2015.01.08 Thursday

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    2012.10.19 Friday

    レンガ積み職人が遺した建造物~信州編   プラットホームの基礎と給水サイロ(松本市、軽井沢町)

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      今回の「レンガ積み職人…(信州編)」連載の最後に、明治時代に造られた駅舎に関わるレンガ建造物を二つ取り上げます。


      JR篠ノ井線は塩尻駅(塩尻市)と篠ノ井駅(長野市)を結ぶ路線ですが、長野県中部の中心都市・松本市と県庁所在地の長野市を連絡しています。



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      篠ノ井線は明治33(1900)年に篠ノ井−西条(筑北村)間が、2年後の35年に西条−松本間、さらにその半年後に松本−塩尻間が開通し営業を始めました。


      松本−塩尻間にある村井駅(松本市)は、この時に新設開業した古い歴史のある駅の一つです。



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      この村井駅のプラットホームの基礎部分に、開業当時に造られたレンガ積みホームの名残りを見ることができます。


      ホームの高さは運行車両の移り変わりなどで、かさ上げされたり改築されていますので、残っているのは地上部から40cm前後です。


      かつては貨物ターミナル駅としての役割もあったことからホームは他の駅と比べて80mと長く造られていて、この長いホームのかなりの部分にこの遺構が残っています。



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      現在は石油類運送を除いて貨物列車は廃止になりましたが、貨物用の側線は今も残り、かつて木材や生糸、あるいは石炭、肥料、繭などの受け入れで賑わった往時の面影を偲ばせます。

      プラットホームは、島式1面2線になっています。(島式1面については、こちらをご覧ください)

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      軽井沢駅は平成9(1997)年までは、高崎駅(群馬県)と直江津(新潟県)を結んだJR信越本線の途中駅でした。


      北陸新幹線が長野駅まで開業、これに伴って信越本線は並行在来線となり横川駅(群馬県)−軽井沢駅間が廃線となりました。


      それまでの信越本線は経営も分離され、軽井沢駅−篠ノ井駅間は第3セクターの「しなの鉄道」が経営主体となり運行するようになりました。



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      軽井沢駅は新幹線向けの橋上駅として生まれ変わり、旧駅舎は取り壊されました。


      新駅舎開業後に明治期の姿を復元した(旧)軽井沢駅舎記念館が建てられ、信越本線(横川−軽井沢間は碓氷鉄道、横軽鉄道とも呼ばれていました)当時の史料の保存、展示をしています。


      その一角にレンガのモニュメントがあります。



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      旧信越本線の横川−軽井沢間の碓氷峠は、旧国鉄線の中でも線路勾配が最も急であるため我が国でも唯一のアブト式鉄道として開業しました。


      アプト式鉄道というのは、レールの中央にラックレール(歯型軌条)を敷き、動力車の床下のピニオン(歯車)を噛み合わせて上り下りするシステムです。



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      当初この区間を走っていたのは蒸気機関車でした。アブト式蒸気機関車に給水するため、軽井沢、横川両駅に給水施設が造られました。


      軽井沢駅に造られたのがレンガ製のサイロですが、長野新幹線開設にともなって取り壊され現存しません。その一部がモニュメントとして残されたというわけです。



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      難工事の末に開通した軽井沢−横川間でしたが、蒸気機関車が吐き出す煤煙が連続して26あるトンネル内にこもり機関士の健康被害が深刻になったため、この区間を電化することになります。日本の鉄道では初めての電化で、明治45(1912)年のことでした。


      下は、電化第1号として使用されたEC40(10000形)で、軽井沢駅舎記念館に静態保存されています。


      鉄道線路は、普通は30/1000(=30パーミル、1000mごとに30m上ります)ですが、30‰でもかなりの勾配線区となります。信越本線の碓氷峠は、66.7‰の全国の路線の中でも最も急勾配の線区でした。


      このため日本の鉄道技術の上でさまざまな対策が採用され運転された鉄道車両にも、この区間のために専用に設計されたものが数多くあり、EC40もその一つになります。



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      電化により碓氷線の所要時間は80分から40分に半減して輸送力も増強されましたが、輸送の難所であることは変わりませんでした。


