ステンドグラスを見に行く 数多くの国宝を陳列展示している東京国立博物館を飾るグラス(東京・上野)
東京国立博物館(旧東京帝室博物館本館)については以前にも書きましたが、大正12(1923)年の関東大震災で破損した旧本館(明治15=1882年開館、ジョサイア・コンドル設計)に代わって建てられました。
公募に当選した渡辺 仁の案をもとに宮内省内匠寮(ないしょうりょう、訓読みの場合はたくみりょう)が実施設計をして昭和7(1932)年に建設着手し、5年後の同12(1937)年に竣工します。開館は翌13年になります。
展示室は1・2階に計26室あり、中央の大階段を取り巻いて「ロ」の字状に展示室が配置されています。
この1・2階の階段室の両側にステンドグラスが嵌入されています。
図案はアカンサスをモチーフにしたアール・ヌーヴォー調のデザインになっています。
ステンドグラスの制作者は同博物館に尋ねても分かりません。宮内省内匠寮が建築設計していますので、こちらから発注したものと推測できますが、いまのところ誰が図案を描き、誰が制作したのか不明です。
しかし、この図案と酷似したものが国会議事堂中央ホールや靖国神社遊就館にもあります。となると、別府七郎(1873−1936年)が大正9(1920)年に設立した別府ステンド硝子製作所が大きく関わっていると考えられます。
アカンサスは、フランス・ルイ王家の紋章になっています。重厚感のなかに品位があり、数多く用いられます。左右の花弁が二重、三重になっていたりバリエーションも豊富です。
内匠寮は、宮内省に設置された内部部局の一つで、「宮殿その他の建築物の保管、建築・土木・電気・庭苑および園芸に関する事務を管掌する」役割を担っているセクションになるそうです。
ちなみに宮内省内匠寮が関わった設計として、旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)や旧李王家邸(赤坂プリンスホテル旧館)などが遺っています。
同博物館のステンドグラスは、昭和7(1932)年の起工から同13年の開館までの間に制作され、嵌められたものと思われます。
この頃の日本のステンドグラス界は全盛期を迎え、制作技術も各工房が競い合っていた時期に当たります。
ステンドグラスを見に行く 異郷の地で集団礼拝する聖堂を飾るジャーミイのグラス(東京・代々木大山)
渋谷区大山町にある「東京ジャーミイ・トルコ文化センター」のステンドグラスを見学に行ったのが晩秋にさしかかった頃で、街路樹のケヤキがみごとに黄葉していました。
東京ジャーミイは、日本にあるイスラム教徒たちの最大級の礼拝所で、イスラーム文明を象徴するオスマン・トルコ様式の建築物です。
鉄筋コンクリート造で耐震建築の建物は、大ドーム、半ドームは内部鋳型を用いず、内壁や外壁の大理石は特殊な技術で金具のみで取り付けられているといいます。
一つの大ドームを中心に六つの半ドームが配置され、天井システムを統一感のあるものにした斬新な設計デザインが特徴になっています。
毎週金曜日、イスラーム教徒の人たちは集団礼拝のためここに集いアッラーに祈りを捧げます。礼拝が終わると互いの旧交をあたため、近況を報告し合うそうです。
東京ジャーミイの2階礼拝堂に入ると、大小ドームが形づくる広い空間、内壁に施された数々のカリグラフィの装飾、大ドームの中央から吊るされたシャンデリア、そして数多くの明り取りに嵌め込まれたステンドグラスの美しさに圧倒されます。
カリグラフィは神や預言者ムハンマドのメッセージを、流麗なアラビア語書体をデザインし建物の内外壁や礼拝堂内部に装飾的に施されています。
現在の建物が建て替えられたのは平成12(2000)年ですが、前身の聖堂が建てられたのは昭和13(1938)年まで遡ります。
大正6(1917)年、ロシアで社会主義革命が起き同国内に居住していた多くのイスラム教徒たちは迫害を受けるようになり、海外へ避難せざるを得なくなります。
カザン州に住んでいたトルコ人たちは中央アジアを経由して満州へと移動、さらに韓国や日本へ移住します。
日本へ移住してまもなく、関東大震災が発生します。直後にアメリカ政府は東京在住の外国人を救助するため横浜港に特別船を用意します。
この時、トルコ人たちはその申し出を断り、日本を離れることはなかったといいます。
彼らにとっての悩みの一つに、子どもたちの教育問題がありました。昭和3(1928)年、日本政府から学校設立の許可を得て、開設します。
同10(1935)年に現在地に土地を購入し学校を移転させ、3年後に悲願であった礼拝堂(東京回教礼拝堂)を建設します。
以来、半世紀以上にわたりこの礼拝堂は、在日のイスラーム教徒たちの礼拝場としての役割を担ってきましたが、昭和61(1986)年に建物の老朽化に伴って取り壊され、平成12(2000)年に再建されます。
新しい礼拝所の設計は現代トルコ宗教建築の代表的建築家のムハッレム・ヒリミ・シェナルブが担当し、建設工事にトルコ本国から約100人の技術者や工芸職人が来日し、建物本体や内装工事に従事したといいます。
このジャーミイを見る位置を新宿方向に向けると、高層ビル群を借景に外観は異彩を放って見え、街路樹のケヤキとも調和して建っています。
ステンドグラスを見に行く 伊東忠太ワールドが楽しめる築地本願寺のグラス(東京・築地)
「築地」と聞いて、思い浮かぶものはなんでしょうか?
