鏝絵細工を探す旅 〜 善吉が制作した八雲神社の龍の彫塑(神奈川県横須賀市)
渡し船に乗って西浦賀から対岸の東浦賀に“上陸”しました。街を歩いて目を惹いたのが井戸水を揚水したポンプの跡でした。
ポンプの付け札に、災害に遭遇した時の緊急時の飲料水として備えることが記されています。
水道の普及で現在は使用されなくなった井戸を壊さず、何時あるかは分からないものの災害時に備えている生活の上に驚きました。
東浦賀1丁目の鎮守様として祀られている八雲神社は、元は江戸時代に建てられた満宝院八雲堂という寺院だったといいます。
明治になってからの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で寺は廃され、神社に衣替えしたという来歴があります。
こうした動きに民衆の批判や反発が顕著になり、明治新政府は明治3(1870)年に寺院が受けていた様々な特権を廃止する詔書を出しました。
これを受けて各地で仏教施設や仏像の破壊、経巻などの廃棄などが起こったことをいいます。
満宝院八雲堂は激しい廃仏毀釈の波にさらされることはなかったようで、お堂はそのまま残っています。
八雲堂は修験者の寺だったといいますが、お堂の中には修験の護摩壇も残り、切妻屋根の頂部に宝珠が載っていて外観は寺院そのものです。
神社に衣替えしてから祭神として須佐男命を祀っていますが、廃寺をそのまま神社にしましたので鳥居もありません。
ここの向拝にみごとな龍の彫塑が飾られています。
通常、寺院装飾の彫塑は木彫なのですが、これは漆喰塑像です。
制作したのは西浦賀の石川善吉で、明治35(1902)年に奉納しています。
どのような経緯で善吉の下に彫塑の制作が舞い込んだのかは分かりませんが、同じ立体造形ではありながら、彫刻と彫塑は制作過程が全く違います。
善吉は浦賀の人々に漆喰芸術の新しい可能性と言ったものを知らせたと言っても良いでしょう。
善吉が制作した漆喰塑像は西浦賀の西叶神社に氏子の依頼を受け神馬となる「白馬」を明治27(1894)年に奉納した記録と写真が同社に残っています。
しかし、経年劣化で破損が著しく平成15(2003)年に失われていて、現在は八雲神社の龍たげになっています。
鏝絵細工を探す旅 〜毬と紐に戯れる唐獅子が奉納された法幢寺の本堂外壁(神奈川県横須賀市)
浦賀は湾が1.5kmも入り込んでいるため、街が湾を挟んで東西に分かれます。
海で隔てられた東西浦賀の対岸を結び人々の行き来の便宜を図るため、渡し船が就航しています。
現在は強化プラスチック製の船ですが、平成10(1998)年までは木造船だったそうです。渡し船は江戸中期の享保18(1733)年の記録に載っていることから、280年以上の歴史があることになります。
対岸までは約3分ほどの乗船時間です。この渡し船の航路は「浦賀海道」と呼ぶ水上の市道で、市民は渡し船を「ポンポン船」と呼んで親しんでいます。
この船に乗って東浦賀に向かいました。
海を見下ろす東浦賀の高台に法幢寺(ほうどうじ)があります。急な階段を上った先に比較的小さな本堂があります。
山号は円城山ですが、この辺りが浦賀城の一廓であったことに由来するといいます。
浦賀城は永正15(1518)年に三浦一族を破って三浦を領地とした後北条氏が、対岸の里見氏に対する備えとして築いた城です。
本堂正面の外壁に阿吽の「唐獅子」の鏝絵が飾られています。唐獅子は魔除けの神獣です。
岩田辰之助(1893−1955年)、徳太郎(1896−1977年)の兄弟の合作で大正15(1926)年に奉納されています。
図柄は獅子が毬と紐に戯れて遊んでいる姿を描き、背景に牡丹を配しています。
獅子の球遊びは獅子の雌雄が戯れあい、毛が球になり、そこから獅子の赤子が生まれるとされてきました。