      強力電気機関車EF63形による粘着運転(動輪のみによる運転)に切り替えて、昭和38(1963)年に70余年続いたアプト式は廃止となりました。



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      この碓氷峠にアブト式鉄道を敷設するにあたって、トンネル・橋梁・付属建物に膨大な量のレンガを使用しました。例えば、通称メガネ橋と呼ばれる第3橋梁では200万個使われています。この大量の煉瓦は既設の煉瓦工場では応じきれず、軽井沢・塩沢にレンガ工場を新設して賄ったといいます。


      このレンガサイロも新設工場で製造したレンガを用いたといわれています。大正11(1922)年にアブト式蒸気機関車が廃止されてからは、脚台部分に屋根を葺き、倉庫として使用されていました。



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      上の画像は『日本煉瓦製造100年史』に載っている取り壊される前のレンガサイロの姿です。高さ3.5m、直径5m、厚さ50cmの円筒形で使用する水を上部の水桶に蓄え、碓氷峠を喘ぎながら上って来た機関車に給水していました。


      明治からの鉄道遺構の一部をモニュメントとして保存しているのですが、新幹線駅が新設されることになると、かつての遺構が次々と解体されるのは何とも寂しいところです。


      長野新幹線開業に先立ち、長野駅構内の歴史あるレンガ造の工場が取り壊されてしまいましたし、北陸新幹線の金沢延伸でも糸魚川駅構内の機関庫が取り壊され新幹線駅の着工が進んでいます。価値ある近代化遺産の保存としてなんとかならないものでしょうか。



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      *『レンガ積み職人が遺した建造物 信州編』を一度終了します。しばらくお休みしまして他県のレンガ遺構の蒐集に向かおうと思います。


      今後はある程度まとまった段階でこれまでのように連載形式をとる場合と、単発的に掲載する形もとりながら続けようと考えています。今後とも、どうぞご覧ください。




      2012.10.18 Thursday

      レンガ周辺材の景色   諏訪地方のスクラッチタイル建造物

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        スクラッチタイルは、タイルの表面を櫛引きして平行の溝を作りそれを焼成した粘土タイルで、近代建築物の外壁に用いられています。

         

        諏訪市にある壁面にスクラッチタイルを貼った建て物があります。シンボリックな大規模洋館としての風格を漂わせる片倉館(諏訪市湖岸通り4丁目)です。


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        本館の車寄せとスクラッチタイルが落ち着いた雰囲気を醸しだしています。


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        ファサードに描かれた洋風鏝絵(漆喰細工)とも、うまくマッチングしています。


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        片倉館については、こちらもご覧下さい。


        このほかにも、諏訪地方には古いスクラッチタイルを貼った建造物がいろいろあります。


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        ガス会社・丸柳大津屋の車庫(諏訪2丁目)


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        諏訪2丁目にある信州味噌工業協同組合事務所


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        スクラッチタイルと窯業タイルを巧みに組み合わせ色と柄のアクセントをつけています。


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        茶屋小口商店は、茶舗ではなく飼料・肥料の専門店であることが、看板から分かります。


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        大窓が6カ所あり、スクラッチタイル張りの壁面とうまく溶け込んだ建築デザインとなっています。


                  ……………  ……………  ……………  ……………


        1910年代から20年代 にかけて製糸業の中心地として栄え、戦後は「東洋のスイス」と呼ばれ、時計やカメラなどの精密機械工業が地域の産業となっている岡谷市。


        製糸産業が繁栄を誇っていた昭和11(1936)年、それまでの 諏訪郡平野村が町制を飛び越して市制施行し、岡谷市になりました。村から市へ移行したのは、長野県では唯一で、全国でも10例のみといいます。


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        スクラッチタイルが施された市庁舎が、岡谷市幸町8丁目に残っています。


