2015.01.08 Thursday

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    2014.06.30 Monday

    鏝絵細工を探す旅 〜 小杉左官を輩出した町の旧街道筋にある鏝絵看板(富山県射水市)

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      射水市小杉町の旧北陸道の面影の残る通りを歩くと、商店のあちこちにユニークな鏝絵の看板が見えます。

      十社宮を訪ねた時に宮司夫人からそのことを聞いて、これは拝見しようと思いました。

      その時、「ここにもあるのですよ」と教えてくれたのが宝物殿入り口の左手に掲げられていた下の画像です。



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      竹内源造を生んだ射水市の旧小杉町地区を中心に、鏝絵による地域おこしの取り組みとして「鏝絵看板設置事業」を、平成18(2006)年から進めてきたそうです。



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      これまでに50枚近くの看板が完成し、施設や店先などを飾っています。


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      看板ですから一目でその施設や商店が何を扱っているのかが分かるようでなければなりませんし、町並みの景観に合わせなければなりませんので、いろいろと工夫が凝らされているようです。


      鏝絵は看板としてだけではなく、店内装飾として飾っているところもあります。



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      源造の孫弟子にあたるという鏝絵師や県左官業協同組合の職人、講習会で鏝絵作りを学んだ商工会女性部のメンバーたちが制作に当たっているということです。



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      これまでに設置されたのは、旧街道筋周辺にある小杉展示館を皮切りに料理店、呉服店、精肉店、精米店、酒店などに掲げられています。



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      小杉展示館は明治33(1900)年に開業した「小杉貯金銀行」の社屋として、明治44(1911)年に建造された黒漆喰の土蔵造りの建物です。この黒漆喰も小杉左官が遺した仕事です。



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      建物は入口突き当たりの彫刻ペディメントや天井装飾のデザインなの意匠など随所に明治後期の洋風建築が採り入れられているのを見ることができます。


      下の金物店の看板は「大鋸」を模っています。大鋸は、「おが」あるいは「おおのこ」と読み、機械製材が導入される前に木材の縦引き製材のために用いられた道具です。


      大鋸を使って製材することを木挽(こびき)と呼んでいました。木挽する人たちが多く集まっていたところを木挽町といい、現在でもこの地名が残っているところがあります。


      大鋸の中に薪が使用されていた頃の炊飯、料理道具としての釜や鍋が描かれています。ここの店で扱っていたのでしょうか。



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      関係者は、鏝絵による地域起こしの取り組みを今後も継続して取り組んでいきたいと話しています。



      2014.06.29 Sunday

      鏝絵細工を探す旅 〜 ダム建設景気に湧いた街に残る源造の仕事(富山県砺波市)

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        砺波市庄川町金屋に3階建て鉄筋コンクリート造の大きな建物があります。昭和8(1933)年に建設された「木村産業」の店舗兼事務所です。

        当時、土木業等を営んでいた初代の木村長次郎が設計し、外装、内装の施工は竹内源造率いる竹内組が請け負っています。


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        外壁を見ると 右書きに「火薬  木村組」と書かれています。これは庄川流域に築造された小牧ダムに関連しています。


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        流域では昭和初期に多くのダムや発電所が設けられ電源開発が進められますが、砺波市金屋地区はダム建設用地までの道路開削、建設工事用の資材の搬入、土砂の搬出など多くの雇用が生じ外部労働力の流入などもあり、街はかつてない好景気に湧きました。


        木村産業の正面ファサード外壁にある火薬とはダム建設に当たって岩盤を崩すダイナマイトなどの火薬類を取り扱っかっていることを示し、同社は当時この取り引きで大きな利益を得たといいます。


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        外壁は当時としてはまだ高級建設材だったセメントを使用したモルタル仕上げになっています。随所に源造が腕を振るった造形が施され独特の偉容を誇っています。

        源造は店内の装飾も手掛けていて、2階の事務所天井丸柱の柱頭「龍」なども制作しています。


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        木村産業の玄関入り口の欄間にステンドグラスが飾られています。

        当時としては地方都市の社屋にこうした装飾が見られることはそう多くはなく、やはり電源開発がもたらした経済効果の名残りが感じられます。


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        庄川は、岐阜県高山市の山中峠(1,375m)の湿原を水源とし、合掌造りで世界遺産に登録されている白川郷や五箇山の集落を通り、砺波市庄川町に来て水量豊かな流れとなります。


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        大正2(1913)年庄川町を訪れた富山県氷見市出身の浅野総一郎(1848−1930年)は、この流れを見て 「おお、黄金が流れる。黄金が流れている」と叫んで、ダム式発電所の計画を立てたといいます。

        浅野総一郎はコークスやコールタールの廃物をセメント製造の燃料として用いる方法を開発し、浅野セメント(後の日本セメント、現在の太平洋セメント)を立ち上げ「明治のセメント王」と呼ばれ、一代で浅野財閥を築いています。

        第1次大戦後の未曾有の好景気に沸いた産業界の中にあって浅野はかねてから庄川流域での発電事業に着眼していました。


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        同5(1916)年には庄川の水利権使用を県に申請し、同8年に電源開発への水利権使用が認可され、同15(1926)年にダム工事は正式に許可されます。

        しかし、建設工事開始を目前にして大手木材業者が「発電工事認可取消し」の訴訟を起こします。

        明治期から五箇山や飛騨山地の木材を運び出すのに庄川の流れを利用した流送(木材の川下げ)を行っていたからです。

        以後8年間も裁判で争うこととなり、激しい訴訟合戦と実力行使で対立が深まりました 。


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        浅野の当初の計画は、庄川流域の電源開発で得られた発生電力を伏木港付近の変電所へ送り、伏木港工業地帯のセメントや製鉄製造工場などへの送電しようとするものでした。


