レンガ積み職人が遺した建造物~信州編 貴重な水をもたらし現役で働く茶臼山配水池(諏訪市)
眼前に諏訪湖を望む諏訪市上諏訪地区は、古くから湧水もなく井戸を掘っても水脈がなく、町の大部分は古くから角間川やそれを用水路で分けて引いた水に頼らざるを得なかったといいます。
しかし、上流域に大量の雨が降ると濁流となり、たちまち飲み水に窮しました。
このような時、湧水が得られる集落では、「水見舞い」として大きな漬物桶のような容器に入れて、親戚や知人宅に配り歩いたといいます。
明治の後期に村内の水質調査をしたところ、飲用に適さない「不良」の結果がでるところも多かったという結果があります。
いったん川筋などに伝染病などが出ると、たちまち全町に伝播しかねない危険極まる状況にありました。
ですから上水道の設置は、早くからの懸案でした。
上諏訪町(現諏訪市)は、明治36(1903)年、中央線が開通したことを好機ととらえ町営水道を造ろうとしますが、水源とする集落は強く反対し曲折をたどります。
大正11(1922)年になって角間川上流の水源地元との水利権問題もようやく解決し、茶臼山に配水池を造成することになり起工式が行われました。
工事が始まった翌年、関東大震災に見舞われ湖畔一帯は相当の被害を被りますが、水道工事は被害を受けず同13年に竣工します。
レンガを貼った配水池と管理棟、貯水槽点検棟は、この時に建てられたもので、県内の町村では屈指の古さを誇り、いまも現役で稼働しています。
レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編 路地裏の堅固な造りの蔵(岡谷市)
一方通行路が交差する十字路から、50mほど先に目についた赤レンガの建物。岡谷市塚間町上浜の路地裏です。
高い構造で、遠目からも目を引きます。
通りに面して長く、奥行きはその1/3ほどで、軒もほとんどありません。変わった造りで気になったので訪ねてみたのですが、留守で返答がありません。
通り側は小さな窓枠があり、鋼製の装飾をはめ込み防犯対策を施してあるようです。
外観からすると、これ以外に窓はありません。妻面にイギリス積みされたレンガが屋根まで続きます。
反対側に回ると蔵につながる形で、レンガの高い外塀が繋がっています。大仰に言えば、外からの侵入者に備えているかのような造りです。
気になりましたので、半年後に再訪したところ家人に話しが聞けました。「先々代が明治の終わりの頃、建てたものです。製糸工場を経営していたのですが……」
「片方で質屋もやっていたんです。中は1、2階とも沢山の棚があり、いろんな質草を保管していたのを見ていますよ」と話してくれました。
建て物の造りに対する疑問が氷解しました。それにしても改めて見ると、堅固な造りになっています。鉄扉もかなり頑丈に作られているのが分かります。
岡谷といえば明治以降、製糸業で栄えた街。繭価や生糸の乱高下があると金策に走る経営者もいたでしょう。堅固な造りとともに、遠目からも目につくレンガ蔵は利用客の目印にもなったことでしょう。
「昭和30年代に屋根瓦は葺き替え、入り口の鉄扉を塗り替えたのですが、他は修繕補修などはやっていません」とも話してくれました。
有に100年を超え今も堅固に建つレンガ蔵が、路地裏にひっそりと佇んでいます。
レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編 良質の生糸を製造した貯水タンク(岡谷市)
岡谷市の中心部の小高い丘の上に、コロセウム闘技場を彷彿とさせるレンガ製の遺構があります。丸山タンク(中央町1丁目)です。
品質の良い生糸を製造するためには、良質の水が必要でした。明治中期以降、岡谷市では製糸工場の規模が拡大にするにつれ水が不足しました。
下は全盛期の頃の岡谷市の風景です。
このため大正3(1914)年に丸山タンクを建造し、650m離れた天竜川岸から水を汲み上げ、ここに貯水しました。
天竜川にポンプを設置し導管によって水を揚げるため、ポンプ小屋には常駐の番人がいたそうです。
レンガ造りの外壁の内側に外径7.3m、3.1mのコンクリート造りの環状壁二重に内包しています。
レンガ積みされた外壁の径は12mで、壁の厚さは、61cmあります。