        この庁舎は製糸業で成功した篤志家が建設して、そっくり寄贈したといいます。製糸家の財力に驚かされるばかりです。


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        昭和62(1987)年まで市庁舎として使われていましたが、現在は諏訪地区広域消防本部として使用されています。また、平成17年に国登録文化財になっています。




        2012.10.17 Wednesday

        レンガ周辺材の景色   松本市のスクラッチタイル建造物

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          遠目から見ると、赤レンガ建造物と見まがうものにスクラッチタイルを貼ったものがあります。


          スクラッチタイルは張付化粧レンガではなく、レンガの表部分にスクラッチ(引っ掻き)模様、すなわち表面を櫛引きして細い溝を刻んで焼成した粘土タイルです。レンガ積みからタイル張りに変わる過渡期の建材といえます。


          松本市中央4丁目に「カタクラモール」というショッピングセンターがあります。その一角に「カフラス」という看板のある鉄筋コンクリート3階建てのレトロな建物があります。外観はレンガのようにも見えますが、スクラッチタイルで仕上げてあります。


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          この建物は片倉財閥の名で知られる片倉製糸紡績(後の片倉工業)が昭和4(1929)年に建てた旧工場施設です。


          明治から大正期にかけて日本の主力輸出品だった生糸の製造を行い、松本の中心市街地も製糸業で栄えていた当時のものです。


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          戦前の日本経済を危機的な状況に陥れた昭和2(1927)年の恐慌後、製糸業は衰退の一途をたどりました。


          隆盛を誇った同工場も昭和 40(1965)年に生産を中止し、取り壊しが進み、跡地にホテルやショッピングセンターができましたが、再開発のためスクラッチタイルの歴史ある建て物も取り壊し計画が進んでいるということです。



          大手2丁目にある山屋御飴所。ここは寛文12(1672)年に創業した飴の製造、小売する専門店です。建物は昭和8(1933)年、3代前の当主の時代に建て替えられています。


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          外壁はスクラッチタイルが施されています。店の前に掲げられている明治18 (1885)年製の看板とうまく融合しています。


           

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          スクラッチタイルの建造物は、他にも残っています。

           


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          大手3丁目の旧全国電気通信労働組合松本分会(NTT東日本松本営業所)は、昭和初期に建設されています。



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          日本で最初にスクラッチタイルを使用したのは、関東大震災後の大正12(1923)年に建設された帝国ホテルで、レンガより耐震性があることから、その後、昭和の前期にかけて流行したと言われています。



          かつては松本市の中心地だった上土(あげつち)地区。現在、下町会館として街づくりや観光案内の発信基地としての役割を果たしていますが、元はハイカラな化粧品店として建てられました。


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          赤レンガを使った造りの建物のようにも見えますが、スクラッチタイルを貼ったものです。


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          長野県の名門校・松本深志高校。その前身は明治9(1876)年に遡りますが、松本中学時代の昭和10(1935)年に松本城の敷地内から現在地に移転しています。


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          現存する昭和8(1933)年に建てられた第一棟は、初期のコンクリート造りの学校建築です。近世ゴシック様式の3階建てで、東京帝国大学安田講堂(現東京大学大講堂)を手本にしたとされます。

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          尖った柱の形や尖頭状の正面玄関のアーチなどの意匠に特徴があります。外壁は豪華なスクラッチタイルが張られています。


          第一棟と講堂は、平成15(2003)年、国登録有形文化財となっています。





          2012.10.16 Tuesday

          レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編   荷馬車や軌道電車が通った渡河橋(辰野町)

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            国道153号線は 、名古屋市を起点とし塩尻市を終点とする一般国道ですが、辰野町羽場で天竜川支流の北の沢川と交差し、道路橋が架かっています。「北の沢渡河橋」で、アーチは1カ所ですが地元では古くから「めがね橋」と呼んできました。


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            道路の盛り土下に、橋台と側壁が石造、アーチ部と内部をレンガ造しています。明治21(1883)年〜26年に建造された橋梁で、橋長6.4m、幅員29mの暗渠になっています。