そんな言い伝えを辰之助と徳太郎は、立体感が浮き出るように陰影を付け背景の空色を群青に彩色して鮮やかさを際立たせています。
唐獅子といえば牡丹、これは梅に鶯、竹と虎、あるいは青桐に鳳凰などと同じように組み合わされる意匠です。
牡丹の花は控えめに小さく描いていますが、それに赤く色づけした配色が印象に残ります。
唐獅子は中国伝来の伝説上の霊獣ですが、モデルはライオンです。
ライオンは獅子、中国で生まれた仮想動物ですから唐獅子になります。
桃山時代に描いた狩野永徳の「唐獅子図屏風」はあまりにも有名ですが、勇猛な印象から武士にも好まれたそうです。
唐獅子は龍虎などと並んでたびたび用いられる図柄ですが、魔除け、聖域守護の意味が込められています。
岩田辰之助が制作した鏝絵は西浦賀の東福寺本堂の外壁に描いたものをすでに見て来ましたが、しっかりとした技量をもった職人であったことが分かります。
鏝絵細工を探す旅 〜 善吉と愛弟子たちの作品が並ぶ常福寺の本堂(神奈川県横須賀市)
東福寺の山門から臨むと、正面の山の中腹にあるのが常福寺です。
文明年間(1469〜1486年) に創建され、浦賀に奉行所が移されてから浦賀における本陣(御用寺院)の役割をしていました。 そのため、奉行所に新たに着任した奉行も、離任する奉行も、常福寺に立寄ることになっていました。
このように格式をもった寺院でしたので、境内も格調をもっように手が入り庫裏(くり)の庭園は、愛宕山を借景にして四季折々の草木も植え込まれた築山泉水庭は心を和ませてくれます。
常福寺の本堂に浦賀で活躍した左官職人たちの鏝絵を見ることができます。いずれも昭和2(1927)年の作になります。
本堂正面の内陣の5間に仕切られた欄間に、一対の阿吽の唐獅子があります。
左の吽の唐獅子は石川善吉の作で、牡丹が三輪描かれています。
牡丹は「百花の王」とも称され愛好される花ですが、「百獣の王」の唐獅子との組み合わせは、縁起のいいものの代表格として古くから用いられてきました。
牡丹の原産地は中国で、牡丹苗は接木で作ることが多くなっています。
春牡丹、春と秋に花をつける二季咲きの寒牡丹、春牡丹を同じ品種を1−2月に開花するよう、特に手間をかけて調整したものを冬牡丹と分けています。
牡丹餅(ぼたもち)は、ボタンの咲く時期の春の彼岸に供えられます。秋の彼岸には同じ餅はおはぎと名前を変えます。
向かいあう右手の欄間に阿の唐獅子が描かれ、開いた口中を彩色しています。
「蔭山ノ作」と銘が入っています。蔭山とは、善吉の弟子の蔭山太郎(生没年不明)のことです。
5間に仕切られた欄間の中央部に寺紋と唐草模様の1間を挟んだ左手に、躍動する龍が描かれています。
この鏝絵は、善吉の末の息子の石川梅尾(1908−1988年)の作です。
龍は日本には中国から来た伝説上の霊獣で、十二支の五番目ですが唯一の霊獣です。体は鱗に覆われ、角、牙、髯があり、 玉(ぎょく)を持つ姿で描かれることもあります。
龍の爪は中国では5本、朝鮮では4本、日本に来ると3本で描かれることが多いといいます。梅尾は何本で爪を描いたのでしょうか。
善吉には13人の子どもがいて、男が3人だったといいます。
長男の良助は腕のいい左官職人でしたが、日露戦争に徴兵され戦死します。このため次男の吉蔵が石川家9代目として跡を継ぎますが、昭和15(1940)年、52歳で他界します。
梅尾は10代目として家業を継承します。この常福寺の欄間に龍を描いたのは弱冠20の時です。
若くしてしっかりとした技量を兼ね備えていたことが、この鏝絵からも分かります。
龍虎は今にも飛び出してきそうな躍動感にあふれ、鮮やかな色彩の虎には迫力さえもって迫って来ます。
善吉は2人の弟子、すなわち若い末っ子の息子と一番弟子の才能を見てとり、常福寺の本堂の内壁に思い切って鏝を揮わせたのでしょう。