都民の台所を賄う中央卸売市場や場外市場でしょうか。隅田川に架かる勝鬨橋(かちどきばし)でしょうか。あるいは国立がん研究センターや聖路加病院などの医療施設ですか。
それとも朝日新聞東京本社になりますか、三井造船やニチレイなど大手企業の本社ビルもありますね。
そんな中にあってひと際異彩を放って、築地の街の顔になっているのが築地本願寺です。伽藍はインド仏教の祠堂を模して建てた古代様式(天竺様式)の建物になるそうです。
築地本願寺には日本の多くの寺院に見られるような山門が無く、前庭を大きくとった開放的な設計になっていて、建物全体は中央部の伽藍と左右に三つの小塔部分からなり、伽藍の高さは33mあります。
築地本願寺は江戸時代の元和3(1617)年に、西本願寺の別院として浅草の近くの横山町に建立されたのが始まりです。
しかし40年後の明暦3(1657)年に明暦の大火、世に言う「振袖火事」で被災し、本堂を焼失します。
幕府は、代替地として八丁堀沖の海上に限って認めます。これに対し佃島(現・中央区佃)の門徒たちは海を埋め立てて、延宝7(1679)年に本堂を再建し「築地御坊」と呼ばれる伽藍を再興します。
ちなみに、築地とは海を埋め立てた土地と言う意味になるといいます。
その後、大正12(1923)年の関東大震災で築地本願寺も被災します。倒壊は免れたものの、すぐに火災が起こり再び伽藍を焼失します。
本堂再建は、東京帝国大学工学部教授の伊東忠太(1867−1954年)が設計に携わります。昭和6(1931)年に起工、3年後の同9(1934)年に竣工しています。
当時としては珍しい鉄筋コンクリート造2階建てでした。伽藍には大理石彫刻がふんだんに用いられています。
伊東忠太が活躍していた時代、建物設計は欧米流が主体となっていました。
しかし、伊東は洋風化や和洋折衷は必要なく、建築も生物のごとく徐々に進化していくのが自然であると考え、伝統的な様式に新たな設計技術を加味して日本独自の様式を進化させることを主張していたといいます。
伊東は明治から昭和期にかけて活躍した建築家、建築史家ですが、以前にも書きましたが妖怪好きでもつとに知られた人です。
伊東が手掛けた一橋大学兼松講堂(東京・国立市)や震災祈念堂(=東京都慰霊堂、東京・横網)、そしてこの築地本願寺にも摩訶不思議な動物の彫刻が付けられています。
本堂へ入る入り口の欄間にステンドグラスが飾られています。図案は仏教寺院らしくロータスフラワー(蓮の花)が描かれています。
このステンドグラスについては、制作年代、制作者、原画作成者など詳しいことは分かっていません。
現在は取り外されてありませんが、納骨堂の欄間にあった鳳凰を描いたステンドグラスが昭和9(1934)年の設置だったといいますので、同じころの制作と見られています。
ここで思い浮かんだのが、このグラスの図案を描いたのは伊東忠太ではなかったかということです。伊東は多彩な人で、上野の国立科学博物館に伊東が原画を描いた鳳凰のステンドグラスがありますが、筆致や色使いが似ているように見えるのです。
裏付けるものがありませんので、これ以上は言及しませんが…。
昭和62(1987)年に修復され、いっそう鮮やかな色彩が蘇っています。
ステンドグラスを見に行く 英霊を祀る靖国神社遊就館のグラス(東京・九段)
ステンドグラスといえば教会装飾のイメージが強いことから、神社仏閣にステンドグラスがあるというのはある意味、驚きと違和感をもって受け止められるようです。
東京では代表的な神社仏閣として存在する靖国神社と築地本願寺にもステンドグラスがあります。まず靖国神社から見てみます。
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靖国神社は明治2(1869)年に明治政府が戊辰戦争での官軍の戦死者を弔うために創建した東京招魂社が前身です。
その後、明治維新に向かう過程で起こった佐賀の乱(明治7=1874年)、西南戦争(同10
同12(1879)年になって靖国神社と改称しています。明治天皇の命名によるもので、靖国の社号に「祖国を平安にする」という願いを込めたといいます。
その後、日清、日露、日中戦争などの戦没者が祀られるようになります。
太平洋戦争でも兵士たちは「靖国で会おう」と、戦地へ赴いて行きました。国のために命を捧げた軍人らは「英霊」、「軍神」と讃えられるようになります。
靖国神社に祀られているのは軍人ばかりでなく、戦場で救護に当たった従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなった学徒のほか、当時、日本人として戦い亡くなった台湾や朝鮮半島出身者、さらにシベリア抑留中に死亡した軍人、軍属なども含まれていて、現在は246万6千余人が祀られているといいます。
また、昭和53(1978)年になって靖国神社は、A級戦争犯罪人14人を合祀するようになります。
こうした経緯から、官軍と戦った旧幕府軍や奥羽越列藩同盟の兵士や明治維新の功労者であっても、その後、叛乱を起こしたり加担した西郷隆盛や江藤新平らは祀られていません。
また、太平洋戦争中の原爆や空襲で亡くなった民間人は対象外になっています。
靖国神社は戦後、宗教法人となり、憲法の政教分離の規定から国が関われなくなっていますが、内閣などの公職に就く者の参拝とそれに伴う玉串料の奉納などが批判され、国内外で様々な問題が生じています。
神門を通り拝殿前の右手奥に遊就館があります。
遊就館は明治14(1881)年に陸軍卿・山県有朋らが「御祭神の遺徳を尊び、また古来の武具などを展示する施設」として、お雇い外国人のイタリアのジョバンニ・カペレッティーの設計で竣工しましたが、大正12(1923)年の関東大震災でレンガ造りの建物は大破します。
1カ所は館東側の階段室の内倒し窓に取り付けられています。
意匠、使用ガラス、鉛桟の状態から創設当時のものと確認されています。