タンクに貯水した水は、製造した生糸を運搬する蒸気機関車に給水するため近くにあった駅舎構内に給水塔を造り、配水したそうです。
レンガはイギリス積みですが、2層に分かれ上段は目地を漆喰で下段はセメントで繋いでいます。
レンガ積みの作業にとって目地の材料とその配合の良し悪しがレンガ造の見栄えを決め、耐久性を決めるともいわれます。
通常、目地の比率は全体面積の20〜25%といわれ、目地の仕上げは施工の良し悪しにもつながるというわけです。
また、関東大震災でレンガ造の建造物が崩れ落ちましたが、東京駅や旧法務省、旧帝国ホテルなどのレンガ造の建物の被害が小さかったのは、レンガ積み職人が手抜きせず指示された目地の材料と割合を忠実に守り施工したことによるものという見方があります。
レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編 活況に沸いた製糸業の遺産(岡谷市)
江戸末期の安政6(1859)年に横浜が開港され、外国との貿易が始まると日本の生糸は輸出品の花形として注目されます。
明治政府も蚕糸業を殖産興業として捉え、フランスなどから洋式技術を導入します。岡谷でも機械製糸によって生産量を伸ばす製糸家が現れ、いくつもの工場ができます。
明治13(1880)年には、長野県は生糸生産高で群馬県を抜いて全国1位となり、岡谷を中心に製糸王国の基礎が確立しました。
やがて日本は世界一の生糸生産国となり、輸出品のほぼ半分を生糸が占め外貨獲得に大きく貢献するようになります。そんななかで岡谷の製糸業は全盛期を迎えます。
岡谷に製糸工場が林立しましたが、なかでも規模を広げたのが、片倉組、山一林組、山十組などが有力でした。
いま、岡谷市内に往時の面影をしのばせる建造物が遺っています。赤レンガ造りの建て物としては、山一林組(中央町1丁目)と片倉組(川岸1丁目)の事務所棟です。
山一林組の建て物内部は現在、「絹工房」として市民が生糸を織る体験学習の場として活用されています。
当時の器具備品類も、一部当時のまま残っています。下は壁に据えられた配電盤です。他にも糸撚り機、大型金庫、テーブルなど多くのものが残り、再活用されています。
ところで、山一林組では、待遇改善を求めて昭和2(1927)年に当時としては最大規模の1,300人、うち9割が女子工員が参加する労働争議が起こりました。
労使双方は、ストライキ、工場閉鎖を決行し19日間にわたる長期の争議になったといいます。
明治43(1910)年に建築された片倉組の事務所は、国登録有形文化財となっています。
片倉組はいち早く機械製糸を導入するとともに、蚕品種の改良、養蚕農家との契約で優良品質の生糸生産に成功し、さらに様々な分野の事業に手を広げていきます。
片倉は製糸業を中心とした大企業、いわゆるコンツェルンを形成し片倉財閥ができあがります。日本全国はおろか台湾、朝鮮まで業務を拡張しました。三井・三菱の大財閥に次ぐ勢いがありました。
しかし戦後、マッカーサーによる財閥解体の指令により、再び大きく立ち直ることはありませんでした。
製糸事業を大きく発展させていた大正9(1920)年、片倉組は株式会社に改組し本社を東京に移しますが、本社事務の一部はここに残りました。
事務所棟の横に赤レンガ棟の蔵があります。備品庫 として使用していたのでしょうか。折れ釘も8本付いています。
現在は関連会社の印刷会社の事務所として使用・保存されています。
レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編 青春ドラマに実名登場した温泉旅館の塀(松本市)
かつて商都・松本の奥座敷として賑わった浅間温泉街。広いエリアに温泉宿が建ち並びます。
平坦地とやや急な坂道沿いに多くの温泉宿があり、坂の途上にある旅館を赤レンガ塀が囲んでいます。「尾上(おのうえ)の湯旅館」(浅間温泉5丁目)の外塀です。
イギリス積みされたレンガ塀は30mほど続くでしょうか。途中にアーチの裏口があり上部が飾り積みされています。
平成8(1996)年にフジテレビ系で放送された「白線流し」という連続ドラマがありました。
卒業式の日に、学帽の白線とセーラー服のスカーフを一本に結びつけ川に流す卒業生たちの伝統行事を縦糸に、卒業してから恋愛や進路に悩む青春群像を横糸に描いて高視聴率をとった佳作でした。