本堂の欄間を見上げると、一生懸命制作に励む後継者たちを温かい目を持って横で見ながら、自らも制作に勤しむ善吉の姿が彷彿と見えてくるではありませんか。
聖獣の「竜虎相まみえる」図はよく用いられる図案で、東を司る龍と西を守護する虎との組み合わせは聖域守護の意味を込めて描かれます。
善吉は雅号を「善光」と号しましたが制作した作品には用いず、また落款の押印などもしませんでした。
さらに3間に仕切った内陣の小壁に、天女と丹頂鶴が描かれています。
笙を奏でる天女を白漆喰で仕上げで、一部を彩色しています。その上に鮮やかな彩色を施した三羽の丹頂鶴が描かれています。
銘はありませんが、欄間壁の作品と同じく昭和2(1927)年の善吉の作と見られています。
天女が領巾を持って舞っている姿を一部を彩色していますが、白漆喰で仕上げています。
常福寺は本堂を移築建立した大正10(1921)年に内陣欄間壁に石川善吉と次男吉蔵が漆喰細工を制作しました。
しかし落成してから2年後、関東大震災に遭い建物とともに破損してしまい、昭和2(1927)年になって善吉、梅尾、蔭山が新たに制作したのが現在遺っている鏝絵になります。
鏝絵細工を探す旅 〜 岩田辰之助が東福寺本堂に描いた珍しい獏の鏝絵(神奈川県横須賀市)
西浦賀の山腹に東福寺があります。
明応9(1500)年、真言宗の寺として創建されましたが、徳川家康が江戸入府後、三浦半島の大部分は天領となり、天正18(1590)年、禅宗(曹洞宗)に改宗したといいます。
幕府から御朱印地二石を与えられ、新しい浦賀奉行が着任すると必ず寺参したそうです。
また、寺に残る古文書の中に町人への貸付証文が多く、相当な財力をもっていた寺であったことをうかがわせます。
急峻な石段を上って境内に入ります。石段の途中に観音堂があり聖観音が祀られていて、これにまつわる伝承があります。
江戸期のはじめ、地元の回船問屋の船が沢山の荷を積んで上方から浦賀に向けて航海していた時、海が大荒れになります。
船頭は必死になって日ごろから信仰する観音様に助けを求めて祈ると、船の舳先(へさき)に観音さまが現れ、やがて海は凪いで無事、浦賀に入港できたそうです。
船頭たちは東福寺に命を助けてくれた観音像を奉納したという言い伝えです。
それ以来、海を鎮め船人たちを守る観音様として、また三浦三十三観音の十三番札所として信仰が篤くなったということです。
本堂には江戸時代後期の絵師・酒井抱一(さかい ほういつ、 1761−1829年)が描いた大きな「亀」の絵馬が奉納されています。抱一は、姫路藩主の次男で、尾形光琳(1658−1716年)の画風を再興した人です。
本堂の外壁に鶴、龍、唐獅子、亀などのみごとな鏝絵8点があります。昭和7(1932)年に岩田辰之助(1893−1955年)が制作したものです。
一見すると彩色された木彫とみまごう出来ですが、これは漆喰細工です。辰之助37歳の時の傑作になります。
辰之助は、喜兵衛を父に代々左官を家業としてきた家系に生まれています。
喜兵衛は石川善吉(1855−1945年)と同時代に浦賀で活躍していました。また、兄に徳太郎(1893−1955年)がいて、辰之助は兄弟で東浦賀の法幢寺(ほうだいじ)に「唐獅子」の鏝絵を遺しています。
徳太郎、辰之助兄弟の鏝絵の師匠は石川善吉と言われます。
岩田辰之助の8点の鏝絵の中で、他の鏝絵師がほとんど描かない珍しい題材が2点あります。
下は獏(バク)の牙に乗る童子でしょうか。バクといっても東南アジアや熱帯地方で見られるマレーシアバクなどの動物とは違います。
一見、象にも見えますが中国の伝説上の霊獣で、獏が描かれるときは丸い体が特徴です。
獏は「象の鼻、犀の目、牛の尾、虎の足」を持ち、日本では悪夢を食べ、良夢に変える神獣とされます。
地方に正月二日に宝船と獏を描いた絵を枕元に置いて縁起の良い初夢を見るという風習があったそうです。
