駅前南側のロータリーも作り直され、それまでの北口改札の建物は店舗が数回入居するものの、やがて倉庫となってしまいます。
ステンドグラス設置してある位置はすぐに分かったのですが、肝心のステンドグラスが輝いていません。
後方の自然光の取り入れ方が良くないのです。
昭和60(年に制作された「語らい」と題する作品だそうです。
若い二人の女性が向かいあって腰かけ、談笑している姿を銅板鍛造と色ガラスの組み合わせで制作しています。
横2.5m、縦1.9mあるそうです。フレーム部はアルミ鋳造です。
アップすると分かるように、下半部の色ガラスがまったく鮮やかさを失っています。
なんとかこの作品を蘇らせることはできませんか、JRさん。
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(日下部久太郎が岐阜市内に建てた洋館は、現在、石原美術として使用されています)
岐阜市米屋町に本社を、営業の拠点を神戸と函館支店に置き事業展開を図ります。
日下部は翌年、米屋町にひと際目を引くレンガ造り地下1階、地上3階建て、屋根裏部屋付きの洋館を建てます。
玄関は石段と縦溝を入れた大理石の柱を両側に建て、渦巻き型イオニア式の柱頭を載せ、マンサード(腰折)屋根、外壁は落ち着いた色調の焼き過ぎレンガと花崗岩を使用し、多くの窓にステンドグラスを嵌めています。
館内には玄関ホールの2カ所のステンドグラスの外に、菊や藤、ツバメやフクロウなど多数のステンドグラスが現存しています。
戦前の木造の町屋が残る米屋町の町並に、建設された大正期当時のまま現存するレンガ造の洋館建築です。
ある歴史建築の専門家は和館の本邸について「この家は何より材がいい。これほどいい家はそうない。岐阜の町並み保存の核として考えるべき」と絶賛したといいます。
博物館明治村の前館長で、日本の建築史家の村松貞次郎(1924-1997年)も、この洋館については折り紙を付けていたといいます。
しかしながら、この洋館についてはいろいろと不明なことが多いのも事実です。設計は武田五一(1872−1938年)が関与しているのではないかとも言われていますが、不明です。外国人説も含め諸説あります。
建設年も、大正3、6、7年などこれもはっきりしないところがあります。
レンガはデンマーク、石材はイタリア、タイルは中国から調達し、ステンドグラスも日本画をもとにイタリアで制作したという話も伝わりますが日本のステンドグラス史研究者の田辺千代さんは別の見解です。
著書『日本のステンドグラス 宇野澤辰雄の世界』のなかで、「大正4年は、木内真太郎率いる宇野澤組大阪出張所が開設された年である。木内真太郎個人では なく、宇野澤組大阪出張所としての仕事だったのではないだろうか。デザインにかかわった人物として、宇野澤組大阪出張所設立に参画した鶴丸梅太郎が見え隠 れする」と書いています。
日下部久太郎は明治4(1871)年、現在の羽島市で庄屋の二男として生まれています。同21(1888)年北海道に渡り、同26(1893)年に函館で米穀・肥料・海陸物産商を開業し、傍ら海運業にも関わりますが米相場の暴落にあい失敗します。
明治41(1908)年、海運、船舶代弁、船舶売買を業務内容とする日下部汽船合名会社を組織して代表社員となり、同44(1911)年、神戸に支店を設けます。
大正3(1914)年、第一次世界大戦勃発により船価が日一日毎に暴騰、日下部はこの機を捉え巧みにチャンスをつかみます。
船舶を購入する一方、数隻の新造船を造り船舶売買と用船により大成功を収めます。
大正6(1917)年には世界進出を考え、日下部株式会社を創立し自ら取締役兼社長となります。株式会社への改組に伴い営業の本拠地を神戸へと移します。
おもに本州−北海道に配船し、夏季は日魯漁業と提携して船舶を北洋の漁場へ送り込み仲積を行います。