        さらに、高岡−伏木間の運河が開削された場合、運河両岸に建設される新設工場の電力需要に応えようとするものでした。


        幾多の曲折がありましたが、昭和5(1930)年に日本初の発電用大型ダムとして小牧ダムは完成します。高さ79m、堤頂長300mあり、当時「東洋一」の規模を誇りました。


        同年中に湛水を開始し、発電所も運転稼働しました。



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        小牧ダムの開発がもたらした地方経済への波及で、竹内源造がらみの造形物がもう一つあります。

        青島地区の用水に架かる一本橋の親柱に飾られていたライオン像です。制作年は不明ですが、昭和7(1932)年から翌年にかけて源造は庄川町に滞在しあちこちで仕事をしていますので、この頃の作と見られます。


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        ライオン像は橋の四隅の親柱に飾られていましたので、4基ありました。


        橋の改修に伴い庄川町役場前(現在の庄川支所庁舎)の
        駐車場の一隅に保存されていました。


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        現在は、3基が「となみ散居村ミュージアム」に移設され、どういうわけか1基のみが
        駐車場の隅に置かれています。

        手入れもされているようには見えず、深い苔が被い始めています。



        2014.06.28 Saturday

        鏝絵細工を探す旅 〜 源造が制作した納骨仏といわれる庄川大仏(富山県砺波市)

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          砺波市庄川(しょうがわ)町金屋の光照寺の境内に、竹内源造が造った庄川大仏があります。


          くすんだ緑青色をしていますので青銅製に見えますが、鉄筋コンクリート製の阿弥陀如来座像です。



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                                                               高岡大仏(高岡市)、小杉大仏(射水市)と並んで越中三大仏の一つとされ、金屋大仏、十万納骨大仏とも呼ばれています。



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          別名で「十万納骨大仏」と呼ばれるのは、10万人信徒の死没者慰霊の供養仏(骨仏)から来ていると言われます。


          つまり、実際に10万人分の遺骨が納められているかどうかは定かではありませんが、多くの部分遺骨を粉にしてコンクリートに練り混ぜそれを御仏の顔部分の材にして供養しているそうです。


           

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          光照寺の30代住職が大仏建立を発願し、北海道から近畿まで広がっていた信徒から浄財を集め建造に取りかかったと言います。


          大仏制作の依頼がどのような経緯で源造の下に舞い込んだのかは明らかではありませんが、信仰心に篤い源造は精魂込めて制作に当たったことは間違いありません。



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          高さは総体で10.1m(大仏本体は6.3m)、顔部分だけでも2.2m、肩幅3.9m、胴幅が4.5mあります。



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          大仏が建立された昭和7(1932)年までに国内にはコンクリート製の大仏は、大分・別府の別府大仏など数える程しかありません。セメントがまだ高価な建築資材だったからです。


           

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          ちなみに別府大仏も納骨大仏で、庄川大仏建立の4年前の昭和3(1928)年に建立され、傷みが激しくなったことから同64(1989)年に取り壊されています。



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          庄川大仏が建立以来、80年を経ても今なお大きく傷んでいないということは、制作に当たった
          源造がセメント、砂、水の配合技術を研究し長持ちさせる術を体得していたからと言えるようです。



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          庄川大仏は冬期の寒冷で部分的に割れ目が入ったことなどから、昭和58(1982)年に一度改修しています。

          お年寄りの氏子の話によるとこの時、顔部分が以前より膨らみ源造の初期作品が変わってしまったと言います。


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          それからさらに30年以上経ち、損傷が激しくなってきていることから再度改修工事が見込まれています。


          今度の修復に際しては、源造の原型を崩さないよう願いたいところです。



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          大仏の前に源造が造ったコンクリート製の香炉と賽銭箱があります。香炉に唐獅子と鳳凰を描き、賽銭箱に鬼の座像を模っています。


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          鬼が抱えてる蓮の葉の底に穴が開いていてそこに賽銭が落ちて行く構造になっています。



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          さらに座像の4面に源造は、鳳凰、群龍、唐獅子を鏝で描いています。いずれも力強く躍動する姿を絵にしています。


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                (源造が庄川大仏の制作依頼を受けて描いた下図が射水市の竹内源造記念館に保存されています)



          2014.06.27 Friday

          鏝絵細工を探す旅 〜 冬に耐え切磋琢磨した小杉左官が奉納した鏝絵(富山県射水市)

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            かつて数多くの左官職人が居住し、土蔵や家屋の壁を塗り余暇時間を鏝絵の制作に没頭した竹内源造(1886−1942年)、父親の勘吉(1830−1916年)をはじめとする小杉左官たちは、射水市小杉の十社宮に奉納しました。

            こうした作品の数々が宝物殿に保存陳列されていて、世に言う「小杉左官」の技量の高さを見ることができます。


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            十社宮は応永7(1400)年に現在の射水市三ケ(さんが)の伊勢領に伊勢神宮の末社・神明社として鎮座したのが始まりとされます。


            三ケには伊勢領神明社のほかに鷹寺蓮王寺の鬼門除けとして祀られた鷹尾大明神や十社大明神、火の神の愛宕社など14社があり、昭和2(1927)年にこれらが合祀され十社大神(じゅつしゃおおかみ)になっています。



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            昭和8(1933)年に拝殿ができ、平成元(1989)年に新たに百数十の石灯篭が寄進され、境内の石灯篭は200基になるそうです。


            2,000坪の境内は樹木が生い茂り、素朴な神明造りの社殿や伊勢神宮逢拝所などと調和し落ち着いた雰囲気を醸し出しています。



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            社正面の鳥居をくぐり社殿方向に進むと、用水に架かる小さな橋があります。