神獣としての獏がいつ日本に伝来したのかは判然としませんが、「鳥獣戯画」に描かれていますし、寺社建築や曳山などでは木鼻や蟇股(かえるまた)などに木彫で見かけることがあります。
悪い夢を食べるということから派生し、魔除けの意味で飾られているようです。
また、獏は鉄を好んで食べるとされ、鉄から造られる武器のない平和な世の中を願って獏を飾ったともいわれます。
もう1点、龍は鏝絵の題材としてよく用いられるのですが、龍の背にいる人物は誰を想定して辰之助は描いたのでしょうか。
このように背に人物を乗せた龍は初めて見ました。
信州の民話のなかに「龍の子太郎」や「泉小太郎」伝説があり、龍の背に乗った姿で描かれることがあります。
また、「安徳天皇は龍神の子」といわれる説話があります。壇ノ浦の戦で敗北し瀬戸内の海に入水した安徳天皇は、厳島神社の関係からも龍神の子と言われているそうです。
左右の一間の小壁に唐獅子が対称的に描かれています。
鏝絵細工を探す旅 〜 石川善吉が中国故事をみごとに描いた西叶神社の鏝絵(神奈川県横須賀市)
西浦賀の西叶神社は、源氏再興のために北面武士の出身の僧・文覚が京都の石清水八幡宮から勧請し養和元(1181)年に創建した社です。
北面武士とは院御所の北面(北側の部屋)に詰め、上皇の身辺警護に当たっていた武士で、「驕れる平家」に憤っていた文覚は源頼朝が伊豆に流されていた時に知遇を得て、源氏再興を願って勧請したといいます。
やがて源氏再興の大願が叶い、頼朝が文治2(1186)年に叶大明神と尊称したことからこの名が付いたと伝えられます。現在の社殿は、天保13(1842)年に再建されたものです。
西叶神社は、虹梁(こうりょう)、欄間、拝殿天井など権現造りの社殿のあちこちに龍や花鳥草木をはじめ沢山の彫刻が飾られています。
安房国千倉(千葉県)の名工・後藤利兵衛が制作し、その数230を超すといいます。
彫刻に要した費用は411両余りで、総建築費の約1/7になったと伝わります。奉行所が置かれ,廻船問屋が軒を連ねていた隆盛期の浦賀であったからこそできたのではないかという見方があります。
西叶神社の社務所の玄関上に白漆喰で陰影を付け立体的に描いた鏝絵が遺っています。
「三浦の善吉」こと石川善吉(1855−1945年)が昭和5(1930)年に制作したもので、善吉の作品の中でも秀逸とされるものです。
石川善吉は安政2(1855)年に西浦賀の川間で生まれます。代々続いた左官職人の家系で、善吉は8代目になります。
左官の仕事の傍ら幼い頃から絵心のあった善吉は鏝絵にも開眼し、その非凡な才能から浦賀では「伊豆の長八、三浦の善吉」と称されたといいます。
昭和20(1945)年に没するまで左官一筋に生きた人生だったといいます。
中国北宋時代の政治家・司馬光が子どもの頃、友だちと飲み水を貯める大きな水瓶の近くの松の木に上って遊んでいた時に1人が誤って甕に落ちて溺れてしまいます。
自力で這い上がれないのを見た司馬光は、とっさの判断で側にあった石で水瓶を割って友だちを救い出します。
水甕は造るのも運んで設置するのも大変なことで貴重なものですが、甕の持ち主は司馬光の人命を救った機転の利いた行為を褒めて、大切な甕を割ったことを許したという逸話です。
善吉はこの故事をみごとに描ききっています。
善吉の技量が並々ならぬことから、善吉は制作の技術をどこで学んだのか、鏝絵名人・入江長八との接点はあったのかということを調べ上げた人がいます。
横須賀市史専門委員で同市文化財専門審議会委員の上杉孝良さんです。
東京の下町で活躍していた長八が75歳で亡くなった時、浦賀の善吉は35歳の働き盛りで、東京と浦賀という距離から接触があったのではないかと考えさまざまな資料を調べています。