白線流しは、岐阜県高山市の高校に伝わる伝統行事ですが、ドラマでは舞台を松本市に置き換え、松本市で多くのロケが行われました。
その中で、女優を目指しながらも挫折する主人公の女友だちの実家として「尾上の湯旅館」が実名で登場しました。
ドラマの放映が終って年月が経ちますが、今なおロケ地巡りに来る人たちが訪れ宿泊していくほど根強い人気があるそうです。宿泊者は、宿とともに赤レンガ塀もカメラに収めていくといいます。
レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編 テニアン島で壊滅した歩兵第50聯隊の兵営跡(松本市)
歩兵第50聯隊(れんたい)の編成下令(かれい=命令が下されること)は明治38(1905)年で、同41年になって松本に兵営が完成し兵士が入営しました。
この年、長野県下で徴兵された最初の初年兵が入隊したことから、歩兵第50聯隊は名実ともに「長野の部隊」となります。
兵営は松本市旭町にありました。戦後、軍隊が解体しましたので兵営全体が信州大学松本キャンパスに生まれ変わりました。
現在の医学部付属病院の入り口に営門がありました。
資料写真などを見るとさまざまな兵舎は、レンガ造のものがかなり多かったことが分かります。
戦後、松本キャンパスを造るにあたって多くの建造物が取り壊されましたが、現在、かろうじて当時のレンガ造建物が2棟残っています。
一つは現在、医学部が備品庫として使用している赤レンガ造の建物で、以前は病理学教室、教職員組合事務所として使用されたこともあったようです。
現在、備品庫としての性格上、人の往来も少ないこともあってか周囲は雑草が生い茂った状態になっています。
その入り口に、かなり短く切断された門柱が装飾的に置かれています。
このレンガ棟が聯隊当時、何に使われていたかというと、上の模型見取り図を見ると糧秣庫(りょうまつこ)になっていたことが分かります。「秣」はマグサを指します。つまり、軍馬用食糧の干し草などの保存庫ということです。
飼い葉を保存するのに似つかわしくないほど立派なレンガ棟と思われますが、当時馬は軍にとって貴重なものでした。
階級の高い軍人が乗る軍馬は大切にされ、「前線では人(兵士)よりも馬のほうが大事にされた」という兵士の証言もあるほどです。馬の飼葉庫としての赤レンガ棟もうなづけるところではないでしょうか。
軍の施設ですので、装飾性はほとんど省いています。
ところで、歩兵第50聯隊は編成されてから大正2(1913)年から1年半にわたりシベリア出兵に参加します。
昭和6(1931)年の満州事変の勃発で上海に上陸していますし、昭和12年の盧溝橋事件で日中全面戦争に拡大したことから4度目の中国出兵で参戦しています。同16年には満州(遼陽)に駐屯しています。
太平洋戦争末期の昭和19(1944)年に、中部太平洋派遣命令が出て歩兵第50聯隊2,800人はテニアン島の守備に就きます。テニアン島は、他の部隊も合わせ8,100人が守備隊として編成されましたが、米軍の猛烈な砲爆撃にさらされ戦闘初日で主力の大半を失ったといいます。
戦闘10日目に生き残った兵士と民間人義勇隊を合わせた1,000人が、聯隊長の指揮のもと、最後の玉砕攻撃を行い壮烈な戦死を遂げます。
松本・歩兵第50聯隊はこの日をもって壊滅します。
現存するもう一棟は、備品庫から100mほど西側にあります。現在、学生のサークル室として使用されていて、表の入り口側のレンガ壁面はスプレー塗装されています。塗装されたことでレンガの風合が消えてしまっています。
自衛隊駐屯地内の資料室のジオラマで確認すると、兵士の炊事場として使用されていた建物の一部になります。
裏側は周囲も雑然としていますが、壁面は塗装されていません。後になってレンガを継ぎ足して塞ぎ、新たに出入り口を造った跡が見てとれます。
当時は、棟が長く炊事場の隣りに浴室が併設されていました。
浴室になっていた部分と炊事場の一部が平成6(1993)年に取り壊され、跡地は現在、駐車場となっています。
どうしてここだけが取り壊されず残ったのかは分かりません。
一番上の白黒写真で隊列を組んだ兵士が営門を通る姿があります。この営門は残っていないか調べていたところ現存していました。
