レンガ積み職人が遺した建造物 〜 北海道特別編 秋色に映える赤レンガの建物(札幌市)
北海道のレンガ建造物やステンドグラスの取材でいつもお世話になっている江別市のY・Mさんからメールをいただきました。
北海道は各地で紅葉が市街地まで下りて来ていて、秋の美しい時季を迎えているとのことです。
そこにレンガと紅葉の切り口で撮影した画像が添付されていました。
あまりにみごとで一人楽しむのももったいないですので、アップしました。ご覧いただきたいと思います。
上の3枚は以前掲載した六花亭福住店の紅葉風景です。その際はレンガ壁を伝うツタが緑に被われていましたが、今は見る目にも鮮やかな秋色を放っています。
Y・Mさんは余暇を割いていつも事前に取材対象を調べていてくれます。こちらが限られた時間内に1件でも多く回れるようにとの心遣いからで、頼れるサポーターです。
今回も勤務地の札幌を中心に探索されているようです。その幾つかと紅葉が綾なす自然美をご鑑賞ください。
西岡水源池の周辺は公園になっていて、ここも紅葉の只中にあります。
これは同じ豊平区西岡にあるI家のリンゴ倉庫で、装飾もすばらしい見応えのある建造物です。
取材に出かける楽しみがまた一つ増えました。
鏝絵細工を探す旅 〜 天香と御仏たち(長野県茅野市)
「鏝絵 天香館」には、釈迦 、如来、菩薩など御仏に題材を取った作品が数多く展示されています。
天香が制作した作品は、古美術評論家の「梅花草堂主人」こと須磨弥吉郎が「人物があり、山水があり、花鳥がある」と言うように題材をいろいろなものに求めバラエティーです。
須磨は人物というカテゴリーに御仏たちを入れているようです。
天香がこうした作品を制作するにあたって、参考にした仏画集も数冊に及び保存展示されています。
善弘さんの話によると、天香の工房は「常に線香の匂いが立ちこめていた」といいます。
天香は制作した作品の出来を観察する時、新たな作品を制作する時、精神をフラットにして集中し客観的に見つめ直す時、香を焚いて気を鎮めたのかもしれません。
天香の習作は仏画のみでなく、七福神や賽河原など民間信仰にも対象を拡げています。
鏝絵のみでなく、塑像や木彫などの制作もしています。
須磨は、天香が長八の故郷・松崎を訪れ長八の作品に触れ仔細に研究した結果、「この改良は唯質を堅牢にしたばかりでなく、色彩を一層鮮明にした効果がある」と指摘しています。
画像から堅牢さは分かりにくいと思いますが、鮮明な色彩は分かるかと思います。
展示されているものの一部を小川善弘館長のご了解をいただき掲載しますので、お楽しみください。
須磨は「泥鏝の衣鉢」と題した随筆文の中で一つのエピソードを紹介しています。
「先年天香がその作品を文展に出そうとすると、生憎(あいにく)文展には左官科がないからと断られたのは寧ろ喜劇である」と、当時の画壇の遅れた体質を嘆いています。
文展とは、明治40(1907)年に創設された文部省美術展覧会の略称で、最初の官展になります。その後、帝展と名称を変え現在は日展(日本美術展覧会)がその系譜を継ぐ公募の美術展です(現在は官展ではありません)。
中央画壇や美術界に名を残したり注目を浴びなくても、須磨は天香の生き方と数々の作品に触れる中で、自ら満足できる道を一心不乱に貫き通す姿こそ伊豆の長八亡き後の鏝絵の世界をさらに発展させる第一人者として見ていたようです。
三途の川
天香の一生はある意味、孤高の生き方を歩んだと言えます。しかし、須磨が天香に「泥鏝の衣鉢」という賛辞の言葉を贈って、その生き様を評価する人が現れたことを天香は生前知って安らぎを覚えたのではないでしょうか。
やはり、画像と現物とでは作品の持つ迫力がなかなか伝わりません。