            昭和15(1940)年に源造が寄進したコンクリート製の参道橋です。源造はこのとき54歳です。


            源造は56歳で亡くなっていますので、晩年の仕事になります。


            しばらく車両もこの橋を出入りしたため傷みが激しくなり、新たに舗装し直し寄進時とは一部、姿を変えましたが欄干は当時のまま遺っています。


             

            Img_4429                  (神宮特有の素朴な神明造りの十社大神社殿)


            橋を渡って社殿方向に進むと手水舎があり、その向かい側に宝物殿があります。


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            鏝絵の多くはガラスケース内に陳列されていて、かなり大きなサイズのものがあります。


            目を見張るような逸品もあり、優れた技量を楽しむことができます。



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            まず、源造が制作した「武内宿禰(すくね)」です。宿禰が抱いているのは仲哀天皇と神功(じんぐう)皇后の御子で、後の応神天皇です。

            以前、「伊豆の長八」こと入江長八
            (1815−1889年)が制作し、伊豆の松崎町に遺る武内宿禰と神功皇后の塑像をご紹介したことがあります。


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            武内宿禰は、大和朝廷の初期に活躍した記紀伝承上の人物です。


            大臣という身分で何代もの天皇に仕えて国政を補佐したとされ、年齢についても280歳、295歳、306歳、312歳、360歳まで生存したという諸説があります。



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            神功皇后が朝鮮へ出兵する際も宿禰が最終決定したとされ、神功皇后に従って新羅(しらぎ)を征しています。


            源造はこうした記紀伝承を読み込み、宿禰の顔の皺、白髪、白髯などで現し、太刀を腰に差し背に矢を抱え手腕には弓懸(ゆがけ)といった新羅制圧に向かう勇ましい武者として描いています。



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            この武内宿禰の左下部に落款があり「鏡宮 彌吉」と読めますが、竹内家と親しくしていた大工でこの鏝絵を源造に制作してもらい奉納したもののようです。

             


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            武内宿禰の隣りに神功皇后を描いた大鏝絵があります。対になっているのですが、神功皇后を描いたものは武内宿禰を2回りほど大きな画幅になっています。


            神功皇后は甲冑をまとい、弓と矢を手にし軍配を高く掲げ軍勢を動かしている模様を描いています。


            右下隅に「竹内甚吉」と書かれた銘があります。源造の父・勘吉の作だとすると「勘」の部首の旁(つくり)に当たる「力」が抜け落ちています。


            自らの名前を間違えるということも考えにくいところです。どうしたことでしょうか。


             

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            下の鏝絵は中国の「十八史略」に登場する太公望呂尚(りょしょう)と周の文王が出逢って文王が礼を尽くしている場面を描いたものです。


            みごとな鏝捌きで白漆喰だけで濃淡をつけ、中国の故事を描き切っています。


            この呂尚と文王の邂逅というのは、次のような内容です。


            ある日、文王は猟に出る前に占いをしたところ、獣ではなく人材を得ることが大切であると出ました。文王が狩猟に出ると、落ちぶれた姿で釣りをしている呂尚に出会います。


            文王はこの男こそ求める人材だと直感し呂尚が釣りを終えるのを夕方まで待ちます。そして、二人は語り合い意気投合し、文王は「わたしの祖父の周大王が待ち望んでいた人物だ」と喜び呂尚を軍師として迎えることにします。呂尚は仕官した後、太公望と号します。


            この伝承から釣りの好きな人を太公望と呼ぶようになります。


            呂尚が文王に仕えたのが80歳を過ぎていたと言います。しかし、年取ってからとはいえ、軍事と策略の面で大きな働きをし、殷の天下を倒して周の天下を築きあげます。


            以下三代の王に仕え、その功績によって出世し、斉の国の領主にまでなったといいます。


            呂尚と文王の邂逅の話から、後世になってリーダーが優れた人材を得るためには、手間や犠牲を惜しんではならない例として引かれたといいます。



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            この鏝絵で左で釣り糸を垂らしているのが呂尚で、その横でやや背を丸めているのが文王になります。


            実は呂尚がらみでできた格言がもう一つあります。


            呂尚は若い頃、優れた学識を持っていたもののうだつの上がらない仕事ばかりで、家族は貧しい生活を送っていました。それでもヒマがあれば本を読んでいたため妻は呂尚を見限り、呂尚の説得を受け入れず離縁して実家に帰ってしまいます。


            後に呂尚が文王に取り立てられ世の人となっていたある日、呂尚の広大な屋敷にみすぼらしい老婆がやって来ました。


            門番が素性を尋ねると「元妻」だということで処置に困り、呂尚に報告しました。呂尚は、水を入れた盆(器)を手にしてその老婆と面会し、自分の下を離れて行った妻だと分かりました。



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             「あなたはなぜここへやってきたのですか」「あの当時、あなたは将来性のない男に見えました。しかし今や宰相として世に名を馳せ立派になられた。よりを戻してもらいたいと思ったのです」


            呂尚は手にしていた盆の水を庭に撒きました。
            「いま庭に撒いた水をこの盆に戻せますか?」
            元妻の老婆は一生懸命に撒かれた水を盆に戻そうとしますが、泥水しか掬えません。


            呂尚は哀れみのまなざしで言いました。

            「こぼれてしまった水は元には戻せません。私とあなたの縁もそのようなものなのです」

            元妻の老婆は肩を落として去っていったという挿話です。


            このことから一度起きてしまった事は決して元に戻す事は出来ないと言う意味の「覆水盆に戻らず」(4字熟語で覆水不返=ふくすいふへん)という格言ができました。



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            さらに中国の故事を題材にした大ぶりな鏝絵が飾られています。「二十四孝 (にじゅうしこう)」の中の大舜を描いています。