横須賀市の観光ボランティアとして活動し、浦賀から横須賀一帯に遺っている鏝絵を調査している林 義明さんから送っていただいた資料に掲載されていました。
その結果、長八が故郷の静岡県松崎町の春城院に奉納した「釈迦十六善神像」の画幅の背面に24名の「軸施主連名」のなかに、長八の名とともに石川善吉の名が記されていることを発見しています。
これまでのところ、入江長八と石川善吉を結ぶ資料はこれ以外に見つかっていません。
くわしいことは不明ですが、上杉さんは「善吉は早くから漆喰彫塑の技術を長八について学び、師弟関係にあった可能性が考えられ、長八に認められるに相応しい技巧を習得していたことが想定される」(『市史研究 横須賀 第8号』)と記しています。
鏝絵細工を探す旅 〜 激しい傷みから蘇った大六天社の昇龍と降龍(神奈川県横須賀市)
川間の奥まった山際に、江戸時代の中頃から明治になるまでの約150年間、浦賀奉行所がありました。
奉行所の奥の山際には、川間の鎮守で、江戸時代に創建された榊神社大禄天があります。
石川梅尾から鏝絵の技法を学んだ辰巳忠志さんの道案内で、入り組んだ道を回りながら西浦賀町川間の鎮守・大六天神社に参りました。
主祭神は猿田彦神で、神社の正式名称は「榊神社大禄天神」ですが、通称で大六天神社と称しています。
手元の略図でたどり着くには時間がかかったろうと思うほどの、少し入り組んだ道です。
大禄天は当初は川間の奥深くにある通称・お伊勢山の中腹にありましたが、昭和の初めに現在地に移されたといいます。
大禄天は、語呂が仏道修業行を妨げている第六天魔王、多化(たけ)自在天に通じることから忌嫌われるのですが、ここでは敢えて社名として道が分かれるちまた(道股)を守り邪霊の侵入を阻止する猿田彦神を祀ることにより、悪霊を寄せ付けず地域を守ろうとしたのだと言います。
この社の左右の戸袋に真新しい一対の龍の鏝絵が、ガラスケースで保護されながら飾られています。
辰巳さんの話によると、かつて同じ場所に石川善吉と吉蔵の親子が制作した昇龍と降龍がありました。
お宮は子どもたちの遊び場となりますが、この鏝絵も子どもたちの手の届く位置にあったため、いたずらされたり汚されたり、さらには玉眼が持ち去られたりするほど荒らされていたそうです。
西浦賀・川間が生んだ鏝絵名人の石川善吉と吉蔵が遺した作品の修復とあって渾身の力を絞って制作にあたったといいます。
堂に向かって右手の戸袋にある「昇龍」が善吉、左の「降龍」が吉蔵の作と見られています。
戸袋の上の両壁に向かい合って飛翔する一対の丹頂鶴も描かれています。
修復を終えて辰巳さんは自ら制作した鏝絵「鳳凰」を奉納しています。
社の扉は固く施錠されていて堂内に入ることが出来ません。小さな格子窓にレンズを付けて辛うじて撮れたのが、この画像です。
鏝絵細工を探す旅 〜 石川梅尾が遺した川間町内会館の「鶴亀」と「鳳凰」(神奈川県横須賀市)
西浦賀5丁目から6丁目にかけて、かつて字名で川間と呼んでいました。
「川間」は一般に川と川の間にある土地を指すことが多いのですが、この地域については埋め立てられていなかった頃の昔の大きな平作川と、浦賀湾がずっと入江になって川のように見えた地であったことからこの名が付いたと言います。
現在は住居表示の変更で字名で呼ぶことは少なくなりましたが、地元では今でも字名で呼ぶことがよくあり、町内会などの名称にも残っています。
西浦賀の川間町内会館もそんな一つで、木造2階建ての集会施設として建てられ町内会の人たちの交流の場として活用されて来ています。
その1階の軒下の妻一面に、鶴亀と背景に松竹梅を描いた縁起物の鏝絵があります。
地元の鏝絵師・辰巳忠志さん(1943年〜)に案内していただき、川間町内会館の鏝絵を見学に来ました。
昭和34(1959)年の会館竣工時に、地元・川間の左官職人石川梅尾(1908−1988年)が制作しています。