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            改修当時は三州街道、あるいは伊那街道とも呼ばれ、信州側からいえば塩尻宿から分かれ伊那谷を下り、杣路峠を経て三河足助を経由し岡崎に至る道でした。


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            北の沢川を通過する街道は、深い谷を下りて遠回りであり、きわめて不便だったといいます。そのためこの時の改修は、谷を埋め立てて道を直線化する工事が行われました。



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            当時の生活物資の運搬や、旅の手段は馬に頼っていました。馬は、宿で馬を乗り継ぐ伝馬と、街道を通じて馬を変えない中馬方式があり、三州街道は運賃と所用時間が短い中馬が主流だったといいます。


            改修によって荷馬が通行できるようになりました。



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            明治42(1909)年になると、伊那谷の有力者たちが長野県最初の私鉄「伊那電車軌道」を開業し、2年後には辰野−伊那間まで延伸します。


            軌道ですので道路に敷設される路面電車のような車両で、改修によってできためがね橋の上を走っていたという記録があります。



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            めがね橋は、大正14(1923)年に1200Vの架線電動車が通ることになり、電車用の軌道を設置するため増設しています。上流側に1.3メートルほど継ぎ足され、トンネル内にも増設した跡が残っています。


            北の沢渡河橋は現在、の登録有形文化財になり整備保存されています。





            2012.10.16 Tuesday

            レンガ積み職人が遺した建造物~信州編   戦闘訓練兵の養成をした旧伊那飛行場とレンガ製弾薬庫の跡(伊那市)

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              太平洋戦時中の昭和18(1943)年、軍部は伊那市上の原に「二つのアルプスに挟まれた防空的立地条件」、つまり敵側に発見されにくいとの理由で、旧陸軍伊那飛行場(正式名称は、熊谷陸軍飛行学校伊那分教場)を造成しました。


              戦局が苦境の道をたどる中、熊谷陸軍飛行学校が空襲にさらされること避けるため、伊那に“疎開”させる目的で造成させたものです。


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              造成工事に、近在の住民、旧制中学生や強制連行した朝鮮人などを駆り出し、着工から1年で完成させます。


              民間から接収した畑や林を強制接収した150haの敷地内に、長さ1300m、幅員80mの滑走路のほか弾薬庫、格納庫などを備えました。


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              訓練用の飛行場として造られたもので、昭和19(1944)年に熊谷陸軍飛行学校伊那文教城として開所、訓練機が終日、伊那上空を旋回したといいます。


              少年航空兵や見習士官などが、それぞれ3カ月の訓練を受けた後、4度にわたって戦闘員として送り出されました。中には特攻隊員となり突撃した若年兵もいたということです。


              戦後、敷地は民有地に払い下げられ、現在は新興住宅地に生まれ変わっています。


              今、この飛行場跡をうかがわせるものとして、格納庫のコンクリートの礎石部分とレンガ造の弾薬庫が残っています


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              同市教育委員会が立てた説明板によると、コンクリートの基礎部分の遺構は3棟あった格納庫のうち第2格納庫のものだそうです。

              木造の格納庫を旧兵士が描いたスケッチも説明板にあります。



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              滑走路の西側に弾薬庫が3棟あった復元図も説明板に描かれています。


              新興住宅地の外れの民家にレンガ製の物置があります。きれいに手入れされた外観から、かつて弾薬庫として建造されたものとはすぐに理解できないようなレンガ棟です。


              3棟あった弾薬庫のうちただ一つ残る跡です。


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              昭和20(1945)年8月の敗戦に伴い、米軍によって陸軍伊那飛行場は廃止されました。


              最近の調査によって、もう一つの飛行場建設計画があったことが明らかになりました。愛知県半田市で特攻機を製造していた中島飛行機製作所を疎開させ地下工場を造り試乗、発送用に計画されたといいます。


              同年6月に着工されましたが、わずか2カ月後に降伏、終戦となり「幻の飛行場」に終わりました。現在、新興住宅地に通称「飛行場通り」というストリート名が残ります





              2012.10.15 Monday

              レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編   北斎もたしなんだ造り酒屋の煙突(小布施町)