一堂に会する天香の作品に対面するのも良い機会かもしれません。「鏝絵 天香館」へ足を運んでみてはいかがでしょうか。
鏝絵細工を探す旅 〜 天香と初孫(長野県茅野市)
天香は40歳を過ぎてまもなく左官職の一線から退き、自宅の裏に工房を造り、鏝絵や塑像作りに専念します。
そんな天香に初孫がもたらされます。49歳の時です。男の子で、現在の「鏝絵 天香館」の館長・小川善弘さんです。
天香にとって初孫とあって愛おしくてならなかったようで、鏝絵制作の合間に、遊ぶ時間を惜しみなく費やします。
鏝絵の作品にも孫をあやす自身を写しとった作品を遺しています。
また、天香夫人が孫の善弘さんの手を引いて山に登り、瀑布見物をしている姿も作品にしています。
善弘さんが成長するにつれ日本は戦時色を強め、天香64歳の年、米国・ハワイの真珠湾への奇襲攻撃を敢行したことにより日本は第二次世界大戦に参入します。昭和15(1942)年で、善弘さんは13歳になっています。
戦況は当初の勢いが消えて憂色を深め、大本営発表とは別に日ごと庶民の生活もさまざまな面で忍耐を強いられるようになります。
こうした時、当時の青年たちがそうであったように善弘さんは受験年齢の16歳を待って広島・江田島の海軍兵学校を受験します。
兵学校は全国から優秀な青年が競って志願した超難関校としての伝統があり、卒業後は少尉候補生としての任官が約束されていました。
「一憶総動員」の時代、その家から海軍兵学校へ行くものが出たということは、“家門の誉れ”でもあったといいます。
しかし、善弘さんの兵学校合格・入校の話を聞いたとき、天香は特段喜びもせず、「お国のために頑張れ」とも言わなかったといいます。朴訥な天香の性分を現わしているようです。
そして、工房に入り一つの作品作りに専念したと言います。でき上がったのが、この「不動明王」です。
髪を七結の弁髪に編み、右眼で地、左眼で天を睨む天地眼、右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出す牙上下出という、凄まじいばかりの忿怒(ふんぬ)の姿をし、自らを火焔の中に身を置いてあらゆる煩悩を焼き尽くし、難行苦行に立ち向かう修行者を守護するという不動明王を天香は初めて制作します。
不動明王の忿怒の相は、我が子を見つめる父親としての慈しみ、つまり外面は厳しくても内心で慈しむ父愛の姿を表現したものであるとも言われます。
江田島に赴いた孫を思いやる気持ちを込めた天香の渾身の作とも見て取れます。
そして、額の下に窓を作り、「世界平和」の文字を小さく入れてあります。
この不動明王を特別、周囲に見せるというわけでもなく、天香は自宅奥の工房の一隅に置き、見つめていたようです。
やがて終戦を迎え、10日後に善弘さんは江田島から茅野市の自宅に戻ります。これといった仕事もないことから、善弘さんは天香の仕事を手伝い、おかめ面の制作に掛かります。
あの伊豆の長八作のおかめ面を模して、木型に漆喰をいれ型抜きして制作したといいます。
出来栄えも良かったことから好評で、戦後の荒んだ人々の気持ちを和らげたようです。
善弘さんによると、戦後の天香は風景を題材にした作品を好んで制作したといいます。
戦前、戦中にも庶民の生活の一コマを描いたものがなかったわけではありません。「ひと息」と題した作品です。
入江を望む畑地で仕事の合間に小休憩している風景ですが、沖行く艦船を見ている子どもは日の丸の小旗を振り、両手を上げています。休んでいるのはお年寄りと子供の母親でしょうか。茶請けも大したものが置かれていません。
下は戦後になって制作した農村風景です。明るい表情をみなぎらせた若い夫婦が田植え前の代掻き作業を行っています。