制作したのは、靖国神社の資料から別府七郎(1873−1936年)が設立した別府ステインドグラス製作所であることが分かっています。
アカンサスをデザインした図案で、設計した伊東は遊就館の装飾としてあちこちに用いています。
使用されているガラスは、バックのペースに使われている乳白色で青みを帯びているキャセドラルグラスなどから、そのほとんどがアメリカ最古のガラス製造会社ココモ社のものを使っていると見られています。
もう1カ所は、2階西側の特別陳列室の天井に円形を四つ割りにして嵌め込まれています。
このステンドグラスは、平成14(2002)年に復元されたものです。復元に当たったのは、昭和54(1979)年に横浜・菊名で創業した光ステンド工房です。
光ステンド工房はフランス古典技法から最先端の現代技法までを駆使してステンドグラスの制作や古い作品の修復、復元を行っています。
代表の平山健雄さん(1949年〜)は同51(1976)年に渡仏して国立高等工芸美術学校ステンドグラス科で3年間学び、その後欧州各国のステンドグラスを見て回り同54年に帰国して工房を開設しています。
平成12(2000)年に、特に優れた技能を持つ人に授与される横浜マイスターに登録認定されています。横浜開港記念館のステンドグラス(「鳳凰」「箱根越え」「呉越同舟」)の復元作業も行っています。
復元前の調査では、天井裏の屋根から自然光を取り込む建屋に戦中に焼夷弾によるものと思われる焼け焦げた跡が残っていたといいます。このことから、その際に破損したものと推察されます。
こちらもアカンサス模様のデザインです。
復元を担当した光ステンド工房は、天井部分の曲線を含む変形ステンドグラスパネルのため、3点計測法で寸法を測り、その点を繋いで曲線を割り出したそうです。
また、天井に嵌め込まれているためガラスをつなぐ鉛線は比較的柔らかい金属ですので、自重によって鉛が延びたり地震などの揺れで落下しないようクリアラスを最小限にし制作寸法を決めたとも言います。
復元作業は大変だったようですが、いま復古主義的な雰囲気を醸す靖国神社遊就館の天井に輝いています。
* 館内の撮影は原則認められていませんので、注意が必要です。掲載画像は管理者の許諾をいただいています。
ステンドグラスを見に行く 関東大震災の揺れにも奇跡的に残った日本女子大成瀬記念講堂のグラス(東京・目白)
日本女子大学の創始者・成瀬仁蔵(なるせ じんぞう、1858−1919年)は、慶応義塾の福澤諭吉、同志社大学の新島 襄(にいじま じょう)と並んで日本三大教育者の一人とされる人です。
成瀬は女性に教育は有害無益であると考えられていた当時、「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」という女子教育の方針を示し、女性が人として自立し活動することの必要性を力説、世論喚起に傾注しました。
創設にあたり、錚々たるメンバーが名を連ねます。東京専門学校(現早稲田大学)の創立者大隈重信が創立委員長となり、総理大臣伊東博文、文部大臣西園寺公望、学習院院長近衛篤麿をはじめ、財界からも渋澤栄一、岩崎弥之助ら多数が支援します。中でも京都三井家出身の広岡浅子は三井家を説得して東京目白台の校地を寄贈しています。
成瀬は外国の資金に依らない「自立自給」を掲げ、女子大学設立の募金に6年の歳月を要して10万円(現在価額で約15億円)を集め、校舎、寄宿舎などを建設します。
明治34(1901)年、人格教育を基本とした女子高等教育のモデル校として日本女子大学校が、東京・目白に開校します。わが国で最初の組織的な女子高等教育が誕生しました。
日本女子大学のシンボルともいえる成瀬記念講堂は、明治39(1906)年に、「豊明図書館兼講堂」として建設されました。森村財閥の寄付金で、開校されてから5年後に建てられました。
レンガ造の2階建てで、1階部分は講堂として、2階部分は図書室として使用されていました。
設計は、渋澤栄一にゆかりのある晩香蘆、青淵文庫(東京・飛鳥山)や誠之堂(深谷市)などを手掛けた田辺淳吉(1879−1926年)です。田辺の初期作で西洋の教会堂を思わせるデザインは、創立者成瀬仁蔵の希望を反映したといわれています。
しかし、大正12(1923)年の関東大震災で壊滅的な被害を受け学内の多くの建物が大破しましたが、図書館兼講堂のステンドグラスは奇跡的に破損を免れます。
壊れた外壁や間仕切りのレンガを取り除き、翌13年に内部は元の部材を使用し、木造建築で再建します。
現在見られる木骨トラスやハンマービームの架構、基礎部分のレンガ構造などは再建後のものになります。
木材でアーチトラスを組み屋根を架構する小屋組みは、見た目に少し複雑で豪華さもあることから、中世の教会や貴族の邸宅などに多く用いられたといいます。
ステンドグラスも、再び講堂の演壇の両サイドに嵌め込まれます。
この時に図書室は他の場所に移され、建築物は講堂専用として使用されることになります。
初代のレンガ造の豊明図書館兼講堂が完成した明治39(1906)年といえば、日本で初めてのステンドグラスの工房になる「宇野澤スティンド硝子工場」が東京・東新橋に設立された年です。
宇野澤辰雄(1867−1911年)が明治19(1886)年に渡独し、ステンドグラスの技法を3年掛けて習得し帰国しますが、明治政府が構想していた官庁集中計画が挫折し宇野澤はその技術を発揮することが叶いません。
宇野澤はステンドグラスの制作を断念し、他の仕事に従事するようになります。これを惜しんだ養父の宇野澤辰美(生年不明−1919年没)がこの工場を立ち上げて、日本の本格的なステンドグラス制作の歴史が始まります。
豊明図書館兼講堂のステンドグラスの制作者が誰なのかは分かっていませんが、海外からの輸入品でなければ、宇野澤辰雄か宇野澤スティンド硝子工場ということになります。