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                長野盆地の北部に位置する小布施町。小布施は栗が名物で栗の菓子と古い町並みを残し、街のあちこちに栗の木があります。


                昔から小布施の地は農作物に不向きな地だったといいます。このため旧領であった京都・丹波の栗の苗木を取り寄せて、栗を植林したのが始まりとされています。



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                江戸時代にはこの地方は幕府の直轄領で、収穫した栗を利用した栗菓子も盛んに作られるようになり、厳選された「献上栗」が将軍家に上納されたといいます。


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                人口1万人ほどの町に、年間120万人の観光客が訪れるそうです。混み合う街並を散策していると、異様に高いレンガ造の煙突が目につきます。

                栗菓子製造の老舗「小布施堂本店」の並びに宝暦5(1755)年に創業した「桝一市村酒造場」があります。レンガ造の煙突は、ここの中庭にあります。


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                幕府の直轄領だった頃、菜種油や綿布の生産で財をなしたこの地方の豪農、豪商たちは、盛んに江戸の文人墨客を招いて交流しました。

                浮世絵師の葛飾北斎もその一人で、北斎は何度も小布施に足を運び、晩年の3年半の間は足しげく訪れ、時には1年長逗留したといいます。その際、寺や屋台の天井絵を遺しています。


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                葛飾北斎を招いたのは高井鴻山(市村三九郎)で、小布施堂一族の第十二代目に当たる人物です。自らも絵も描いたことから親交が深まったようです。

                小布施堂は塩問屋、大名貸し、茶問屋、酒造業、菜種油製造、薬屋など多岐にわたる業種に進出し、 高井鴻山は江戸末期、この酒造を営んでいたといいます。



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                今は主に酒と栗菓子製造を幅広くやっていますが、酒は現在でも木樽で仕込むことにこだわり、仕込み上がった酒に鴻山や北斎に因んだ銘柄名をつけています。


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                レンガ造の煙突は、酒米を蒸すために昭和初期に建てられたもので約15mの高さがあり、六角形型の造りになっています。


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                煙突の頂上部は飾り積みし、単調な積み方に装飾性を施しています。


                小布施に、もう一軒高く聳えるレンガ煙突をもった造り酒屋があります。やはり栗菓子製造の老舗「桜井甘精堂本店」の隣りにある「松葉屋本店」です。



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                初代が創業を始めたのが江戸中期で、中野市といいます。大地主で賃貸料を米や穀物などの現物でもらっていたため食べ切れないほどの量が集まり、これらを加工することを思い立ったのが始まりという話しが残っていて、当初は、酒のほか味噌や醤油の醸造も行っていたそうです。



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                明治の初めに小布施に移転しますが、酒造りに欠かせない水を求めて蔵は何回か移った後に現在の場所に落ち着きます。


                酒蔵の中庭に約16mの高さ、六角形のレンガ造煙突が聳えています。建造したのは昭和の初めといいます。



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                煙突の周りを回ると大きな亀裂を補修した跡が見えます。


                「松代群発地震のときに傷んだんです」と14代目の現当主が教えてくれました。松代地震とは、昭和40(1965)年から約5年半にわたって続いた地震です。


                           

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                道路の地割れ、液状化、地下水の湧水などが起こり、負傷者15、家屋全半壊14戸、半壊4戸、地滑り64件の被害が発生した世界的にも稀な群発地震でした。


                震源域内でいろいろな観測と研究が行われ、この松代地震を契機に日本の地震予知研究は大きく進歩したといわれています。


                 

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                建物の中に内蔵があり、酒造りはこの中で行われています。



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                そして、今では珍しくなった和釜があり、酒米を蒸かすのに使っています。釜に火を入れてから50分ほどで蒸気が上がり出し、約1時間で米が蒸かし上がるそうです。