松本駐屯地内の「秀峰館」の額が掛かる資料室の玄関に移転して建っていました。
本来のものは3mほどあったのですが、切りつめて2m弱になっています。
かなりの重量で、屈強な隊員数人で運んだという話しが残りますが、切りつめた1mほどの残りは、旧糧秣庫の入り口前にある50cmほどの門とは材質が違っています。どこにいったかは判然としません。
切り詰めて縮小されたとはいえ、歴史ある営門が残っていたことに安堵しました。
ただ昨年6月30日、松本市を震度5強の地震が襲い、多くの被害がでました。この時、3基のうちの真ん中に設置していた門柱が45度ほど大きく動いたといいます。
本来の位置に戻しましたが亀裂が残り、揺れの大きさを物語ります。それ以来「危険」の張り紙を貼りだしています。
設置場所は変わっていますが、100有余年松本の地にあってさまざまな歴史を見てきた3基の営門遺構は、陸上自衛隊の手によって保存されていました。
資料室は歩兵第50聯隊の史料をはじめ多くの展示物がありますが、中には、映画『硫黄島からの手紙』の主人公で長野出身の栗原忠道中将の手紙をはじめ数々の遺品も展示されています。
また、歩兵第50聯隊の調査研究には貴重な資料なども保存されています。
* 旧歩兵第50聯隊糧秣庫は今年8月に国の登録有形文化財に登録されました。これを機に大学側では、耐震補強をした上で内部をカフェテリアや会議室など市民も使えるスペースに改装する予定だということです。
レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編 高い水質で沈殿槽のない城山浄水場(松本市)
松本市の桜の名所の一つに、城山公園があります。その公園入り口手前に松本市城山配水池があります。建造されてから90年近くになる浄水場の遺構です。
松本市は、市内を女鳥羽川、薄川、牛伏川、奈良井川、梓川が流れます。北アルプスや近隣の峰々からの水が扇状地を形成しました。
昔から豊富で良質な湧水に恵まれ、自然流をそのまま生活用水として利用したり、やや標高の高い地域では地面を掘り水脈を探し当て井戸を造ったり、導水してきた水を集水枡に受けて使う引井(ひきい)などを造って水を確保してきました。
しかし、産業も隆起し人口も増えこうした方法では水が賄いきれなくなって来ていました。
また、たびたび大火に見舞われ明治45(1872)年にも大火事で被災したことから上水道敷設の必要に迫られます。
大正6(1917)年に調査を開始し同8年に松本市島内(当時は東筑摩郡島内村)の湧水を利用し、城山に配水池を造ることを決め、工事に取り掛かります。
配水池は同市城山の中腹斜面を削り取り二つの池を造り、やがて約800mの送水管と本支管約5万5000mに及ぶ配水管の敷設をします。
島内で取水した豊富な伏流水を電動ポンプで配水池へ引き揚げ、貯水池から90mの落差を利用して配水する形を取りました。
同12(1923)年から部分給水をはじめ、工事が完工した13年には3500所帯・2万人に給水しました。高い水質のため沈殿槽のない配水池で、全国的に見ても類例がないといいます。
以来、新施設ができる昭和44(1969)年までの46年間、市民に高い水質の水を供給してきました。
現在、貯水池のほかに、レンガ造で円柱形の着水井点検棟が1、貯水槽点検棟 が2棟残っています。盛り土した貯水池の壁面もレンガを貼り付けています。
当時としては、最高の建材だったレンガをあえて使用したところに関係者のこの上水道敷設にかけた思い入れが込められているのかも知れません。
レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編 味噌醸造所の煙突(松本市)
信州では戦国時代の武将・武田信玄が農家に奨励したことで味噌づくりが盛んになったと言われ、現在でも 全国の生産量の3分の1強を占めています。
安曇野から松本にかけての一帯も、昔から味噌や酒づくりが盛んでした。古い酒蔵や味噌醸造所などには高くそびえる煙突がつきものですが、赤レンガ煙突が松本市里山辺にあります。
店の奥さんの話では、江戸時代は名主を務めた家柄だったそうで、味噌醸造を始めたのは明治期になってからで現在で3代目になるといいます。
