に行く 様々な文士たちが逗留して作品を書き下ろした山の上ホテルのグラス(東京・神田駿河台)
神田駿河台下の坂を上り切った、つまりJR御茶ノ水駅お茶ノ水橋側の少し奥まったところに「山の上ホテル」があります。
外観は白色タイル貼りでアールデコ装飾様式を採り入れた幾何学モチーフや直線、流線形が多用されているのが特色です。クラシックでありながら、どこかモダンな雰囲気を持っています。
ここにもステンドグラスが嵌められています。
(館中央部に1階から最上階の7階までを吹き抜けるスペースがあり、近くに螺旋階段があります。天井の明り取りにステンドグラスが取り付けられています)
建物は日本で教会、住宅、学校など多く建築を手がけたウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880−1964年)の設計で、昭和11(1936)年に「佐藤新興生活館」として建てられました。
新興生活館は、地域の婦人たちに欧米の生活様式を啓蒙し、生活改良と社会改善を目指す人道主義的な理想を掲げた運動の拠点施設として、北九州の石炭王・佐藤慶太郎( 1868−1940年)の資金により建設されました。
しかし竣工して間もなくの同13(1928)年に帝国海軍に徴用され、 戦時中は将校の宿舎に使用されてしまいます。
戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、陸軍婦人部隊の宿舎として使われました。 その後、昭和28(1953)年に接収解除となって、翌29年に山の上ホテルが創業します。
昭和29(1954)年の開業以来、川端康成、三島由紀夫、山口瞳、高見順、伊集院 静ら多くの作家が宿泊し執筆活動をした“文人の宿”としても知られるホテルです。
かつて多くの出版社があつた神田に近いこともあり、こうした遅筆の作家をホテルに「缶詰」=“軟禁”状態にして締め切りに間に合わせたという裏事情があります。
山の上ホテルに逗留した文人の中でも池波正太郎は山の上ホテルがお気に入りで、月に3泊はしたと言われるほどの常連客でした。
宿泊代を支払うための銀行口座を作り、通帳をフロントに預けるほどだったそうです。
(世界中から集めた選りすぐりのワイン、シャンパンを洒落たフレンチや中華の一品料理とともに提供するワインバーにも、ステンドグラスが飾られています)
創建当時の趣を今も館内の随所に残し、レトロでモダンな空間は探索するだけでも楽しいと宿泊客から好感を博しているようです。
館内のレストランやバーなど飲食できるスペースも充実していて、食通の間ではミシュランの星を獲得するシェフを多く輩出してきたことでも知られるホテルです。
都心にありながら、周辺には樹木の緑も多く、異次元の雰囲気が漂う景観が広がります。
山の上ホテルを語るときに、サラ リーマンから転身した異色の創業者・吉田俊男(1913-1992)を抜きにして語れないと言います。
吉田が目指したのはサービスと安心とが行き届いた良質な「小さなホテル」で、徹底して「良いサービスとうまい食べ物」を提供する経営方針でした。
「もし、人が他人に与えられる最高のものが誠意と真実であるなら、ホテルがお客様に差し上げられるものもそれ以外にはないはず」と常々語っていたと言います。
吉田は誠実さに裏打ちされた職人気質、プロとしての根性、誇りで来客をもてなすことに厳しく、その理想を実現するために吉田は従業員たちに多くを求め、それに耐えられず辞める者も絶えなかったといいます。
「幾分古びた、くすんだ、ホテルです。静けさと、味のお求めに応じる文化人のホテルです」と吉田が自ら作成した広告コピーを月刊誌「文藝春秋」などに使って宣伝しましたが、その志の高さが伝わってくるようです。
経営者であると同時に、山の上ホテルそのものといってよかった頑固なまでの経営姿勢と人柄が一躍、その後の好評判を作り上げたと語り継がれています。
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