                昔は燃料に薪や石油類を使っていたのですが、現在はガス燃料となったことから煙突は使われていません。



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                内蔵の扉に「昼間の出入りを禁ずる」と書かれています。 昔この蔵を管理していた杜氏が書いたもので、仕込みが行われている冬季は開けっ放しでよいが、夏場や秋の暑い時期は閉めっ放しにしなさい、という意味だそうです。


                年季の入った杜氏が蔵の中の温度や湿度調整の心得を記したわけです。



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                この中に酒母室、麹室や醸造用タンク、貯蔵用タンクが並んでいます。


                現当主は未だ40代前半の若手。しかし、人一倍研究熱心で杜氏とともに生酒常温熟成など、よりおいしい酒造りに勤しんでいます。



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                レンガ造煙突は耐震補強工事も終わり、この造り酒屋のシンボルタワーとして古い家並の一角に建っています。




                2012.10.14 Sunday

                レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編   北京五輪の聖火リレー出発点となった旧長野刑務所跡(長野市)

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                  前回書いた長野県会議員会館の赤レンガ門柱より少し坂道を北側に上ったところに、長野地裁の庁舎があります。鉄筋コンクリート造りの4階建て、見るからに堅固な建造になっています。

                  地裁へは県道から入るアプローチの坂道を上って向かいます。この坂道の中ほどに下から見ると、レンガの遺構が見えます。旧長野刑務所の跡です。


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                  昭和35(1960)年に長野刑務所は、長野市旭町から製糸業の衰退により工場撤退などで大きな空き地をかかえていた須坂市馬場町に移りましたが、移転する前の77年間この地にありました。


                  下の写真は、長野市内にあった当時の刑務所の遠映ですが、かなりの広さで建っていたようです。建物の構造などは良く見られません。


                  調べるにも記録資料が手に入らないため確かめようがないのですが、レンガの遺構は大きさからいって裏口のようにも見えます。



                  須坂市へ移転してから48年後の平成20(2008)年、多くの人たちが旧長野刑務所がここにあったことを知ることになったり、古い記憶を呼び覚ますことになります。



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                  この年、中国の北京が、東京、ソウルについでアジアで3番目のオリンピック開催地となりました。


                  北京オリンピックの日本での聖火リレーのスタート地は、当初、善光寺が予定されていました。しかし、五輪開催地の中国では直前に、チベットの独立問題にからんで動乱が起こります。中国は、開催国のメンツにかけて短期間に制圧します。


                  中国当局が国外からのチベットへの入境と報道を厳しく規制したため、詳しいことは明らかになりませんでしたが、多数の死傷者がでる事態となったことは明らかでした。


                  世界各地で中国政府への抗議行動が続き、各国の聖火リレーにも支障がでました。日本でも善光寺は「同じ仏教寺院としてチベットに対する配慮」から聖火リレーの出発地を辞退します。


                  善光寺は、昭和39(1964)年の東京五輪、平成10(1998)年の長野冬季五輪でも聖火リレーの出発地点となっていました。


                  このことを受けて長野市の実行委員会は、急遽、善光寺から850mほど南西にある旧長野刑務所跡地の市有地をスタート地点に決めました。


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                  聖火リレー出発の当日、厳重な警備態勢がとられるなかセレモニーは一般市民の参加・見物は禁止され、リレーが駆け抜けた沿道でもさまざまなトラブルが発生しました。(詳しくはこちらが参考になります)

                  この僅かに残る赤レンガ“遺跡”のある旧長野刑務所跡地も、議員会館の赤レンガ門柱と同じく長野市で起こった出来事を目撃して来ているといえます。




                  2012.10.13 Saturday

                  レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編   「信濃の国」の大合唱を聴いた門柱(長野市)

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                    長野県庁の北側に長野県議会議員会館の建物があります。赤レンガ門柱の奥にある駐車場の辺りに、かつて県会議事堂がありました。大正2(1913)年に焼失したため,翌年に建て替えられ、現在の議事堂が落成する昭和43(1968)年まで使用されていました。