煙突の高さは測ったことがないので分からないといいますが、目測で13mほどでしょうか。初代の頃から赤レンガ造りの煙突があり、初めはもっと高かったそうです。
しかし、2代目になったときに「鉄骨が入っていなかったため台風が来て崩れ、急ぎ復旧したのでかなり低くなった」といいます。「室戸台風(昭和9年=1934年)では大丈夫だったのですが、その後の台風でやられた」とも。
ところで、現代は味噌や酒の醸造所を見ても高い煙突がありません。米、大豆などの原料を蒸したり、もろみを蒸留させたり、殺菌などに使う燃料はガスなどを使うことが多く無煙のため、煙突は不要になりました。
昔はボイラーの燃料として石炭を使用していて、大量の煙を逃がす為に高い煙突が必要だったわけです。こちらでは、灯油を燃料として使っているので今でも赤レンガ煙突は現役で働いているということです。
昔も今も、高い煙突は醸造業のシンボルであると同時に広告塔の意味もあります。
不必要になったから解体すると言っても費用もかさむわけですから、老朽化が進んで危険でない限り、できればこうして残してもらいたいものです。
レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編 威厳と勉学督励を表す門柱(松本市)
松本市島立の「松本市歴史の里」は、江戸時代後期から昭和初期までの歴史的建造物を移築した野外博物館です。
5棟ある建造物の中で最も大きく威厳と異彩を放つ建物が、旧長野地方裁判所松本支部庁舎で長野県宝に指定されています。
明治41(1908)年に松本城二の丸御殿跡に建てられた国内に現存する唯一の明治期の地方裁判所跡です。
終戦まで大日本帝国憲法下でこの法廷で裁判が行われ、その後も新憲法の下で昭和52(1977)年まで使用されていましたが、松本地裁が新築され歴史的役割を終えたことから解体計画が持ち上がりました。
しかし、保存を望む熱心な市民運動が起こり、その結果取り壊されることなく現在地へ移築復元されました。
その裁判所庁舎を守るかのように、赤レンガ造りの門柱と外塀が取り囲みます。
威厳を示すような4本の門柱、ぐるり巡らされた外塀の高さは2m近くあります。
イギリス積み工法で張り巡らされています。明治後期のまだ大してレンガ積み技法が地方に普及していなかった時期に、この門と塀を設計した技師とそれを忠実に積み上げた職人の腕捌きに感心してしまいます。
赤レンガ造りの門柱は、名門校・松本深志高校でも見られます。その伝統的な学舎で学ぶ生徒が、登下校で通るのが赤レンガ造りの「登龍門」です。
昭和26(1951)年に天守閣周辺にあった旧制松本中学校の赤門を移築したそうです。
通常、校門に刻まれるのは校名だと思うのですが、ここは成功へ至るために乗り越えなければならない難しい関門を表す「登龍門」になっています。
生徒たちが勉学に励むよう督励する意を込めて名付けたのでしょう。
レンガ積み職人が遺した建造物〜信州編 木造の司祭館にそびえ立つレンガ造煙突と高い基礎(松本市)
松本市開智2丁目にある旧松本カトリック司祭館。平成3(1991)年に、この地に移築復元しています。
長野県最古の木造西洋館で、明治22(1889)年にフランス人神父・クレマンが宣教師用住居として設計しました。
設計図を見て地元の大工さんが着工。外観は、アーリーアメリカン様式(アメリカ開拓時代にイギリスから移入した建築技法)と呼ばれる羽目板の横張り工法です。
1、2階の各部屋に、信州の寒さをしのぐため暖炉が設置されています。
屋根上にレンガで積んだ大きな集合煙突が2基あります。
木造家屋の上にそびえ立つような迫力があります。
高い基礎部分にもレンガが使用され、イギリス積みで仕上げています。換気のための空気穴はアーチ状に組まれています。
高床式で基礎が高いので、内部では床下に収蔵室があり司祭や伝道師たちの各部屋には母国から取り寄せたワインを収納していたという話も伝わります。
遺されたサイドボードなどの数少ない家具調度類も、シンプルな装飾と艶のある木目が荘厳さを漂わせています。
裏口の階段は6段あります。ワインを収めていた貯蔵庫の深さが分かるのではないでしょうか。
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