その4年後、海運業を主業として明確にするために商号を日下部汽船に変更します。同社は第1次大戦後の不況をくぐり抜け、大正10(1921)年には汽船17隻、総トン数3万7770トンを有し、日本の海運界に君臨しました。
このキッ
コーマン稲荷蔵の先にレンガ塀が続きます。塀内は茂木本家・茂木七左衛門邸で立川流宮大工の流れを汲む佐藤良吉が設計し大正15年に建築されたそうです。
レンガ塀は明治末期に造られたと言います。
2,400坪あるという広い敷地をぐるっと回ると幾つもの蔵が見えます。黒漆喰で塗った立派な蔵もあります。
千葉県の北部に野田市があります。利根川、江戸川、利根運河が周りを囲んでいます。
野田といえば同県の銚子市と並んで醤油の町として発展して来ました。
昭和7(1932)年に造られたもろみ熟成のためのレンガ蔵で、レンガの特長から熟成温度や湿度調整に好適と言います。
蔵の中には高さが5m程の大きな杉桶が並んでいて、その中でもろみが1年間熟成させる昔ながらの「杉桶仕込み」の醤油を製造しているそうです。
以前は内部が見学できたそうですが、現在はできません。敷地内の立ち入りもできません。
キッコーマンといえば、醤油の国内生産量でトップに君臨する大手メーカーですが、それまで競争関係にあった野田の醤油醸造家が大正6(1917)年に大同合併してできた会社です。
それまでの野田には、寛文元(1661)年に醤油醸造を始めた高梨兵左衛門の流れと明和3(1766)年に味噌醸造から醤油の醸造へ転じた茂木七左衛門の流れがありました。
それぞれの本家から分家、あるいは暖簾分けの形で醤油醸造家が増えました。文政7(1824)年には19軒にも及んだと言います。
野田が醤油の一大生産地として発達したのは、大豆、小麦、塩などの原料が近隣から入手できたことに加え、近くを流れる江戸川の水質の良さが醤油造りに適していたからとされます。
そして何よりも、江戸という大消費地を背後に控えていたことが挙げられます。昔の運送は主に江戸川や利根川を舟で運ぶ水運でした。朝、野田を発って江戸川を下ると昼には日本橋に着いたそうです。
文政12(1829)年に高梨家、天保9年(1838)年に茂木家が、幕府御用醤油の指定を受け、野田の醤油の発展に深く係わりを持って行きます。
明治20(1887)になって高梨家、茂木家が中心になって野田醤油醸造組合を結成し、価格協定、出荷の統制、賃金協定を結んで共同利益を図ります。
しかし、大正期になって醤油価格が低迷し、供給過剰によってヒゲタやヤマサなど銚子の醸造家との競争も激化しますが、野田での無用な争いを避けるため組合内が高梨家、茂木家の同族で占められていたこともあり、大正6(1917)年に8家の大同合併へと進みます。
これにより新たに野田醤油株式会社が誕生し、昭和2( )年に200種以上あった商標を茂木佐平治家が使っていた「亀甲萬」に統一します。
これが後にキッコーマン醤油株式会社に、さらに昭和55( )年にキッコーマン株式会社に社名変更しています。
この大同合併の際に組合に加入していた山下家は合併に参加せず、独自の道を選びます。これが現在のキノエネ醤油となります。
地下2階・地上4階建てで、現在、佐倉市美術館になっています。
設計は妻木頼黄(つまき よりなか、1859−1916年)に師事した矢部又吉(1888−1941年)で、矢部は佐倉支店と同じ年に建設した同行佐原支店や昭和2(1927)年に竣工した同千葉支店(千葉美術館「さや堂」)も手掛けています。
昭和12(1937)年になって川崎銀行は第百銀行と改称されていましたが、当時の佐倉町へ売却され佐倉町役場となります。
外観は佐原支店とほぼ同じようなバロック風の装飾を伴ったルネッサンス様式ですが、内部は竣工から90年を経てさまざまに使途を替え改装が繰り返されてきましたので、往時の面影はまったく姿を変えています。