            かつて中国では儒教の教えを重んじ、歴代の中国王朝は孝行を特に重要な徳目として後世の模範になるよう孝行に優れた人物24人を取り上げて書物に著しました。


            その後、日本にも伝来し四字熟語になったり仏閣等の建築物などに描かれるようになります。



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            人と折り合うことのない頑固な父と、ひねくれた性格の母、そして大して能力があるわけでもないのに奢り高ぶる弟をもった舜(しゅん)は、ひたすら孝行を続けました。


            ある日、舜が田を耕しに行くと、突然、目の前に象が現れます。その象が田を耕し、鳥が飛来し田の草を取ってくれました。



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            その頃、堯(ぎょう)という天子が治世していて舜の孝行ぶりが堯の耳に届きます。

            堯は感服し、舜に娘を娶らせ天子の座を譲ります。

            孝行者には必ずや幸福が訪れると諭しています。



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            この奉納鏝絵にも落款があり、竹内勘吉、砂原清吉と刻まれています。


            勘吉は源造の父で、砂原清吉は勘吉が率いた竹内組の高弟の一人のようです。



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            新木長五郎の名も見えますが、奉納者の名前になります。



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            ガラスケースの中に展示されているもので、躍動する「白馬と黒馬」の鏝絵があります。


            「明治三十四年 齢六十一」と刻まれ、横に「竹内勘吉」の落款が押印されています。



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            この鏝絵が十社宮の神輿堂内にあるのが発見されたのが平成21(2009)年で、参集殿の工事のため準備をしていたところ偶然でてきたといいます。


            縦1m、横に2mあります。



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            神輿堂は昭和29(1954)年に竣工していますので、このときから堂内に眠っていた状態になっていたのではないかと見られています。



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            富山県は冬期に降雪があり、冷え込むと壁に塗った漆喰が乾きませんので左官職人たちは仕事ができません。


            このため職人たちは出稼ぎに出るか、そうもできない職人たちは鏝絵の技術を磨き制作に励んで、仕上げた作品を奉納したといいます。



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            当然、中国の故事などの書物を読んだり聞くなどして、自分なりにその場面を頭に描き当時の衣装や頭飾りなど細かいところも勉強し、下絵描きに寸暇を惜しんだことでしょう。


            こうして仕事ができない冬を耐え、切磋琢磨した職人たちが小杉左官としての腕を磨くことになった背景があります。



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            勘吉や源造が奉納した扁額を見て刺激を受け、技量を挙げて自らも奉納した鏝絵が宝物殿に陳列されています。


            そうした職人たちの鏝絵をご覧ください。



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            2014.06.26 Thursday

            鏝絵細工を探す旅 〜 源造が56年の生涯を通して制作した数々の作品を展示している記念館(富山県射水市)

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              竹内源造記念館の2階は、これまでに蒐集して来た竹内源造(1886−1942年)の作品を展示しています。


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              源造の制作年時とその変遷が分かります。



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              大正5(1916)年に左官数十人を抱える左官会社を率いていた父の勘吉が他界します。


              30歳になっていた源造が6代目として竹内組を継ぎます。


              仕事も順調で、その腕の確かさから「小杉左官」「小杉かべ屋」とも呼ばれ、旧夷隅郡市だけでなく富山県下広域の仕事を請け負うようになります。



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              2階の展示室に入ってすぐのところに群舞する「鳳凰」の鏝絵があります。鳳凰はさまざまな姿で飛翔しています。


              数えてみると9羽います。このように群舞する鳳凰を描いたものは初めて見ました。



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              これは現在の氷見(ひみ)市泉にあった旧上庄(かみしょう)村役場の議場の天井を飾っていたものだといいます。



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              鳳凰は、古代中国の伝承のなかで優れた君主が国に現れた時に舞い降りるとされた想像上の鳥です。



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              この鏝絵が制作されたのが昭和2(1927)年で、前年に昭和天皇が即位し年号が大正から昭和へ改元されました。


              源造は制作の依頼を受け、昭和という新しい時代にふさわしい意匠として鳳凰を採り入れたのではないかと説明書きに記されています。



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              これも中国伝来のライオンをもととする想像上の動物を描いた唐獅子です。


              牡丹の花の近くで戯れる「唐獅子牡丹」という昭和4(1929)年制作の作品で、現在の射水市二口の個人宅の洋間を飾っていたといいます。


              これまで2頭の唐獅子が戯れる姿を描いたものは見て来ているのですが、源造は3頭描いています。



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              荒波の中を泳ぐ親子の亀たちを描いた鏝絵があります。


              かつてあった第一薬品工業という薬品会社事務所の1階から2階まで吹き抜けの天井周りの長押(なげし)に描かれていたものです。



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              波にさらわれまいと子亀は親の背に必死につかまっているようです。



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              描かれている亀は13匹います。その甲羅が実に丁寧に描かれるとともに、甲羅が浮かび上がるように丸みを持たせています。



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              この亀が吹き抜けになった天井に近い長押に描かれ、これに合わせるように天井部を飾っていたのが下の丹頂鶴です。


              4羽の丹頂鶴がデフォルメされた雲の間を優美に舞っている姿を描いた「鶴と雲」は、「亀と波」と同じく昭和5(1930)年に制作されたものです。



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              丹頂鶴が広げた羽根の1枚1枚まで丹念に描き、動きのある曲線など構図としても見ごたえがあります。



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              ここまで源造の遺した作品を見て気付いたことがあります。それは多くの場合、動物たちを複数で描いて作品化しているということです。