図案はアールデコ調の花模様と幾何学模様のデザインであしらわれています。
設計者の田辺は大正期の日本建築界に斬新でモダンなデザインを導入した人で、ステンドグラスも早くから採り入れて設計しています。
豊明館は昭和36(1961)年に、創立60周年記念事業として補修工事がなされ、名称も「成瀬記念講堂」となります。
現存する数少ない大正期の学校建築として保存されています。
ステンドグラスを見に行く 「新幹線の父」の邸宅を飾ったグラス(東京・千駄木)
文京区千駄木の特養老人施設「千駄木の郷」のラウンジに古いステンドグラスが飾られています。
このステンドグラスは、現在のJRがかつて日本国有鉄道(国鉄)と呼ばれていた時代の全盛期に、トップに君臨していた十河 信二(そごう しんじ、1884−1984年)の本郷の自宅を飾っていたものです。
ステンドグラスは、昭和12(1937)年に建てられた木造2階建て建物の玄関の木製建具に嵌め込まれていたといいます。
旧十河家は、戦後GHQに接収され解除後に国鉄保養所「本郷閣」として使用されましたが、その後分割・民営化に伴って国鉄が抱えていた長期債務の償還などのために設置された国鉄清算事業団によって取り壊されて現存しません。
取り壊しにあたってボランティア団体「たてもの応援団」が、このステンドグラスやマントルピースなどを保存するため払い下げを受け、近くの特養老人施設に移設しました。
このステンドグラスの制作者は三崎彌三郎(1886−1962年)です。
三崎は小さなころから絵が好きで、京都市立工芸学校(現・京都市立芸術大学)や現・国立京都工芸繊維大学で建築家の武田五一(1872−1938年)、日本画の谷口香嶠(こうきょう、1864−1915年)、竹内栖鳳(せいほう、1864−1942年)らに師事します。卒業してから辰野金吾事務所へ入ります。
(東京・上野にある国立科学博物館のグラスモザイクも三崎彌三郎のデザインといわれます)
日本のステンドグラス史研究の第一人者・田辺千代さんが、三崎彌三郎について調べています。
田辺さんは膨大な資料や記録から、三崎は「今でいうインテリアコーディネーターの走りのような人であったのではないか」といいます。
例えば後に農相となった山本悌二郎邸の電燈器具のデザイン、大正元(1912)年の朝鮮銀行本店の天井、大正3年の東京米穀商品取引所の家具のデザインや図案、銀座資生堂のドア・パネルのデザインなどに優れた能力を発揮したことを挙げています。
明治39(1906)年、三崎は日本で初めて設立されたステンドグラス製作所になる「宇野澤スティンド硝子工場」に名を連ねています。
田辺さんは記録資料の分析から「昭和四、五年から十二年頃まで、三崎は多くの作品を手掛けているのではないか」といいます。
しかし、三崎が制作したステンドグラスは今のところ、この旧十河家に飾られているほかに現存しているものは確認されていません。
旧十河家の制作者が三崎であることを田辺さんが突き止めています。
また、その作品の特徴について、三崎は真面目な性格で、それが作品にも表れていて「どちらかというと鋭角なデザインが多いんです。最初に描く絵はモヤモヤとしていて、デザインは鋭角な形になる。そういう面白さを持った人でもあります」と指摘しています。
国鉄の第4代総裁の十河は、「新幹線の父」と呼ばれ、総裁在任期間は8年間(1955-1960年)に及び、歴代国鉄総裁の中で最長の記録になります。
国鉄は昭和29(1954)年に青函連絡船・洞爺丸が台風18号で転覆し、1千人以上の死者を出した「洞爺丸事故」、翌年に宇高連絡船・紫雲丸が大型貨車運航船と衝突して沈没、修学旅行中の小学生ら168人が死亡するという「紫雲丸事故」が相次ぎ、3代目総裁が引責辞任したものの国鉄の信用は地に墜ち、後任の成り手がいませんでした。
国鉄OBの十河に白羽の矢が立ち、十河は年齢と健康を理由に固辞したものの大物代議士の強力な働きかけによって登板することになります。
十河はこの時、71歳になっていました。「鉄道博物館から引っ張りだされた古機関車」との風評も囁かれたといいます。
就任後、十河は当時、赤字、大事故、ストライキの三重苦に悩まされ、活気を失っていた国鉄職員を元気づけるため東海道新幹線計画の夢と希望を与え、その実現に邁進することにします。
加えて当時の高度経済成長を背景に主要幹線の電化とディーゼル化(無煙化)や複線化を推し進め、オンライン乗車券発売システムを導入して座席券販売の効率化を図るなどの施策を進めます。
新幹線工事にあたり、5年間で総額3千億円という予算問題に直面した十河は、国会で予算を通すために昭和34(1959)年に1,972億円で国会承認を受けます。
2 期目の総裁続投が決まった後に、残りを世界銀行から1億ドルの鉄道借款を申し入れます。内閣の政策方針が変わっても国は予算変更できず、新幹線計画は続行できるという内容を盛り込んだ政治的駆け引きに成功します。
そして2年後に8千万ドルの借款を受け、東海道新幹線工事は軌道に乗ります。
しかし、昭和37(1962)年に東京・荒川区の国鉄常磐線三河島駅で列車脱線多重衝突事故が発生し、死者160人、負傷者296人を出す大惨事が起きます。
この時は責任処理のため踏み留まりますが、新幹線の建設予算超過の責任を負う形で翌38年に3期目の総裁に選任されず、東海道新幹線の開通を見ることなく退任します。
昭和39(1964)年に催された東京駅での東海道新幹線の出発式に国鉄は十河を招待せず、十河は自宅でテレビが映し出す映像を眺めていたといいます。
しかし、後世になって十河の果たした役割が評価され「新幹線の父」と呼ばれるようになります。
新幹線の利用率が上がる一方で、これをマスコミが取り上げる時、「国鉄は新幹線の開通式に『新幹線の父』を招待しなかった」と報ずるようになったため、後々まで国鉄の蹉跌(さてつ)となったといいます。