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樋門つまり水閘は江戸時代から明治時代にかけて木造や石造が主流で、レンガ造は明治中期から加わりその後鉄筋コンクリート構造が主流になります。
レンガ造の樋門は明治中期から大正中期までの約30年程度と短いものでした。
柳原水閘のような4連アーチの大規模なものは現存する樋門でも類例のないものと言えます。
また柳原水閘は明治期のレンガ築造技術を伝える史料であり、治水事業の歴史を伝える施設といえます。
この水閘の設計者は井上二郎(1873−1941年)で、明治40(1907)年に鬼怒川水力電気事業や京浜運河工事の設計を手掛けています。
また、手賀沼開墾の先導者としても知られます。
このレンガ造正門は大正8(1918)年に創設された旧陸軍工兵学校の正門門柱として造られたものです。
すでに陸軍には歩兵、騎兵、砲兵などの兵科学校はありましたが、第一次大戦を目の当たりにしてそれまでの「砲兵の陣地進入を援助する」という考えを変え、近代戦に対応できる知識、技能を採り入れることにします。
旧陸軍は工兵のより高度な技術研修のため、相模台にあった松戸競馬場を接収し船橋・中山に移転させ工兵学校を開校しました。
工兵学校の学生は全国の部隊から選考され、下士官候補生1年、甲種学生半年といった教育を受けて原隊に復帰、その後は工兵としての任に従事しました。
工兵学校は終戦の昭和20(1945)年8月まで続きました。
正門は門柱頂部の門灯と門扉がなくなっていますが、現存する門柱4基と歩哨哨戒舎が往時の様子を僅かに偲ばせてくれます。
門柱にかつて門標を嵌め込んでいた跡が残っています。
「陸軍工兵学校」の文字が射込まれた青銅製の門標は現在、松戸市立博物館に所蔵されて見ることができます。
警備のための歩哨哨戒舎は、当初は木造でしたが昭和初期にコンクリート造になっています。
旧陸軍工兵学校跡地は現在、松戸中央公園(市民プール)、聖徳大学、松戸市立第一中学校、公務員宿舎などになっています。
(市内を流れる小野川が水路となり、舟運が発達し岸の両側には商家が建ち並び活気のある街が形成されて行きました)
佐
原はまた、江戸との物流の中継地としても栄え幕府直轄地となり、1855年に記された『利根川図志』に「佐原は下利根附第一繁昌の地なり、村の中程に川有
りて、新宿
本宿の間に橋を架す、米穀諸荷物の揚さげ、旅人の船、川口より此所まで、先をあらそい、両岸の狭きをうらみ、誠に水陸往来の群集、昼夜止む時なし」と、その賑わいを書いています。
(正面の建物は2度建て替えられ新しくなっていますが、基本的な店構えは踏襲されかつての面影を残しているといいます)
蔵造りなど重要伝統的建造物群が建ち並ぶ香取市佐原イの通りに赤レンガの煙突が見えます。
ところどころで建物に遮られて見えなくなりますが、見当を付けて辿ると馬場本店酒造の酒蔵に着きます。
同社は江戸前期に初代善兵衛が大和国(奈良県)の馬場村から出て、佐原で麹屋を開いたのが始まりで、5代目となった天保13(1842)年に酒造りを始めたといいます。
当時、原料の米が豊富で良質の水が得られたことから、佐原の街に30軒に及ぶ酒蔵が軒を並べていたといいます。
良質の水というのは、酒の味に影響を与えない鉄分の少ない地下水のことで佐原の街では浅く掘っても水は湧き出たそうです。
江戸後期に味醂、明治になって醤油の醸造も初め醸造の技に幅を持たせたといいます。
現在は旧来の伝統だった出稼ぎ当時による酒造りをやめ、自社杜氏と職人による伝統的な製法にこだわり納得できる酒造り、味醂造りを行っているということです。
科学的なデータも駆使しながら「雑味のないきれいな味」を目指して手間暇かけての酒造りに切り替えたそうです。