              意識してか偶然かは分かりませんが、どうしてか群舞したり群遊している姿を描いているのです。


              群れた動物たちを描くということは、習性をよく観察していないと描けません。架空の動物の場合は想像を巡らせなければなかなか描けません。


              源造の観察眼、想像力の豊かさといった天賦の才能が作品に投影されているのでしょうか。    

                                                

               

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              記念館に源造の父で師匠でもある竹内勘吉(1830−1916年)の作品も展示されています。


              勘吉の5男として生まれた源造は、若い頃から左官職人として鍛え上げられます。


               

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              源造は天賦の才に加え、鏝絵の制作でも 勘吉によってその技法を教え込まれたようです。


              その勘吉が富山市石坂の土蔵に妻飾りとして造った「鶴と亀」で、後年、記念館に寄贈されました。


              鶴の妻飾りには、縁起の良い松と瓢箪(ひょうたん)が描かれ、亀は尾に藻が付くほどの長寿を表す蓑亀を描いています。



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              蓑亀を勘吉は甲羅から出した顔の部分を「小杉かべ屋」と呼ばれる技法で立体的に浮き上がらせています。


              勘吉はこうした技法も源造に伝授し、源造はさらにこれを磨き上げ発展させたものと思われます。



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              源造の生家にあった額装された「大黒」です。左手に持つ布の袋が大黒の背景に大きな円相として意匠されています。

              大黒の上半身だけを描いているのですが、大きな広がりを意識させる構図になっています。


              制作年代は不詳です。



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              この「龍」の鏝絵は、射水市西高木の土蔵にあった妻飾りで、大事な家財を火災から守るため水を司るとされた龍を描くことによって火伏せの意味を込めたものです。



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              こちらの龍の鏝絵は、射水市串田新にあった土蔵の妻飾りでした。円相の周囲に龍が巻きつくように立体的に盛り上げています。


              記念館展示の復元に当たって屋根の妻部分の形も分かるように切り取っています。



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              記念館の2階は小杉町役場として建てられたころ、議場として使用されていました。


              議場の中心部に議長席があり、その背後に鳩を従えた「鳳凰」が羽を広げて飛び立とうとしている立体的な漆喰細工があります。


              鳳凰の下の平面な壁面部分は、かつて御真影を収めていた奉安殿の跡だそうです。



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              鳳凰は平和な世の中に姿を現すとされる中国伝来の架空の大型鳥ですが、きな臭いにおいが漂うこの年代、日本に、あるいは故郷に平和が訪れることを願って制作したのかもしれません。



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              記念館には源造が生前に多くの作品を生み出すために使用していた鏝と箆(へら)が展示されています。


              大きさ、長さ、形もさまざまで、おそらくこれらの道具類は源造が自ら手作りしたものも多いと思われます。


              これらの道具を使って源造は数多くの作品を遺したわけです。



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              漆喰やセメントを上から塗り固めるためなんども使用しますので、だんだん摩耗し当初の形から丸みを帯び、小さくなっていったことが見て取れます。

              鏝の柄に「竹内」のネームを刻んでいます。箆は長さが20cm前後で黄楊(つげ)を使用しています。



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              記念館に生前の源造を写した1枚の写真が展示されています。


              撮影した年代が分かりませんが、建前の時に撮影したもののようです。



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              祭壇に飾られたたくさんの酒肴のそばで幾分はにかんだ表情を見せるような源造です。


              おそらく建前を終えて、これから取りかかる仕事の構想が頭に描かれ安堵の色を浮かべているようにも見えます。



              2014.06.25 Wednesday

              鏝絵細工を探す旅 〜 新たな作品も収集しリニュアルオープンした竹内源造記念館(富山県射水市)

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                竹内源造記念館はかつて小杉町役場(旧小杉町は平成17=2005年に市町村合併で射水市になっています)として使用されていた建物を復元して、源造の作品を展示しています。

                旧小杉町役場は昭和9(1934)年に建設されました。平成13(2001)年に源造の作品を集め展示していたのですが、旧小杉町役場を歴史遺産として後世に遺すため平成24年までに建設当初の姿に復元する工事を行いました。



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                増築された部分を取り除き、尖頭アーチの車寄せも後年取り壊されていたのですが、今回復元されました。


                車寄せ上部の破風に、源造は役場建設時にアカンサスの模様を施しましたが、工事の完成に合わせ積年の汚れも取り除かれました。



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                リニューアルに当たって、源造の最高傑作との評価の高い「双龍」の鏝絵の寄贈を受けこれを記念館に移築復元しました。



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                双龍は荒波の中で2匹の龍が向き合って遊んでいる姿を意匠しています。


                長さが17,5m、高さが約1mあり、壁面から盛り上げた部分が20cmあり立体感、臨場感に溢れています。



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                源造の作品は漆喰を肉厚に盛って細工する高肉彫りが特長ですが、この双龍は源造の面目躍如といった大作です。鱗も一枚一枚丁寧に仕上げています。


                現在の砺波市宮森新の名越家にある土蔵の2階外壁を飾っていた鏝絵です。


                名越家は宮森新の旧家で江戸期の後期に改修した土蔵と江戸末期、明治中期に新築した土蔵の3棟が棟続きで並んでいました。



                Img_3938              (砺波市宮森新の名越家の土蔵2階外壁を飾っていた当時の双竜)


                砺波郡市での仕事を請け負っていた源造のもとに、その仕事ぶりを見た当時の名越家当主が外壁を飾る鏝絵の制作を依頼したといいます。


                明治40年代に制作されていて、完成までに数年を要したといいます。



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                移築に当たって古建築の保存に詳しい専門家や大工らが綿密な計画の下、鏝絵作品を傷めることなく土蔵外壁も含めると厚さ約60cmを一緒に切り取る工事が行われました。