* 田辺千代さんのコメントはすべて『日本のステンドグラス−その歴史と魅力』(伝統技法研究会編)から引用しています。同書は、平成16(2004)年から翌年にかけて行われた伝統技法研究会主催の田辺千代さんの講義を編集したものです。
ステンドグラスを見に行く 三菱財閥の豪奢な旧岩崎邸を飾った古いグラス(東京・池の端)
都心にあって現在、旧岩崎邸庭園として公開されている敷地も広大なのですが、明治11(1878)年に岩崎彌太郎(1835−1885年)が購入した当時は約15,000坪 あったといいますから、今あるのは当時の1/3ということになります。
この土地は江戸時代、越後高田藩の城主榊原家の中屋敷のあったところで、彌太郎は榊原家の屋敷を修理、改装して使っていたそうです。明治18(1885)年、彌太郎はこの茅町の屋敷で逝去します。
ここを後に三菱財閥の3代目総帥となる嫡男岩崎久彌((ひさや、1865−1955年)が相続します。
久彌は慶応義塾を卒業後、米国ペンシルベニア大学に留学し、明治24(1891)年に帰国してから副社長として三菱社に入社、2年後に社長に就任しています。
(北側正面にゴシック風の三連窓の上に大きなメダリオンがありますが、この頃はまだ肖像画などのレリーフが刻まれていません)
久彌28歳の時で、若くして三菱の総帥となります。
社長に就いてから長崎造船所の近代化や東京・丸の内地区の開発など事業の拡充を図る一方で、麒麟麦酒などの創業にも関わっています。
中でも丸の内の開発では、現在の丸の内オフィス街の原形となる周辺道路の整備、区画整理を行い「一丁倫敦」と呼ばれたレンガ造の貸しビルを数多く造り、その後の丸の内の発展の基礎を創りあげました。
(反対側の南面は1、2階とも列柱のある大きなベランダがあります。内外装とも全体を装飾性の強い英国17世紀のジャコビアン様式を基調としながら、南面のベランダはコンドルが得意としたコロニアル様式を採り入れているといいます。東側のサンルームは後年に増築されています)
社長に就任してから3年後の明治29(1896)年に、久彌は東京市下谷区茅町(現在は台東区池之端 1)の敷地内に岩崎家の本宅を建設します。
この敷地内にかつて20棟の建物があったといいます。現在遺っている建物は洋館、和館、蹴球室だけになっています。
洋館は明治29(1896)年に竣工し、岩崎家の迎賓館として使用されました。ジョサイア・コンドル(1852−1920年)が設計し、木造2階建、レンガ造の地下室付き、玄関部に塔屋、車寄せを施し、スレート葺きの建築面積531.5m² で外壁は下見板張りになっています。塔屋の高さは20mで、東西に40mあります。
ジョサイア・コンドルはイギリス出身の建築家で、明治9(1876)年に25歳の若さでお雇い外国人として5年契約で来日し、政府関連の建物の設計を数多く手がけた人です。
また、工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授として教鞭を執り、日本人建築家を育成しました。明治以後の日本建築界に名を残す辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵、佐立七次郎、妻木頼黄など多くの著名な建築家を育て上げました。
退官後は建設設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計しましたが、その多くが戦災などで失われてしまいました。
現存するものとしてこの旧岩崎邸洋館、撞球室のほかに旧島津家袖ケ崎邸(現・清泉女子大学本館)、旧古河虎之助邸(現・旧古河庭園大谷美術館)、旧綱町三井別邸(現・綱町三井倶楽部)、岩崎彌之助高輪邸(現・三菱関東閣)など数少なくなっています。
北面が正面で、平面四角形の車寄せの奥に正面玄関があります。ここにステンドグラスが嵌め込まれています。
外からの自然光を受けて、美しい薄緑、薄紫色が見る位置によって色が微妙に変わり幻想的な輝きを放っています。
欄間の半円と玄関扉のステンドグラスは、コンドルのデザインという説がありまが、これはどうでしょうか。
(階段室のステンドグラス)
というのも、コンドルが精力的にいろいろな建築様式を採り入れた図面を描き、調度類の細部にわたる意匠にも細かな配慮をし海外に発注しているのに比べ、ステンドグラスは簡素な幾何学模様のデザインです。
コンドルにしてこのような図案を描くでしょうか。
(階段室のステンドグラス)
それでは誰がこのステンドグラスを制作したのでしょうか。
コンドルが岩崎邸の設計図を描いていた明治29(1896)年は、日本でステンドグラスを造る職人といえば、宇野澤辰雄(1867−1911年)しか存在しません。
日本のステンドグラス制作の先駆者となる宇野澤辰雄がドイツで制作技術を体得して帰国したのが、明治23(1890)年です。
もう一人の先駆者・小川三知(1867−1928年)が11年の歳月を費やしてアメリカから帰るのが同44(1911)です。
ですからコンドルが海外に制作依頼していないとするならば、国内で制作できるのは宇野澤しかいないことになります。
それともこれも海外発注したのでしょうか、分かりません。
(久彌は洋館の西隣りに建てた和館で日常生活を送っています。和館に通じる西側出入り口にもステンドグラスがあります)
岩崎久彌は戦後、豪奢な岩崎家本宅を手放さなくてはならなくなります。
戦後の昭和22(1947)年にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、占領政策で日本の財閥を解体させます。
すなわちGHQは戦時中、東南アジアや太平洋地域で精力的な企業活動を行っていた三井、三菱などの財閥が「日本軍国主義を制度的に支援した」と認識していて、これを解体する事で軍国主義を根本的に壊滅できると考えていたといいます。