例えば麹の段階では「大吟醸の場合は発酵が進み過ぎないように、夜中も3時間おきに手入れをする」といいます。
また醪(もろみ)の段階では、温度やアルコール度数、酸度などを毎日計測し、水を加えたり櫂(かい=木製の棒)でかき混ぜたりして微調整するといいます。
そして、味の感覚が研ぎ澄まされている朝に毎日味見をして、搾り時と判断すれば成分が変わらないうちに一気に作業に入るといいます。
高く聳えるレンガ造の煙突ですが、かつては今よりもかなり高かったそうです。
現在は使用していませんが、煙突は機関蔵に繋いで設置されていました。石炭を焚き、蒸気を作っていました。
機関蔵は慶応2年に建造されました。平成23(2011)年に東日本大震災で被害を受けたことを機に修理していますが、柱や梁などの躯体はそのままです。
(敷地内に昔の酒造りに使っていた道具などが展示されています。上は木樽などに押印する時に使用された焼印)
機関蔵の他に酒造りのための蔵や米蔵、蔵人たちの休憩所などその多くの骨組みの太い木造建築が残っています。
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本店は日本橋に、支店が千葉と水戸に置かれ、佐原は当初は出張所としての開設でした。
明治中頃には有力銀行の一つに数えられ業績を伸ばし、同31(1898)年になって、佐原出張所は支店に昇格します。
支店昇格してから16年目に、レンガ造建造物ができ上がります。
大正3(1914)年の4月に設計図ができ上がり、6月に着工し11月には竣工しています。施工期間が僅か半年です。
旧下総町高岡のレンガ工場で焼かれたレンガを使用したイギリス積みで、その上に表面に化粧レンガタイルを張っています。
(水郷情緒豊かな市街地を豪華絢爛な山車を練り回す佐原祭りは関東三大祭りの一つとして数えられます。祭りで賑わう町並みに佐原三菱館の建物が見えます)
設計は大友 弘(1888−没年不明)で、東京駅を設計した辰野金吾の弟子・田辺淳吉の指導を受けて設計したと見られています。
レンガに花崗岩を配した設計は、辰野式といわれるルネサンス様式です。
設計図は、一般、矩計図(かなばかりず)、基礎、平面、詳細図の6枚と彩色図9枚が残っていたそうです。
設計図は大正3年4、6、8、10月の日付があったといいます。
大友 弘は大正期から昭和初期にかけて活躍した建築家で、現存する代表作として新津恒吉邸(現 新津記念館、新潟市)、平澤輿之助邸(現 松籟閣、新潟市)、根津嘉一郎別邸(現 起雲閣、熱海市)などがあります。
川崎銀行はその後、川崎第百銀行、第百銀行と改称した後、昭和18(1943)年に三菱銀行と合併します。
こうした変遷を辿りながらも営業を続けましたが、平成15(2003)年に佐原での営業を終えています。
建物が竣工してから1世紀を経て老朽化が進む一方、平成23(2011)年の東日本大震災で震度5強の揺れに見舞われ大きなダメージを受け、現在、内部拝観ができません。
資料によると木骨組みで、内壁は漆喰仕上げにして防火構造にしているそうです。
屋根小屋組みは木造トラスで、ドームがあり吹き抜けになっています。
窓や出入り口は、巻き上げ式の鎧戸鉄製サッシになっているといいます。
この建物は通称・佐原三菱館と呼ばれていますが、県指定有形文化財になっていて登録名は「三菱銀行佐原支店旧本館」です。
しかし建設当初は川崎銀行佐原支店として建てられていますので、当ブログではそのように表記します。
また作品には故郷の半田市岩滑新田(やなべしんでん)が舞台となっているものも多いことから、半田市は町おこしに採り入れてきました。
新美南吉記念館を造り、南吉の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースの整備も進めて来ています。