                全体を6片に分けて切り出し、曳き家工法で慎重に取り外したといいます。



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                6分割された1片の重量が重いもので2.7トン、軽量のものでも1トン以上あり、機械類を使えない場所も多く、人の力と技に頼るという難工事も少なからずあったようです。


                こうした大移築工事の模様が記念館2階に写真パネルで展示されています。



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                竹内源造は、明治19(1886)年に現在の射水市三ケ(さんが)で生まれています。


                三ケは江戸時代後期から左官業が盛んな土地柄で、技量の優秀さを誇り「小杉かべ屋」、「小杉左官」の名で呼ばれ県内外に名を馳せていたといいます。



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                源造の父・勘吉(1830−1916年)も5代続く左官業を営んでいました。


                源造は父の下で左官として腕を磨きながら、鏝絵の制作についても教わります。



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                源造は15歳になった明治34(1901)年に、早くも帝国ホテル(初代)の貴賓室の壁を塗る仕事で先輩職人とともに上京します。


                この時、東京・深川を本拠に鏝絵名人の名を全国に轟かせていた入江長八(1815−1889年)はすでになく、源造と長八は接点がありません。



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                このころ、東京では長八の高弟・「沓亀」こと吉田亀五郎が活躍していましたが、上京した源造が沓亀と出会ったか、あるいは沓亀の作品を見たかどうかは定かでありません。



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                明治44(1911)年、源造は25歳で郡役所から左官の1級漆喰彫刻師の資格を取得しています。


                源造が30歳になった大正5(1916)年に父の勘吉が他界し、源造が6代目として竹内組を継ぎます。



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                源造はその腕を認められ、県西部をはじめ多くの仕事が舞い込みます。


                大正6(1917)年に、遠く大連の朝鮮銀行大連支店(現 中国工商銀行中山広場支行)の仕事に弟子たちと出向いて腕を揮っています。


                当時、「海を渡った左官」として、話題になりました



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                また、大正時代になって新建材としてモルタルが普及し始めますが、源造はこれをさっそく採り入れて工事に使用しています。

                記念館1階に「双龍」と並んで、モルタルで制作した「恵比寿、大黒」が展示されています。取り壊されることになっていた製薬会社の古い建物から切り取り移設しました。



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                昭和5(1930)年に制作しています。この時、源造は44歳でまさに脂の乗った頃の作品と言えます。


                意匠の上でも釣り上げた大きな鯛の上に恵比寿が乗り、手には釣り竿ではなく日章旗を振っています。


                同じころに、同じ図柄で漆喰でも制作しています。



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                これらには、当時の社会状況が反映されていると言えます。


                昭和初期の日本は、第一次世界大戦でまれに見る好景気に沸きましたが大戦が終結して欧州各国の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌の陰りが見え始めます。


                さらに昭和2(1927)年には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけに銀行への取りつけ騒動が全国に起こり、昭和金融恐慌となります。



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                東北地方では大凶作に見舞われて農家の女性達の間引きや身売りが盛んに行われ社会問題化しました。


                これより早く大正7(1918)年に、富山県下では米の高騰に困窮した女性たちを中心に米騒動が起きています。


                東水橋町(現 富山市水橋)、魚津町(現 魚津市)、東岩瀬町(現 富山市)、滑川町、泊町など県下に広がり、瞬く間に京都市や名古屋市にも飛び火して全国の主要都市で米騒動が発生します。


                米騒動は1道3府37県の計369カ所にのぼり、参加者の規模は数百万人を数え、鎮圧のために3府23県に10万人以上の軍隊が投入され出動するという全国規模の民衆暴動へ発展しました。


                こうした社会状況の下で当時力を伸ばして来ていた無産政党や共産党への弾圧を強め、3.15事件や4.16事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙を行ない、緊急勅令で治安維持法を改定し最高刑を死刑としています。


                治安維持法は時の政府を批判する宗教団体や、右翼活動、自由主義者などにも及びすべて弾圧の対象となっていきました。



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                当時の田中義一内閣は、張作霖を動かして満蒙での権益拡大を図るため3回の山東出兵を行い、昭和3(1928)年に関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺します。


                この後、柳条湖事件(昭和6=1931年)が勃発し、これを契機に関東軍は軍事行動を起こし中国を舞台とした満州事変へ進む戦時体制に入って行きます。



                同じく1階にみごとななまこ壁があります。源造が手掛けた「七宝つなぎ」の紋様です。



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                砺波市出町の商家にあった土蔵の側面を飾っていたものを移築して復元したといいます。


                なまこ壁の紋様については、これまでにも書いていますので今回は詳細しませんが、なまこ壁の製法について触れます。



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                型枠、つまり基礎となる原型を乾燥させたワラや麻などを刻みスサを混ぜ練り上げたものを下敷きにして作り上げます。


                これを様々な紋様に配し、上に漆喰を塗り込めます。


                源造が制作したなまこ壁は富山県の他地域に遺っているものがないようですので断定はできないのですが、全国他地方に遺っているなまこ壁の高さと比べ、かなりの肉厚になっています。



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                源造は漆喰を高く盛り上げて立体感、迫力を出す高肉彫りと呼ばれる鏝絵手法を用いましたが、なまこ壁にもその手法が見て取れます。



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                もう一つ、源造はこのなまこ壁を黒漆喰に載せていることです。