棚田の畔道では犬が喜ぶように掛け回っています。貧しくも平和な明るい世が訪れた喜びを鏝絵で鮮やかに描いています。
戦中、あの不動明王の鏝絵に「世界平和」と刻んだ世の中が、ようやく訪れて天香の喜びが伝わってくる作品といえるのではないでしょうか。
鏝絵細工を探す旅 〜 天香が制作した観世音菩薩(長野県茅野市)
茅野市塚原に平成14年に落慶した惣持院という高野山真言宗の寺院があります。その奥に年代を偲ばせる古い社があります。長野県宝になっている白岩観音堂です。
観音堂の元は永明寺山(標高1,120m)中の岩窟にあり、石窟中に出現した本尊の如意輪観音は諏訪七観音の一つとして信仰されてきたということです。
元禄年間(1600年代後半)に諏訪高島藩主の命によって塚原に移され、現在の観音堂は安永3(1774)年に再建されたものになります。
桁行三間・梁間三間・入母屋造りで軒唐破風の観音堂は立川流初代の立川和四郎富棟の作で、正面虹梁上に竜、向拝柱の木鼻の正面に唐獅子、側面に漠の彫刻をつけ、唐破風の懸魚に菊を、その奥の羽月板に鳳凰の見事な彫刻が刻まれていて、諏訪の匠の技を楽しむことができます。
惣持院の住職は自ら蒐集してきた立川流一門代々の作品や郷土作家の作品を本堂の一角に「ギャラリー宝珠閣」を開設し、寺宝の数々を展示しています。
その中に天香が制作した観世音菩薩の塑像があります。
菩薩とは、将来仏になることが約束されているものの今は修行中であり、この世で人々をはじめ生きとし生けるものすべてを救うために勤めている人たちを菩薩とといい、観音はその菩薩の中の一人です。
観音は観世音の略称で、衆生(しゅじよう)の声を聞き、その求めに応じて救いの手をさしのべる慈悲深い菩薩として多く人の信仰対象となっています。
天香が制作した作品を見ると、観世音菩薩を題材にしたものが多くあることに気づきます。天香作の観音像の中で唯一の塑像になります。
天香が作った観世音菩薩は、おしなべて穏やかな表情、温かく見守るような眼差し、衆生が菩薩に願掛けして思いを果たす上で、こうした穏やかな菩薩を前にすると、自ずと心もすっきり晴れた思いになるのではないでしょうか。
眉間(みけん)に白毫(びゃくごう)、装身具としての瓔珞(ようらく)を着け右手に経文の巻物を持ち半迦しています。
天香は信仰心が強く、制作した作品の中にも多くの御仏の像があり「鏝絵 天香館」に展示されています。
鏝絵細工を探す旅 〜 天香が壁に描いた大黒天と鶴亀の吉祥絵(長野県茅野市)
今泉善吉の下での漆喰細工の修業を終えて故郷・ 茅野に戻った天香は左官の仕事に勤しみます。
そのかたわら鏝絵や塑像の制作にも多大な時間をかけて修養に励みます。
天香が土蔵の壁を塗り、請け負った仕事の御礼として仕上げた鏝絵で現存するものは限られています。
数少ない一つに、茅野市塩沢の道路から奥まった場所に建つM家の農家蔵の妻に描いた見事な大黒天と鶴亀の鏝絵が遺っています。
蔵の北側の妻に米俵に乗り大きな袋を担いだ大黒天が片手で小槌を振って、小判を打ち出しているユーモラスな絵で、立体感を出すために袋に陰影をつけたり漆喰を細工全体に厚塗りしています。
さらに米俵の網目模様なども丁寧に描いています。
南面の妻に4匹の亀が岩礁に乗っている姿を牛窓に描き、その上を2羽の鶴が舞い降りようとしています。
小窓の上に花を盛った花籠が描かれている吉祥画です。いろいろな小道具を駆使してこれらを模っています。
この吉祥画の詳しい制作年は不明ですが、天香が今泉善吉の下での修業を終えて、明治43(1910)年頃には故郷・茅野に戻っていますので、その頃の作と推測できます。
ですから、制作後100年を経ていますが野外にあっても退色、傷みも目立ちません。