(この西側玄関は明治末期に改築増設されています。このステンドグラスは正面玄関などのものとはまったく違っています。明治39年に設立された宇野澤スティンド硝子工場が制作したのではないかと見られています)
岩崎久彌は大正5(1916)年に従弟の岩崎小弥太に社長の座を譲っていましたが、3人の息子と共に財閥家族に指定され、三菱傘下企業の全役職を辞任します。
そして、生涯の多くの時間を過ごした本邸を離れ、千葉県成田に移ります。そこで昭和30(1955)年、90歳で生涯を終えています。
(旧岩崎邸のステンドグラスは、いずれも日本のステンドグラスの初期の作品であることには間違いありません。大震災や戦時下の空襲の惨禍もくぐり抜け、1世紀の年月を経過してその輝きを失っていません)
岩崎久彌邸は戦後、最高裁判所司法研修所などとして使用されていましたが平成13(2001)年から東京都の管理になり「旧岩崎邸庭園」として一般公開されるようになりました
江東区清澄の清澄庭園は大正13(1924)年に、文京区本駒込の六義園(りくぎえん)は昭和13(1938)年に久彌が東京市に寄付したものです。
旧岩崎邸は見所が数多くある建物です。建築には当時の東京の年間予算と同じくらいの巨費が投じられたといいます。贅の限りを尽くした建物内部の室内装飾をいくつか見てもそれは分かります。
1階に久彌の書斎、客室、大食堂などがあり、2階は客室や集会室などで使用していました。多くの部屋や廊下の壁面は金唐革紙(きんからかわし)が貼られ華麗に輝いていたといいます。
金唐革紙、金唐紙は和紙に金、銀、錫などの金属箔を貼り、版木に当てて立体感のある紋様を出し彩色する手作りの高級壁紙です。金属箔の光沢と華麗な色彩が室内を絢爛豪華に彩る日本の伝統的工芸品です。
この金唐革紙、金唐紙を見ることができる建築物は限られていて、旧岩崎家住宅の他に旧日本郵船小樽支店(北海道小樽市)、旧林家住宅(長野県岡谷市)、移情閣〔孫文記念館〕(神戸市)などになります。
現在、旧岩崎家には当時の壁紙はありませんが、近年の修復工事で2階の2部屋に復元されていて見ることができます。
2階への階段は方向が3回変わる三折れの螺旋(らせん)階段で、四本柱と階段に彫られたアカンサスや唐草文様がいっそう豪華さを惹きたてています。
専門家の間で、そのデザインや色彩の特徴からミントン製のタイルではないかと言われていましたが、最近になってタイルの裏の刻印からミントン社製のヴィクトリアンタイルであることが確認されました。
ミントン社は英国の陶磁器メーカーで2代目経営者のハーバート・ミントン(1793-1858年)が生産性、芸術性を高め大きく発展します。中でも豪華な金彩食器を数々生み出し、ヴィクトリア女王から「世界で最も美しいボーンチャイナ」と賞賛され王室御用達となったそうです。
タイルでも豊富なデザインを生み出し多くのフアンを獲得したといいます。英国では教会などにはよく用いられているものの、個人宅では2代目ハーバト・ミントンの私邸とこの旧岩崎邸しかないそうです。
設計したコンドルが装飾材としてミントンのヴィクトリアンタイルがお気に入りだったといいます。
風雨にさらされるテラス一面に敷き詰められていますが、100年を遥かに超えて傷みがほとんどありません。
ヴィクトリアンタイルは目地なしでデザインを合わせ一枚一枚貼るためロスも多く出るのですが、旧岩崎邸のテラスは長さも幅もぴったりで特注したものと考えられるといいます。
洋館玄関や16ある暖炉の多くにもモザイクタイルが貼られています。これらの中にもミントン製の特注品ではないかと見られているものがあります。
ミントンは他社に吸収合併され、現在はタイルは作っていません。
洋館から少し離れたところに単独の撞球(どうきゅう)室があります。明治の時代に上流階級のゲームとして興じられたビリヤード室です。
洋館と撞球室は地下道で結ばれているそうですが、このトンネルにした意図が分かりません。
撞球室の内壁にも金唐革紙が貼られていたといいますが、今はその輝きを失って当時の面影もありません。
ここの出入り口にもステンドグラスが嵌め込まれているのですが、出入りも撮影も許可されませんので鑑賞することができません。
やむなく外側から撮ったのが、上の画像です。
* 館内の撮影は原則認められていませんので、注意が必要です。掲載画像は管理者の許諾をいただいています。
ステンドグラスを見に行く 戦後政治の裏舞台になった旧鳩山邸を飾った小川三知のグラス(東京・音羽)
護国寺方面から音羽通りを歩くと、左手の高台を望む歩道沿いに「鳩山会館」と書かれた門があります。この門をくぐり長い坂道のアプローチを上ります。両側は、桜の並木です。
上り切ったところにかつて「音羽御殿」と呼ばれた「旧鳩山一郎邸」が姿を現わします。
この洋館を建てたのは鳩山一郎(1883−1959年)で、後年総理大臣になり日本と旧ソ連との国交回復を実現した人物です。
脳梗塞の後遺症で体が不自由だった鳩山は、自邸を政治会合の場にしたことから戦後政治の裏舞台にもなりました。
老朽化した旧宅に替わって鳩山家の邸宅が文京区の音羽の丘に新築なったのが大正13 (1924)年です。
設計は大正・昭和初期を代表する建築家として知られる岡田信一郎(1883-1932年)です。
岡田は、明治生命館(1934年没後に竣工)、歌舞伎座(1924年竣工、建替えに伴い取り壊し)や琵琶湖ホテル(1934年没後に竣工、現・びわ湖大津館)なども設計しています。
鳩山と岡田は同じ明治16(1883)年の生まれで、旧制中学から第一高等学校、東大と進んだ竹馬の友の間柄だったといいます。
鳩山が建て替えのため、ある建築家に依頼したことを知った岡田は「お前が家を建てるのに、なぜ俺に相談しないか」と怒ったそうです。
鳩山はその建築家を断り、あらためて岡田に設計を依頼します。