                通常、なまこ壁は平瓦を貼り、その上に白漆喰をかまぼこ型に盛り上げ目地に漆喰を使って繋いで行きます。



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                黒漆喰自体が手間のかかる仕事ですが、源造はそうした従来手法と全く違った独創的ななまこ壁を造り上げています。



                2014.06.24 Tuesday

                鏝絵細工を探す旅 〜 新工法の研究にも余念がなかった源造が初めて造ったモルタル蔵(富山県射水市)

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                  射水市鳥取の遠藤家に竹内源造がモルタル壁を塗り、その上に米俵に座り打ち出の小槌を手にした大黒天を描いた蔵が遺っています。

                  この土蔵は昭和元(1926)年に建てられたといいます。

                  外壁全体をネズミ色のモルタル洗出しで仕上げ、土台部、1、2階の境部、四隅に茶色の水切りやコーナーストーンを配して、当時としては洋風のデザインで仕上げています。


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                  56年の生涯を鏝一本で生きた竹内源造(1886−1942年)は、左官職人竹内勘吉(1830−1916年)の5男として生まれます。


                  幼名は源次郎と名乗りましたが、25歳になった明治44(1911)年に射水郡役所から一級漆喰彫刻士として表彰されたのを機に「源造」と改名します。


                  左官業竹内組を組織し、30人からの弟子を持っていた父親の勘吉が大正5(1916)年に亡くなると、源造はその後を継ぎます。


                   

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                   源造は若い弟子たちを住まわせ仕事を教え込みますが、自らも仕事の技量を磨くことに余念がなかったといいます。


                  「仕事は頭で考えてやらなきゃ上達しない」と、弟子たちに常々話していたそうです。



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                  そして、大正時代になって新建材としてモルタルが普及し始めますが、当時高額材料でもあったことから、地方ではまだ普及していなかったモルタル施工についても研究し、施主からの依頼があるとすぐに応じられるようにしていたようです。


                  モルタルはセメントと砂と水を混ぜて造り上げて行きますが、それぞれの配合割合や下塗り、中塗り、上塗りなどの施工法についても研究を重ねていたようです。


                   

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                  遠藤家の土蔵のモルタル施工は、源造にとって最も早い新工法での仕事になります。

                  この土蔵の完成後4年ほどしてモルタルでの仕事の受注が大幅に増えるようになります。




                  2014.06.23 Monday

                  鏝絵細工を探す旅 〜 北前船で繁栄した廻船問屋の蔵に遺る竹内勘吉の高肉彫りの土扉(富山県富山市)

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                    富山港に近い富山市岩瀬大町通りに国指定重要文化財の旧森家住宅があります。

                    岩瀬大町通りは旧北陸道で、岩瀬町は港町、宿場町として発展したところで、明治初期に建てられた廻船問屋をはじめ北前船で栄えた古い町並みを今に残しています。


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                    北前船とは、江戸時代から明治期にかけて栄えた買積み廻船で、帆船です。


                    つまり北前船は商品を荷主から預かって運送するのではなく、航行する先々で船主が商品を買い込み、それを寄港する先で売りさばき利益を上げる廻船を指しました。



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                    岩瀬は加賀藩の領地で御蔵があり、北前船で米や木材などを大坂や江戸などに運んでいました。

                    北前船廻船問屋の森家は、代々、四十物屋(あいものや)仙右衛門を世襲してきた船持ちの肥料問屋で、明治以降に名字を森にしています。


                    岩瀬町では北前船のことをバイ船と呼んだそうです。積み込んだ荷を次の港町で倍の値を付けて売りさばいて儲けたことから、そう呼んだといいます。



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                    船が“行って来い”の1往復する「のこぎり商売」をすると、たっぷりと儲かり財を築いたといいます。


                    岩瀬町は明治6(1873)年に大火があり、約1千戸あった家屋のうち、650戸が焼け出されます。

                    当時、旧森家をはじめ廻船問屋は全盛期を迎えていて、その財力を持って家屋の再建に取りかかったといいます。


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                    現存する主屋は、大火の後、京都の東本願寺を普請した棟梁を呼び寄せ大工工事に当たらせたそうです。同11(1878)年に新築なっています。


                    南北2棟の土蔵も同時期に建てられたものです。


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                    主屋と土蔵2棟が重文に指定されています。土蔵は衣装蔵、道具蔵が残っていますが、かつてあった米蔵、肥料蔵は現在はありません。


                    現存する蔵に鏝絵が飾られています。


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                    鏝絵を制作したのは、竹内勘吉(1830−1916年)で小杉左官の名人・竹内源造(1886−1942年)の父になります。

                    竹内家は代々左官業を家業として
                    、勘吉は5代目、源造は6代目を承継しています。竹内勘吉は本名を平右衛門といい、通称として勘吉を名乗っていました。



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                    主屋の裏手に中庭を挟んで道具蔵、衣装蔵が建っています。中庭から2階建ての道具蔵が見えます。開かれた土扉が上下2層にあり、その間の妻面に松と鷹が描かれています。

                    黒松の太い幹に親鷹が止まり、細い枝先から小鷹が今まさに飛び立とうとしています。親子鷹でしょう。



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                    道具蔵、衣装蔵へは「トオリニワ」と呼ぶ土間廊下を通って行きます。手前が衣装蔵、向こうが道具蔵で土扉に鏝絵が施されています。



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                    道具蔵の土扉の上部は森家の家紋「つるかたばみ」が、下部には波間に遊ぶ龍が描かれています。


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                    源造の鏝絵手法は
                    高肉彫りと呼ばれる漆喰を高く盛り上げて立体感、迫力を出すのを得意としましたが、高肉彫りは勘吉から伝授されたものであることがこの土扉に描かれた龍を見ると分かります。



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                    勘吉は竹内組と呼ばれる左官数十人を抱える左官会社を率いていました。