天香が「一生稽古」として励んだテーマは、須磨によると「もっと堅牢な質への改造」で、「漆を使う秘法」にあるといいます。この秘法の内容については、定かでありません。
天香は相当に腕の立つ左官職人でもあったようで、東京・帝国劇場の天井壁画、千葉県庁、新潟市役所などの内外壁を請負っています。
また京都の京都七条駅の御便殿の室内装飾も手掛けています。この御便殿は大正天皇が即位のため京都を訪れた際に、休憩されるために造られた建物です。
これらの建物は震災、戦災あるいは建て替えに伴う解体で失われ、天香の漆喰細工も現在は見ることができません。
しかし、新潟市からの賞詞と千葉県庁の仕事の合間に余技として制作した「馬のレリーフ」(最下段の2枚の画像)が遺っていて、天香がこれらの仕事に関わったことを証しています。
天香は40代で左官の仕事から離れ、自宅裏に工房を造り玄関に「泥工芸術研究所」の小さな看板を掲げ、いよいよ本格的な漆喰細工の制作と研究に携わるようになります。
天香の孫にあたる小川善弘さん(「鏝絵 天香館」館長)は、「日がな一日、鏝絵や塑像の制作に励み常に修正補修を繰り返して、研究を重ねていましたね」と、幼き日に見た後ろ姿を述懐しています。
その傍ら「書画骨董にも目を通し、いろいろなものから学ぶ姿勢を崩さなかったように思います。やって来る文人墨客と呼ばれる粋な人たちとも言葉を交わし、作品の出来栄えの評に耳を貸していました」と、晩年の姿を語っています。
天香は弟子を取らなかったものの後進に鏝絵制作の指導をしたり、講習会の講師として招かれたりしています。
「一生稽古」を励みとして制作に当たりでき上がった作品を工房に並べ、時間をかけてはそれらをじっくり眺め考え込んでいる天香の姿を、善弘さんは何度も目にしているそうです。
小川家では家計をやりくりするために天香夫人が金物店を商い、天香の制作活動を支えていたようです。
新潟市役所から天香(本名 善彌)に贈られた賞詞(鏝絵 天香館蔵)
天香は千葉県庁貴賓室を飾る唐草文様の漆喰装飾を担当します。その仕事の合間に作って仲間に披露した鏝絵レリーフ(鏝絵 天香館蔵)
鏝絵細工を探す旅 〜 小川天香の献額「山吹の里」(長野県茅野市)
茅野市内を上川と宮川の2本の大きな川が流れていますが、市域の西側を宮川が走っています。宮川の近くに小さな社(やしろ)で、稲荷神社があります。
この社の縁起を記したものがありませんので、詳しいことは分かりません。
古い本殿が北を向いて建ち、北風を遮るかのように大きな社務所があります。
この社務所の庇(ひさし)に献額がかかっています。
小川天香が描いた鏝絵の献額で、明治34(1901)年2月初午(はつうま)の日に奉納されています。初午とは2月の最初の午の日を言い、稲荷社では初午祭を行い初午詣する参詣者が訪れます。
稲荷社の本社である伏見稲荷神社の祭神が伊奈利山へ降りた日が初午の日であったことから、全国の稲荷社で祀るようになったといいます。
絵柄は蓑傘をつけた武将の前で、一人の女が額ずき右手に山吹の花を一輪差し出しています。
となると、「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の古歌でおなじみの太田道灌(どうかん)にまつわる山吹伝説を描いたものになります。
太田道灌は江戸城を築城したことで知られる歴史上の人物ですが、この山吹伝説については、こちらに詳しく載っています。
小川善彌(天香の本名)は数え15歳になった明治26(1893)年に、近くの左官・金子清之丞に弟子入りします。鏝絵の名工・入江長八はこの4年前の明治22(1889)年に没しています。