岡田は東京が関東大震災で大きな被害を受けたこともあり、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造の堅牢な洋館にすることにし、設計から工事監理まで無償で仕事に当たったといいます。
この鳩山邸に数多くのステンドグラスがあります。ステンドグラスはすべて小川三知が制作したものです。
デザインは東京美術学校(現東京芸術大学)での三知の後輩になる大村友雄が協力したといいます。
玄関を入ると廊下があり、その先に階段が見えます。廊下の右手に第一応接間、その先に第二応接間が続きます。
第一応接間のステンドグラスは入った右手に暖炉があり、その後方の左右両側の窓にエンブレム調にしあげた図案のグラスが嵌め込まれています。
学芸員に訊ねると鳩山家の紋章だということです。アカンサスをはじめとした草花のデザインを金、銀、赤、青、緑、紫、黒など多彩な色で仕上げています。
第一、第二応接間からそれぞれ外の芝生へ出られるサンルームがあります。
部屋と部屋を仕切る大きな折れ戸を開け放つと、各応接間とサンルームのすべてが一つの部屋のように繋がる開放的な設計になっています。
応接間とサンルームを分ける欄間のステンドグラスが、外からの陽光に色鮮やかな輝きを見せます。
第一には様々な草花が描かれ、そのうちの1枚にスズメが、第二応接間は実を結んだナツメでしょうか、それともオリーブの実でしょうか、内1枚にレンジャクが枝に止まっています。
岡田は東京帝国大学(現東京大学)を卒業後、大阪中之島の中央公会堂コンペでその才能が認められ、和洋のデザインを問わず、歴史的な様式に従った建築を鉄筋コンクリートで建てることに定評があり、「様式の天才」と呼ばれました。
また、東京美術学校(現東京芸術大学)、早稲田大学で教壇に立ち、多くの後進建築家を育てています。
小川三知は静岡から上京し第一高等中学校に入学しますが、絵画への憧れは消えず東京美術学校が設立されると、明治23(1890)年に一高を中途退学して同校日本画科に入ります。
卒業後、図画教師として教壇に立ちますが、明治33(1900)年にアメリカへ留学します。
そこでステンドグラスと出合って大きな興味を持つようになり、各地の工房でその技法を習得し渡米11年後の同44(1911)年に帰国します。
帰国1作目として慶応義塾図書館からの依頼で、大正4(1915)年に制作完成させたステンドグラスが大変な評判になります。
岡田は東京美術学校で教えた三知が卓越したステンドグラスの技量を持っていることを確認し、その後自ら設計した建築物の室内装飾としてのステンドグラスを三知に制作依頼するようになります。
岡田はこの鳩山邸を設計した同じ大正13(1924)年に歌舞伎座の設計に当たっていますがここにも三知の作品がありますし、同15(1926)年の東京府美術館(現東京都美術館)、昭和3(1928)年の鎌倉国宝館などにも三知に制作を依頼しています。
バルコニーの屋根の中央に角もみごとな雄シカ、両側に取り付けられた漆喰細工のハトの塑像、バラの庭園に面した屋根に飾られた4羽のミミズク、テラスの金具にあるクジャクの紋様、そして三知が制作したステンドグラスにもハトをはじめとした様々な鳥たちが描かれています。
1階の内玄関の欄間にも19羽の群がるハトを描いたステンドグラスが嵌め込まれています。
鳩山会館の学芸員によれば、こうした邸内の野鳥の装飾は施主の鳩山一郎による要請ではなく、設計から建築監理までの一式を請け負った岡田の着想で発注したものだといいます。
そうだとすると岡田の遊び心も交じっているのかなと思っていましたら、日本のステンドグラス史研究家の田辺千代さんが近著『日本のステンドグラス明治・大正・昭和の名品』(白揚社刊)のなかで「設計者の岡田信一郎は、美術や歴史・宗教などに造詣が深く、絵画、古美術史料をもとに三知と相談しながら」 制作に当たったと記しています。
鳩山邸のステンドグラスのなかでも圧巻なのが階段室に設置された「五重塔」の大作でしょう。
夕暮れがそろそろ訪れようとしているのでしょうか。雲のかかった空はまだ明るいのですが、五重塔や向こうに見える山にも陽が陰り暗くなって来ています。
空には群れて飛ぶハトの姿が描かれ、今日一日を過ごしねぐらへ帰ろうとしているように見えます。
三知は、この1枚のステンドグラスの中に懐かしい日本の原風景を切り取って表現しているようです。
田辺さんは、「設計者の岡田信一郎がその美しさを愛でた法隆寺の塔をモデルに選んだことが、デザイン原図から推測される。五重塔にもそれぞれ個性があって、屋根の反り具合、勾欄、水煙、九輪等に違いがあり、岡田の法隆寺に寄せる思いやデザイン原図をよく調べ法隆寺にたどりついた」(『日本のステ ンドグラス 小川三知の世界』)と書いています。
そしてその後に「しかし、これはあくまで設計者、製作者の意匠上のヒントで、作品になった五重塔に固有名は要らない」とも語っています。
鳩山邸のステンドグラスは長い間、制作者が分かりませんでした。
これをデザイン帖など豊富な資料と技法の特徴から小川三知の作品であることを同定したのが、田辺さんです。
その過程で、鳩山家の紋章のステンドグラスにまったく別の人物が制作者サインを焼き付けていたことを見破ります。
後年、田辺さんはこの人物と会って尋ねると、弁明にならない言葉で取り繕いながら自らが制作した作品ではないことを認めたようです。
鳩山邸は一郎が亡くなってから荒廃が進んだことから、平成7(1995)年になって大規模な修復工事を行っています。
その際にステンドグラスの修復に当たった人物が偽装のサインを施したようです。
ステンドグラスに関わる仕事に携わっているのであれば、なんとも信じられない残念なことです。
ステンドグラスを見に行く 復元された慶応義塾の「ペンは剣よりも強し」のグラス(東京・三田)
小川三知(1867−1928年)は、アメリカでステンドグラスの技術を習得し明治44(1911)年に帰国します。足掛け11年の滞在でした。