                    仕事も順調で、その腕の確かさから「小杉かべ屋」、「小杉左官」とも呼ばれ、旧射水(いみず)郡市だけでなく富山市などにも進出していたようです。



                             Img_3906                                                          

                    衣装蔵に家紋が入っていません。


                    左右の土扉に描かれているのは獅子です。


                    すなわちライオンです。



                    Img_3900_2


                    勘吉が活躍していた 幕末から明治の初期の時代、ライオンという動物を見た日本人はおそらくいないでしょう。


                     

                    Img_3902


                    勘吉ももちろん見たことがありません。


                    博学のものからいろいろ話を聞き、自分なりに想像して鏝を振るったのではないでしょうか。

                      

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                    竹内勘吉が描いて遺っている鏝絵の作品は、この旧森家以外に十社大神(射水市三ケ)などで見ることが出来ます。



                    Img_3901_2

                      

                    東岩瀬の地域では毎年5月17、18日の両日、岩瀬諏訪神社の春季例大祭が催されます。


                    14基の曳山車が岩瀬の街を曳き回されます。 夜になると、山車同士が激しくぶつかり合い互いの力を比べる曳き合いが行われ最高潮を迎えます。


                     
                    2014.06.22 Sunday

                    鏝絵細工を探す旅 〜 山間部の農家蔵の小壁全体に描かれた双龍(富山県氷見市)

                    0

                      富山県氷見市の鏝絵を昨年の12月2223日の2度にわたって紹介したことがあります。


                      このときは、沿岸部にある元網元の蔵に描かれた鏝絵でした。実はこの他にも山深い宅にも鏝絵が遺っていることは知っていたのですが、時間の都合で尋ねることができませんでした。



                      Img_4045


                      心残りになっていましたので、今回思い切って尋ねることにしました。同市小久米の目指す場所は、市中心部からかなり山間部に入ったところにありました。

                      道路に面した妻壁に蔵印があります。描かれているのは七福神の一体、福禄寿のようです。



                      Img_4032


                      七福神で、よく題材として登場するのが恵比寿と大黒天で、あまり多くはありませんが布袋も描かれます。


                      後の毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人はどういうわけか、ほとんど見かけることはありません。福禄寿(寿老人)についていえば寡聞にしてこれまでに見たのは、長野県茅野市の農家蔵のみです。


                      ですから、この宅の蔵印に福禄寿が描かれているのを見て驚きと感動がありました。



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                      ところで、福禄寿と寿老人(南極老人)はほとんど区別がつかないといいます。


                      どちらも白い髯を生やした老人で 杖、巻物、団扇の3点セットで描かれることが多いことも通説です。


                      鶴や鹿が近くにいる場合もあります。



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                      ともかく福禄寿と寿老人は混同が激しく、どちらが福禄寿でどちらが寿老人なのか決め手が難しいそうです。 一説には同体ともいわれているようです。


                      こちらに描かれているのも、側にいるのは鶴でなく鹿でもなく亀です。

                      「壽」の文字が見えますが福禄寿にも寿老人にも「壽」があり、どちらの壽か分かりません。



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                      圧巻は蔵正面の戸前屋根上部の小壁全面に描かれた「雲に双龍」の鏝絵です。



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                      描かれた絵に龍のダイナミックな迫力感にやや欠けるかなとも思うのですが、小壁幅いっぱいに描かれた鏝絵はこの左官職人の力作といえます。



                      Img_4039


                      外壁は縦目地モルタルに黒の水切りをつけた洗出しで、四隅に柱形をつけています。



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                      福禄寿(寿老人?)があった面と反対の壁は白漆喰が大きく剥がれ落ち、土壁が顔を出していますが、家紋の「丸に橘」の蔵印はしっかり見てとれます。



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                      次回から小杉左官の名工・竹内源造の遺した仕事を中心に見て回ります。



                      2014.06.21 Saturday

                      鏝絵細工を探す旅 〜 土臭さが匂う「金の成る木」が描かれた農家蔵(富山県富山市)

                      0

                        富山県教育委員会は平成16(2004)年に「とやまの土蔵百選」の選定作業に取り掛かり、翌年これを小冊子にまとめ、公表しています。

                        「ふるさとの文化財の価値を再認識し、地域ぐるみで保存活用して行くきっかけ」ができることを期待し、「身近な文化財である土蔵に愛着を深める手掛かり」として100件を選んだといいます。


                         

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                        この中に上新川郡大山町中ノ番に蔵印に描かれた珍しいモチーフの「金の成る木に大黒」という色鮮やかな鏝絵が遺っていると紹介されています。


                        大山町は平成17(2005)年に近隣7市町村と合併し新たに「富山市」となっています。


                        目的のK家に着いたのですが、留守宅です。家の周りを歩き土蔵を探したものの大きな主屋は見えるのですが、蔵が見当たりません。



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                        取り壊したのかなと思い、最後に隣家との境の小道に入って行くと、主屋の奥まったところに隠れるように土蔵がありました。


                        そして、妻面には確かに「金の成る木」が描かれ、その木の下で米俵に乗った大黒が右手に宝珠を持って木から小判を舞い落としています。


                        大黒といえば手にするのは小槌が定番ですが、この大黒さんは宝珠です。


                        ユーモア感のある絵ですが、絵画力、鏝捌き、使用した顔料の質などに難点があるようです。これを描いた左官職人にとっては、習作だったのかもしれません。



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                        それを描いた左官の心意気、受け入れた施主の心の広さが垣間見えるようで、思わずにっこりしてしまいました。


                        こうした鏝絵も農村文化としての土臭さがあって親しめるものかもしれません。



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