長八の名声は信州の片田舎で左官を学ぶ善彌にも届き、22歳になった春、長八の故郷である伊豆・松崎を訪れ多くの遺作や名工を生んだ土地の空気に触れます。
善彌は、その技法に魅せられ自らの技量を磨くことを決心し、まもなく「駿府(今の静岡市)の鶴堂」として当時、名を馳せていた森田多十郎(号 鶴堂、1857−1934年)のもとで学びます。
『伊豆の長八・駿府の鶴堂 〜漆喰鏝絵 天下の名工〜』(㈶静岡県文化財団刊)の中で著者の安本 收さんは「翌(明治)三十九年、(鶴堂は)漆喰彫刻の塾として『左官彫刻工友塾』を作り後進の指導に当たった。塾に参加し漆喰彫刻の指導を受けたのは息子の太津蔵を初め、松下忠蔵、加藤房吉、白鳥広三郎、鷲津平三郎、山川元次郎、松浦岩太郎、長谷川徳太郎の八名だった。この外、巡業や蓬莱楼壁画施工などに従った弟子として、伊藤金平、鈴木元吉、小川善彌などがいた」と善彌の名を記述しています。
ここで言う「巡業」とは、当時、鏝絵作品を持って各地を回ってその展示販売を行う興業をいいます。
また「蓬莱楼」は、旧安倍川町(現静岡市葵区)にあった大規模な遊郭で、ここの主人・手塚忠兵衛が鶴堂のパトロンであったことから数多くの壁画鏝絵や塑像を制作し、この蓬莱楼を飾ったということですが、昭和20(1945)年6月の静岡大空襲で全焼し、鏝絵額の一部を残して灰塵に帰しています。
しかし善彌にとって、鶴堂の下での修業生活は目指していたものとは違って必ずしも充足感が得られなかったようで、じきに故郷に戻ります。
後年、周囲にも静岡でのことはほとんど語らなかったといいます。
長八への思いはいよいよ断ちがたく、帰郷した善彌は長八の薫陶を受けた直系の鏝絵師に就いて学ぶことを決意し、一年後に上京し京橋鍛冶町に住んでいた長八の高弟・今泉善吉に弟子入りします。
まだ鉄道も新宿から甲府までしか通じていなかったころで、歩いて峠越えをし甲府まで出たということです。
善彌は、雅号として「天香」を用い、制作した作品に落款を押印していますが、もう一つの雅号を用いた時期がありました。「鶴泉」の雅号で、現存するものとしてはこの山吹の図に押印しています。
鶴泉は、鶴堂の雅号から一字をもらったものではないかと言うのが、一般的な見方です。
この山吹の図を制作して3カ月後に、諏訪大社上社本宮に「近江のお兼」のエピソードを描いたもう一枚の献額を奉納しています。
この時は、実名の小川善彌の署名をしていて、すでに鶴泉の雅号を使用していません。
この天香の山吹作品は制作献納されてから110年を有に超えて長い間、陽の光や風雨に当たって来ていますが、ほとんどと言っていいくらい退色していません。
それは天香が研究し編みだした技法が色褪せを防いでいるといえます。その技法とは…。それについて次回以降に書きたいと思います。
鏝絵細工を探す旅 〜 天香が一生を通して研究したもの(長野県茅野市)
天香が常々「『一生勉強』『研究の一生』を志したから、作品は一点も売らない。…… 技法だけでは駄目である。…… 長八から受け継いだこの技法を生かして、自分独特の佳い作品をこれから試したい」と語った「自分独特の佳い作品」とは何だったのでしょうか。
天香は日記をつけませんでしたし、記録に残るような記述も残していません。自ら制作した作品にも、献額したもの以外は制作年代などを記しませんでした。
また、天香は弟子を取りませんでしたので、目ざしたものを受け継いだものもいません。
例えば伊豆の長八は、制作した鏝絵や塑像の裏や底、あるいはそれらを容れる箱などに日付けを入れています。
ですから年代ごとに制作した年が分かり、作品の流れ、作風の変遷などが分かります。