梅尾は鏝絵名人と称された「三浦の善吉」こと石川善吉(1855−1945年)の13蕃目の末っ子として生まれ、善吉について修業します。
善吉も梅尾を鍛え上げるとともに、善吉の後を継いだ次兄の吉蔵(1889−1940年)も梅尾にいろいろと左官技術を伝授します。
梅尾は20歳になった頃には一人前の左官技術と鏝絵の技法も習得し、西浦賀の常福寺の本堂にこの頃制作した躍動感あふれる龍の鏝絵が遺っています。
この川間町内会館に鏝絵を制作したのは、梅尾52歳の時です。
1、2階のどちらにも「石梅」の銘が刻まれています。
旧川間町内に住み、梅尾から鏝絵制作の技法を伝授された現代の鏝絵師、辰巳さんは1階庇の鏝絵に色落ちと傷みが目立っていることから修復することに意欲的です。
案内してもらったこの日、たまたま出会った町内会の役員に「わたしの師匠の鏝絵が傷んで来ていることは、気持ちの上でいたたまれないので修復させてもらいます。地元の大切な文化財、宝ですし…」と約束していました。
鏝絵細工を探す旅 〜 廻船、干鰯問屋が繁栄を極めた浦賀で鏝絵を制作した職人たち(神奈川県横須賀市)
神奈川県横須賀市に鏝絵が遺っていることは知っていましたので、現地の地理に詳しいF・Tさん(横浜市在住)に同道していただき訪ねました。
丸1日かけてほとんどを歩いて回ったのですが、F・TさんはiPadを駆使して時間を無駄にしないすばらしいナビゲーター役をしていただき大変助かりました。
また、現地ではさまざまな方たちのお世話になりました。
なかでも、西浦賀の鏝絵師・辰巳忠志さん、観光ボランティアガイドの林 義明さんには、ご多忙のところ多くの時間を割いていただきお世話になりました。あらためて御礼申し上げます。ありがとうございました。
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ペリー来航、開国の港町として歴史の教科書には必ず登場する横須賀市浦賀ですが、江戸中・後期からの歴史を簡単に見ておきますと……。
江戸の町が発展するに従い、全国各地から江戸への生活物資が船で運ばれるようになると、 それまでの下田奉行所では対応できなくなり、享保5(1720)年に浦賀に奉行所を移します。8代将軍吉宗の治世下です。
「船番所」を置いて江戸へ出入りするべての船を監視し、船荷をここで検査する「船改め」の体制を整えました。
(江戸へ運ぶ船荷の検査、後に海防の任に当たった浦賀奉行所は広大な敷地にありました。現在は礎石が残るだけになっています)
湾の西側の西浦賀は、塩などを商なう回船問屋が建ち並び商人の町として繁栄します。
同じ頃、関西方面、中でも紀州(現・和歌山県)から鰯を求めて、たくさんの漁船がやってくるようになります。これは、近畿地方で盛んだった綿作のための肥料として干鰯(ほしか)が最適で、それを求めてのものでした。
(深く切り込んだ湾の東西を結ぶため、古くから渡し船が就航しています)
この需要に応じて近海で水揚げした鰯を干鰯に加工し、関西方面に送り出す干鰯問屋が湾の東側の東浦賀にできます。
寛永19(1643)年には東浦賀の干鰯問屋は幕府の公認を得るまでになり、全国の干鰯商いを独占するほどまで繁盛しました。
干鰯問屋が大きくなるに連れさらに船の出入りも多くなり、江戸時代、浦賀は干鰯問屋や廻船問屋が軒を連ねる港町として栄えます。
江戸時代も半ばを過ぎる頃から浦賀沖へしばしば外国船が姿を見せるようになり、 鎖国政策をとっている我が国は、外国船から江戸を守るため浦賀奉行所に海防という大きな役割を担わせました。
(黒船に乗って浦賀沖に現れたペリー提督の錦絵=浦賀コミュニティセンター別館に展示)
このため浦賀奉行所に、世界事情に明るい優秀な役人が多く集まりました。