これより4年前の明治40(1907)年、東京・三田にある慶応義塾は、創立50周年を迎えていました。その記念事業として図書館が建設され同45年に竣工しました。
赤レンガ造でゴシック様式の壮麗優美な図書館は、来館者の目を奪ったといいます。
この新築なった図書館の大窓にステンドクラスで飾ることになり、その制作が帰国して間もない三知の下に舞い込みます。
この原画を洋画家の和田英作(1874−1959年)が担当することになりました。
和田が描いたのは、封建主義とミリタリズムを象徴する鎧(よろい)をまとった武士が白馬から降り、塾章ペンを手にした西洋文明のシンボルの女神の前に額ずいている姿で女神の後方から開け放たれた扉を通して燦然と光が差し込むといった構図でした。
三知はアメリカから色ガラスを取り寄せ、原画に合わせた色を出すために二重、三重に重ね、原画に忠実で微妙な色を出すのに腐心します。
苦悶しながらも三知は大正4(1915)年にこのステンドグラスを完成させ、図書館中央階段の踊り場の大窓に嵌め込まれます。
目を見張る赤レンガ棟に陽の光を通して燦然と輝くステンドグラス、図書館を利用する学生たちが新たな文化の息吹に触れあう姿が彷彿と浮かんでくるではありませんか。
戦歴の悪化に伴い、学徒動員令が施行され学業半ばで戦地に駆り出され、若くして絶命する学生たちも数多く出ました。
そして、図書館も昭和20(1945)年5月、米軍の東京への焼夷弾攻撃による大空襲でキャンパス全体が業火に包まれ、このステンドクラスも焼け落ちてしまいました。
それから3カ月後、日本は終戦の日を迎えます。
破壊されたステンドグラスの後は、長い期間素通しガラスが嵌め込まれたままでした。
ここからは、慶応義塾のWebに掲載されている復元するまでの経過についての文章をそのまま転用します。
「自分が何とかしなければ」との思いに駆られた大竹は、昭和46(1971)年に復元の志を立てた。既に77歳の喜寿を迎えていた。和田の原画は保存されていたが時の経過に色あせており、カラー写真も存在しない。色の再現は困難を極めた。しかし大竹は、師の小川がガラスを取り寄せた米国の会社からガラスを取り寄せ、粘り強く丹念に修復に没頭した。
「復元と申しますか、むしろ復活とさえ呼びたいこの作業は、父にとりましては、ひとつには、恩師小川三知先生への、ステンドグラス復活のなによりの報告であり、なおひとつには、生涯をかけて歩み続けて参りました、この道の総決算の意味を持つものでした。」(息子で後継者の大竹勝弥氏/三田評論・昭和50年
1月号)
そして3年の工期も終わりに近づき、最後の色調調整の指示を作業員に与えた翌日の昭和49年10月10日、大竹龍蔵は突然この世を去ったのである。完成除幕式は、それから2カ月後の月命日、12月10日に行われた。復元された図書館のステンドグラスは、大竹の執念が実り、色あざやかに復活したのである。
というのが、復元されるまでのストーリーです。
日本のステンドグラス史研究の第一人者の田辺千代さんは「手が違えば仕上がりも違うのは仕方ないことですから、復元されたステインドグラスは三知のものとは全く違います。しかし、龍蔵が復元したことによって、小川三知の名前が消えずにすんだと私は思っています」と語っています。
また、「龍蔵は小川三知の弟子ということになっているそうですが、本当は弟子ではないんですね。彼の父は、支店が二つもあるような、大きな硝子商でした。龍蔵はその次男か三男です。三知のところにガラスを運ぶなどしてステインドグラスの技法を見るうちに、だんだん仕事を覚えていったのではないでしょうか」と指摘しています。
* 田辺千代さんのコメントはすべて『日本のステンドグラス−その歴史と魅力』(伝統技法研究会編)から引用しています。同書は、平成16(2004)年から翌年にかけて行われた伝統技法研究会主催の 田辺千代さんの講義を編集したものです。
ステンドグラスを見に行く ホタルが飛び交う散策路近くにある白鳥路ホテルの城下町の四季を描いたグラス(石川県金沢市)
金沢市内に緑陰ゆたかな散策路があります。
「白鳥路(はくちょうろ)」と呼ぶ大手堀から金沢城公園の横を通って兼六園に向かう路です。
樹木がつくる緑のトンネルをそぞろ歩くと、小さなせせらぎが流れていたり心地よい風が吹いてきたりして一息いれることができます。
夏になるとゲンジボタルとヘイケボタルが孵化して飛び回ります。市民ボランティアが、水路の掃除、天敵の駆除などを行っています。
白鳥路はもともと石川門と大手堀を結ぶ白鳥堀と呼ばれ水の豊かな堀でした。
堀に敵の侵入を察知するために水鳥を放していた事が白鳥路の由来で、昭和5(1930)年に整備されてから白鳥路と呼ばれるようになったということです。
この散策路の近くにシティホテル「白鳥路ホテル」があります。
平成17(2005)年に、大正ロマンの情緒漂うレトロなホテルを意識して館内をリニューアルしたそうです。
その際、ロビーをはじめショップ周辺などの大窓をステンドグラスで飾っています。
図案はいずれも城下町金沢の絵図を、加賀の四季に咲く花々と人々の姿を採り入れながら描いています。
ざっと数えただけでも17面ほどの窓に嵌められているでしょうか。
加賀の伝統工芸品の九谷焼や加賀友禅などの絢爛豪華さを思い起こさせるような、現代風にアレンジしたステンドグラスともいえます。
ステンドグラスの制作に当たった草間幸子(1956年〜)さんは、フランス国立高等工芸美術学校ステンドグラス科で伝統技法を学び、帰国後、アトリエ・クサマ設立し創作活動をするかたわら、ステンドグラスの伝統技法を伝え残す活動をしています。
この加賀百万石の地に暮らす人々と美しい自然の絵物語をお楽しみください。
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