しかし、天香の作品はこうした作風の変化ばかりでなく、「自分独特の佳い作品」とは何を指すのかが分かりません。
須磨はそれについて、天香が22歳の春に初めて長八の作品に触れ「もっと堅牢な質への改造を心がける」ようになったと解き明かします。
「天香のものは手でこすってもビクともしない。漆を使うことは確実らしいが、その秘法についてはまだ極め得ない。要するに、この技法は今天香一人の手に残ってる」と、言いきっています。
そして「この改良は唯質を堅牢にした許りでなく色彩を一層鮮明にした効果」を上げたと語ります。
この研究に「名利も眼中にない」、「己を空しゅうして芸道に精進している」と敬意を込めて綴っています。
確かに外壁に遺した天香の作品は、100年を経ても、強い日差しや風雨に当たりながらも色鮮やかさを失わずひび割れや剥落も見受けられません。堅牢です。
鏝絵細工を探す旅 〜 天香が世に知られるまで(長野県茅野市)
天香の作品と技量を初めて世に紹介したのは、古美術評論家の須磨弥吉郎(1892−1970年)でした。
須磨弥吉郎は戦前から戦中にかけて外交官として中国・広東の総領事などに任じ、戦後は一時、国会議員も務めましたが、その後、美術評論の道に転じ「梅花草堂主人」のペンネームで美術誌に執筆していました。
須磨が美術誌『茶わん』に執筆した「泥鏝の衣鉢 小川天香」と題した随筆で、天香との出会いから二人の交遊を通して感じ取った天香の制作に臨む姿勢について書き記しています。
蛇足ですが、タイトルの「泥鏝(でいまん)の衣鉢(いはつ)」とは、泥は漆喰、鏝は仕事道具のコテですので、この場合、漆喰細工や鏝絵を指していますし、衣鉢は先人(天香の場合、伊豆の長八)の残したものを受け継ぐ奥義と言う意味になります。
上の3点は、「寒牡丹」
この中で、須磨が天香と初めて出会ったのが戦後間もない昭和22(1947)年の夏だったといいます。
洋画家の小堀四郎(1902−1998年)と連れだって蓼科にある小堀の別荘へ行くため、須磨たちは中央線茅野駅に降り立ちます。しかし、蓼科高原行きのバスが発つまではかなり時間があります。
二人が時間潰しに周辺をぶらっと散策していた時、須磨は「泥工芸術研究所」の小さな看板を目にします。
「こんにちは」「はい、お上がりなして」
須磨は天香の第一印象を「茫洋とした印象の、七十格好で、身体のガッシリした無髯の老翁が、この土地としては愛想よく、わたし達を迎えた」と記しています。
須磨が最初に目にしたのが「竪二尺横四尺程の額に恵比寿、大黒を大まかに浮彫りしたもの」でした。
上の3点は「椿と黄びたき」
「この額は何ですか」
「それに、先ず眼をつけられるんでは、素人ではないね」と、天香は破顔一笑します。
そして天香は、自作品を並べている客間に二人を招じ入れます。須磨はここで「高くかけられている『おかめ』の面がズバ抜けて佳い」のに、眼がゆきます。
(須磨が感嘆した長八作の「おかめ」。現在は所在不明になっています)
「これは、いつ頃の作ですか」
「イヤ、これは私の心の師匠である伊豆の長八の傑作です」
上とは別の長八作の「おかめ」(鏝絵 天香館蔵)
このとき天香は、「わたくしが先ず長八の作品に眼をつけたのを羞かみの交じった驚き」の表情を浮かべたと、須磨はいいます。
客間に「百数十点も列べられていた」天香の作品についても、二人は感嘆します。「人物があり、山水があり、花鳥がある。何れも鏝一つの芸術である」と、強い感銘を受けます。
「梅に鶯」
天香は、「こんなきたないものがわかるようではただの人ぢゃない。芸術は唯きれいではいけない。私も七十年の一生を研究に費やして来てかそれだけは呑みこんだ。未だ然し子供です。これからが、本当の勉強でさ」