                    この間55年余り、赤レンガ門柱は様々な県会議場で起こった出来事を目に刻んで来ていますが、中でも昭和23(1948)年、緊迫した状況下で県会議事堂に押し寄せた県民が「信濃の国」を大合唱する様を目撃しています。



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                    明治新政府は、明治4(1871)年に廃藩置県を施行します。これによって長野は信濃国内の12藩が県に置き換わり、伊那県・長野県をあわせ14県になりましたが、さらにその年、北部の8県が長野市を中心にした長野県に、南部6県と飛騨一円が松本市を核とした筑摩県に統合されました。

                    全国的な府県統合の動きのあった明治9年(1876年)の6月、筑摩県庁から火災が発生し庁舎が焼失します。これを契機に長野県と筑摩県は一つの県となり、現在の長野県ができ上がります。

                    しかし、新たに発足した長野県の県庁が北に偏在していることが、それ以後の移庁論、分県論が出てくる論拠となりました。


                                              写真 大正3年に再建された県会議事堂                            (昭和23年頃の長野県会議事堂と門柱)


                    分県をめぐる動きは、それまでに明治期に3回、大正、昭和に各1回議事に上り、その都度傷跡を深めていました。

                    賛否を巡って襲撃を受けて入院する議員が出たり、賛成議員をかかえる町村の納税拒否騒動や警備にあたった警察署が襲われるなどの激しい争いの経過がありました。俗に言う信州の「南北戦争」「南北対立」です。



                                                          

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                    昭和23年の県議会では、長野県を南北に分割しようとする分県意見書案が中・南信の出身議員らから提出され、分割に反対する北信出身議員の病欠などもあって可決されそうになっていました。


                    議場内は乱闘にもなりかねない異様に殺気立った状況だったといいます。


                    議場の傍聴席に入れなかった県民が議場を取り囲み、不測の事態に備えて警察も警備部隊を待機させていました。




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                    分県案が委員会で可決され、本会議の採決では反対派議員が牛歩戦術で議事の先延ばしを図ったため、議場は大混乱となりました。


                    その時、議場の傍聴席を占拠していた分割に反対する北信、東信地方の住民たちから「信濃の国」の大合唱が期せずして沸き起こりました。


                    議場には入れなかった人々の耳にも聞こえ、これに和して「信濃の国」が周辺に轟いたといいます。


                    この大合唱に押され分割を求める県会議員たちも、これ以上の議事を進行させることに躊躇し、この日は流会となりました。


                    その後も、分県推進派と反対派の攻防があり権謀術数の応酬が続きますが、結局、分県推進派議員から提出された議案は可決されず6回目の“挑戦”も実現にこぎつけることはできませんでした。




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                    「信濃の国」は、明治後半に唱歌の教材として作られ、親から子へ、子から孫へという形で、事実上の県歌として歌い継がれてきました。
                                

                    分県掻動のあった20年後の昭和43(1968)年、県民意識の高揚のために正式に「信濃の国」が県歌として制定されました。こうして「子どもから年寄りまで長野県人なら誰でもが歌える」と言われる県歌が誕生しました。





                    2012.10.12 Friday

                    レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編   長野市の“命の水”を救った往生地浄水場(長野市)

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                      善光寺の北西に広がる市街地を見下ろす高台に長野市往生地(おうじょうじ)があります。ここに市内で最も古い往生地浄水場があります。


                      大正2(1913)年に工事が認可され同4年に完成し給水を開始しました。現在も旧市街地を含む市北西地区を中心とする地域に給水しています。


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                      微生物を利用してゆっくりと水を作る緩速ろ過方式の浄水場です。


                       

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                      浄水場内に施釉レンガの円形の集合井1棟と、四角い濾過池の弁室が4棟あります。

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                       明治期、長野市(当時は長野町)の水資源の実態は深刻でした。


                      そのほとんどを数千個の井戸水に頼ってきたものの、水質がきわめて良くなく人体に有害なものがあり90%は飲用に適さないうえ、湧出水量が少なく晩秋から初夏にかけて全く枯渇してしまうほどだったといいます。