嘉永6(1853)年、アメリカのペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻の軍艦(黒船)が浦賀沖に来航した時は、浦賀奉行所がペリー艦隊との直接対応に当たりました。
(幕府がオランダに発注し安政4=1857年に出来上がった洋式の軍艦として2番艦の咸臨丸。日米修好条約の批准書交換のため幕府の船として初めて太平洋を往復します。浦賀コミュニティセンター別館に模型が展示されています)
慶応元(1865)年、日本最大級の造船施設である横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)の建設が始まります。長崎海軍伝習所などに派遣された浦賀奉行所の優秀な人材は、技術を吸収して帰り、ここでその技術と能力を発揮します。
明治維新後、横須賀製鉄所は新政府に引き継がれ、さらに発展を続けます。
一方、明治17(1884)年、横浜にあった東海鎮守府が横須賀へ移され海軍の軍事拠点となり、その後も多くの海軍施設が造られました。
(嘉永6=1853年のペリー来航に驚いた幕府は急ぎ浦賀造船所を建造します。浦賀ドックは戦後も艦艇などの建造を続けましたが、工場集約化のため平成15=2003年に閉鎖されました)
横須賀製鉄所はその後、横須賀造船所、横須賀海軍工廠などと名称を変えながら発展を続けます。特に日清戦争、日露戦争前後の技術革新は目覚ましいものがあり、横須賀は日本の近代化のさきがけともいうべき地となりました。
明治24(1891)年に浦賀ドックの設立が決まり、浦賀は造船の町としての歩みを始め、これ以後、浦賀は商業中心の町から工業の町へと変わっていきます。
(浦賀コミュニティセンター別館に展示されている辰巳忠志さんの鏝絵作品「龍」)
切り込んだ浦賀湾の東西両岸の塩、干鰯の問屋が活況を呈していたころ、荷を収蔵する土蔵を建て、左官職人の仕事も多忙を極めていました。
職人たちは左官職を営みながら、あるいは左官業を退いてから数多くの鏝絵を生み出しました。
今でもこの頃の鏝絵が遺っています。なかには、過去にあったことは確認されているものの建て直しなどですでに失われたものも少なくありません。
浦賀コミュニティセンター別館に現在、鏝絵師として活躍している辰巳忠志さんの作品が展示されていますので、横須賀の鏝絵を見る旅はここからスタートすることにしました。
鑑賞を終えた時、観光ボランティアとして活動されている林 義明さんに出合いました。林さんは浦賀から横須賀一帯に遺っている鏝絵を調査し、写真集を自費出版しています。見所などを簡潔に説明していただきました。
林さんからは後日、数々の貴重な資料を提供いただきました。
さらに鏝絵の技法を市民講座などを通して鏝絵制作の技法を伝えていこうと活躍されている鏝絵師の辰巳忠志さんと出会うことができました。 浦賀コミュニティセンターの職員の方が仲介の労をとってくださいました。
辰巳さんは昭和18(1943)年に神戸市で生まれ、18歳の時に土佐漆喰の棟梁のもとで3年間修業し左官職人としての腕を磨き、横須賀・西浦賀に居を構えるようになります。
西浦賀の同じ町内に鏝絵名人・石川善吉の息子で、浦賀一帯に鏝絵作品を遺している石川梅尾がいました。
同じ左官職人として辰巳さんが優れた絵の腕を持っていることを見た梅尾は、たびたび辰巳さんのもとを訪れ、いつしか鏝絵制作の技法を伝えるようになったといいます。
辰巳さんが本格的な鏝絵制作に取り掛かったのは、左官業の一線を退いた平成22(2010)年からで「師匠の梅尾から技術を受け継いだのは自分しかいない。自分が元気なうちに少しでも鏝絵を遺していかなければ」との思いが強くなったからだといいます。
市民講座のほか鏝絵制作の依頼にも積極的に応じる一方、市内に遺っている鏝絵の修復や復元にも取り掛かっています。