次いで「『一生勉強』『研究の一生』を志したから、作品は一点も売らない。この頃は進駐軍の人々も時々来ては所望するのもあったが、それでも作品は手離さない。技法だけでは駄目である。長八から受け継いだこの技法を生かして、自分独特の佳い作品をこれから試したい」と語ります。
須磨は「七十年といへば高齢である。七十年一日の如く、作品と睨み合って研究の心に燃えてることは美しい。子供のように見えた翁の初印象は正にその芸術精進の心のあらわれだったのだ。わたくし達はその心構えに惹きつけられた」と記します。
天香は、須磨と知り合った翌年の昭和23(1948)年に上京し、須磨のもとを訪れる一方、ちょうど開催されていた総合美術展に3日間通って研究に専念します。
「群鯉乱舞」
善弘さんによると「この頃は、ガンで体調は決して良くなかったはずです」といいます。この2年後、天香は逝きます。
(須磨弥吉郎が天香を世に知らしめた一文が掲載された『茶わん』)
命の燃え尽きるまで自らに課した研究テーマを追い求めた、みごとな生涯だったといえます。
鏝絵細工を探す旅 〜 「天香館」と巨大鏝絵(長野県茅野市)
茅野市が生んだ鏝絵の名工・小川天香(1878−1950年)の作品を一堂に集めた「鏝絵 天香館」が、この春オープンしました。
天香の孫の小川善弘さんが収蔵している作品を一般公開するため、自費で美術館を建てたもので館長を務めています。
館の入り口の上に、「一生稽古」の四文字熟語が飾られています。天香はこの言葉を座右の銘とし制作に励み、自ら作った作品の中でも気に入ったものにこの落款を押しました。
館内には額装された鏝絵、塑像を中心に80点余りを常設展示しています。収蔵作品は130点余りあることから、折を見て展示替えなども考えているといいます。
館に入ってすぐに目を引くのは約3m×約1.5mはあろうかという「魚藍(ぎょらん)観音」の大鏝絵です。
かつて上諏訪温泉の老舗旅館に掲げられていたものですが、改装工事に伴って解体されることを知り関係者が保存のために奔走し、取り壊しから免れたという経緯があります。
観音菩薩は、あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという現世利益的な信仰が強く、十一面観音のように多くの顔を持ったり千手観音のように沢山の手を持つ姿で表されることが多いのですが、魚藍観音菩薩は三十三観音の一つで、一面二臂(いちめんにひ)すなわち顔が1つと腕が2本の姿で表されます。
魚籃(魚を入れる籠)を持つものや、大きな魚の背に立っている姿で描かれますが、天香は鯉に乗った魚藍観音を描いています。
石像や木彫、あるいは仏画などで魚藍観音を目にすることがありますが、おそらく鏝絵で魚藍観音を描いたのは、天香だけではないでしょうか。
天香が社寺に奉納した献額については、これまでに2度(諏訪大社、茅野市・頼岳寺)取り上げました。
こうした奉納したものは別として、天香は制作した大部分の作品を自ら所蔵し外部に販売するようなことはしなかったといいます。
それは若い頃に伊豆の長八の故郷松崎町で見た長八作品の技巧に感嘆する一方で、ともすると剥落してしまうという脆さがあることが気になり、生涯を通して堅牢な漆喰細工の制作を目ざすという信念に由来しているようです。
このため所蔵した作品は、常に修正補訂して研究を重ねました。
天香のその考えが自らの作品の散逸を防ぎ、結果として「鏝絵 天香館」で優れた作品の数々に、一堂に会する形で鑑賞できることにつながったともいえます。
*「鏝絵 天香館」のWebサイトは、こちらです。
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