                      「 そこで高価な買水もできず、やむなく不良な自家の井戸水等に頼るのである。毎年毎年汚染病が発生するのは、そのためである。さらに防火用水も不足して、非 常の場合に術もなく財産を灰にしてしまうことがしばしばで、このごろの県庁や師範学校の火事はその例である。水の確保は市民の生存上、不可欠なことであ る」と当時の長野市長・牧野元が内務大臣・原敬に水道敷設の認可申請書で訴えています。


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                      ため長野市は明治42(1909)年、水道調査部を設置し、その水源を戸隠にするか、野尻湖にするかを検討します。しかし、野尻湖からの導水は近隣村からの強い反対に遭い断念、戸隠を水源と決定します。


                      上の写真は、戸隠水源から水を引くため導水管を荷馬車で運搬している模様です。その上が当時の浄水場造成工事の様子です。



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                      浄水場と市街地の標高差が70mあり、路上にも高低差があったため、資材運搬には15馬力の巻き揚げ機を備えつけ用材を運び上げたといいます。


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                      この工事は大正2(1913)年3月から翌年11月まで行われ、大正4年から給水が始まりました。住民にとっては、正に「命と財産を守る水」でした。


                      給水戸数2,615戸、給水人口13,100人だったという記録が残ります。

                       

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                      レンガ積み職人が、精魂込めて仕上げた集合井と弁室。いま、当時の姿をそのまま残し長野市の上水道の歴史を物語っています。


                      鉄筋コンクリート構造にイギリス積みでレンガを貼っています。




                      2012.10.11 Thursday

                      レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編    カナダ人司祭が造った長野聖救主教会(長野市)

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                        赤レンガ書庫のある信大教育学部のキャンパスと道を一本挟んだ向かいに、長野聖救主教会のレンガ造り平屋建ての建物があります。



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                        この教会は、明治31(1898)年、カナダから日本聖公会に派遣され長野で伝道を始めたカナダ人宣教師ジョン・ゲージ・ウォーラー司祭設計し、信者の寄付などをもとに自らも作業に当たり造り上げました


                        当時の長野には、教会を建てるノウハウがありません。司教が青年の頃、カナダで父親と教会を建設したときの経験が生かされたといいます

                         


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                        司祭は、カナダに自然や気候がよく似た中条村(平成22年に長野市に編入合併)が気に入りそこに住まいを構え、馬で片道30キロほどの長野聖救主教会へ通っていたといわれます。


                        長野に永住するつもりだったものの、戦時になってから教会の大部分が軍に接収されたり、憲兵に監視されるなどしたため周囲の説得を受け入れ、昭和17(1942)年に傷心の思いを抱きながら帰国、79歳だったといいます。


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                        入り口上部に大きなバラ窓があります。ノートルダム大聖堂やウェストミンスター寺院には巨大なバラ窓がありますが、大きなバラ窓は日本ではあまり見ることができません。



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                        余談ですが、バラ窓の語源は聖母マリアが「奇(くす)しきバラの花」と呼ばれたことから、高い窓にバラの花を描き聖母マリアを暗示したことに由来とするという説があります。



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                        教会の内部から見たステンドガラスのデザインです。

                                
                          Photo


                        そして、教会内部の壁面も赤レンガ仕上げになっています。



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                        建物を補強するため、側壁と隅部にバットレス(控え壁)も付けています。

                        地震国日本にレンガ造りの教会を建てるに当たり、設計図面を引いた司教の知恵だったのでしょう。



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                        入り口や窓の開口部は尖塔アーチで仕上げキーストーンでアクセントをつけています。


                        アーチ部には特別に焼いた楔(くさび)形のレンガが使うなどして周辺のデザインも見事です。



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                        長野県内唯一最古のレンガ造りの聖堂で、建築以来百余年、市民から「レンガの教会」として親しまれてきました。


                        「この建物は長野県内に残るキリスト教建築としは最も本格的なもの」と専門家の評価も高いものです。 


                        平成17(2005)年に、国登録有形文化財に指定されています。







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