浦賀観光協会2014年版カレンダーにも「よみがえる名工の技」として制作した作品が紹介されています。
工房を訪ねると辰巳さんは、公的施設から制作依頼のあった慈母観音の鏝絵をこの日までに仕上げ、ひと息いれているところでした。
そんな充足感もあってか工房にある作品を丹念に解説していただきながら拝見し、作品ごとの制作にまつわる秘話を聞いたりして、すっかり意気投合してしまいました。
(新たに制作を終えた「慈母観音」の大作)
それで、辰巳さんは、同じ町内に遺っている鏝絵のあるところを案内してくれることになりました。
恐縮しながらも、お願いすることにしました。
(辰巳さんが鏝絵の制作のため使用している鏝。いろいろな道具を自ら鏝に加工しています)
ステンドグラスを見に行く シンプルなデザインで落ち着いた雰囲気を醸し出す椿屋新橋茶寮のグラス(東京・新橋)
都内23区内を中心に首都圏にコーヒー店をチェーン展開する椿屋という喫茶店があります。
このうち、新橋駅烏森口の近くに「椿屋新橋茶寮」があり、ここにステンドグラスが嵌められています。
ステンドグラスは2、3階のフロアの窓にあり、どのテーブルに着いても視界に入ります。
ステンドに使用している色使いが落ち着いたものを使って、シンプルなデザインで仕上げていますので、視界に入ってもジャマになりません。
「美しいロイヤルコペンハーゲンのカップで味わう本格サイフォン珈琲は、豊かな香りが漂います。上質な大人の時間をお楽しみください」−店側のキャッチフレーズですが、落ち着いた雰囲気の中で寛げるのではないでしょうか。
ところで喫茶店模様もひところに比べると、様変わりしました。
都市部では外資系のセルフサービス型の喫茶店が出店を競い合っています。
昨今はコンビニでのヒットを見て、外食チェーンなども次々とコーヒー商戦に参入しています。
喫茶店では両種を組み合わせて、味の良いコーヒーの開発にしのぎを削っているわけです。
従来タイプの喫茶店からは「寛ぎたくて来る人たちが多く、コンビニ・コーヒーを求めるニーズとは違う」との声も聞こえて来て誇りを持っているようです。
ステンドグラスを見に行く 建学の精神をデザイン化した立教大学チャペルのグラス(東京・池袋)
池袋にある立教大学の正門右手に建つチャペルは、正式名称を「立教学院諸聖徒礼拝堂」と言い、築地から池袋への移転を機に、本館や図書館旧館と同時期の大正7(1918)年に建てられました。
建築当初は礼拝堂だけで、西側の控え室、回廊、入口上部のバルコニー(聖歌隊席)はその後増築されています。
チャペルの入り口の明かり取りに、立教大学のシンボルマークを描いたステンドグラスが嵌められています。
当時のライフスナイダー総理は建学の精神を具体的に表現するものとして、 現在使用されている楯のマークと標語を定めています。
楯のマークは、紫、白、金の三色と十字架と聖書がデザインされています。紫は王の色、白は清純の象徴で、白色の十字架はキリストの純潔を意味するそうです。
神の言葉である聖書が生涯の教科書として中心に置かれ、画像では見えませんが開かれた聖書のページにラテン語でPRO DEO ET PATRIAと記されています。
PROは英語のfor、DEOは神、ETはand、PATRIAは祖国で、「神と世界のために」奉仕する人間を育てるという同大学の建学の目的を端的に示したものだと言います。
立教大学の最寄り駅は池袋ですが、同駅西口から同大まで徒歩7分、途中商店街が建ち並びますが、商店街は立教大学のスクールカラーの紫をペナントに使用しています。
立教大学は日本聖公会の大学で、キリスト教を信仰している立大生たちは池袋に近い目白聖公会などで教会活動を行っていると言います。
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