NTT半田支店はかつて公衆電話ボックスに「ごん狐」のステンドグラスを嵌めて、ごん狐の里、南吉のふるさとのPRに一役買っていました。
地元の作家・平岡和弘さんが制作した横1.8m、縦90cmの作品です。
そのステンドグラスを平成24(2013)年、南吉生誕100周年にあたってリニューアルする記念館へ寄贈しました。
記念館のステンドグラスを見に行きました。
リニューアルされた記念館のエントランスにでも嵌入され、透過光を通して輝いているのかと期待したのですが、駐車場に車を入れて降りたら目の前にあるではありませんか。
駐車場の脇にあるのです。正直驚きました。
野外に展示するステンドグラスというのは、どう鑑賞すればよいのでしょうか。ステンドグラスの輝きがありません。
児童書、中でも絵本という形で小さな子どもたちに物語のストーリーの展開と絵描きの力を借りて自らの世界に描くのは、本を通してからです。
少し考えてどこに設置をすればよかったか考えていただきたいところです。
鉄骨鉄筋コンクリート造3階建てで、建築延べ面積約2,948?あります。正面両側のドーム頂上までの高さは16mあるそうです。
昭和3(1928)年の御大典(昭和天皇の即位式)奉祝記念事業として建設が決まっていたのですが、市役所庁舎の消失などから当初の予定より遅れて同6年に完成しました。
建物の外観は正面に大階段があり、これを上ると5連アーチの出入り口を通って2階のホールへと向かいますが、通常は閉じられています。
エントランスを挟んで左右に塔が建ちます。その上に幾何学模様のドーム型の屋根があり、ドーム近くにそれぞれ4羽の鷲が装飾されています。
塔の上のドーム、ドームに施された幾何学模様などイスラム風も採り入れています。
公会堂を設計したのは中村與資平(よしへい、1880−1963年)で、明治期から昭和にかけて朝鮮半島、中国、日本で活躍した建築家です。
中村は東京帝大(現 東京大学)建築学科を卒業後、辰野金吾が主宰する辰野葛西事務所に入り、その3年後の明治41(1908)年に朝鮮銀行本店の設計のため渡朝します。
この後、ソウルに事務所を開設し、朝鮮半島、中国で銀行、学校、教会など数々の建物を手掛けています。
大正11(1922)年に帰国して東京に中村工務所を開き、東京や故郷の静岡県を中心に数多くの仕事を遺しています。
現存する代表的な建築物として豊橋市公会堂のほか、静岡銀行本店、静岡県庁本館、静岡市役所本館などがあります。
左右の塔の内部は、3階までの階段が付いていてこの階段室などにステンドグラスがあります。
花をアレンジした2種類の幾何学模様のデザインで、左右の階段室に取り付けられています。
昭和6年に完工した豊橋市公会堂ですが折しも同年は満州事変の勃発した年で、公会堂の裏手にある吉田城址(現 豊橋公園)に歩兵第18連隊の本営がありました。
開戦とともに兵士たちは軍旗を先頭に公会堂前を行進し出征していきました。階段室のステンドグラスもこの光景を目にしていたことでしょう。
昭和20(1945)年、豊橋も米軍機の空襲を受け市街地の9割を焼失しましたが、公会堂は戦禍を免れています。
戦後になって数度にわたる改修工事を経て、エレベーターや空調設備も整い現在、市民の様々な催しに利用されています。
(旧蒲郡ホテルから竹島と周辺の島々や渥美半島、知多半島まで三河湾が一望できます)
(竹島まで歩いて渡る橋から旧蒲郡ホテルが見えます。下の白い外壁の建物がかつて常磐館の跡地に建てられた「海辺の文学記念館」です)
父・忠敬の逝去に伴い兄・忠昭が18代目の家督を相続し、忠次は東京・世田谷の野沢に約1年の歳月をかけて邸宅を建設したのがこの建物です。
平成13(2001)年に岡崎市は本多家からこの建物の寄付を受け、同24(2012)年に移設・復元工事を終え公開しています。
復元された旧本多邸は、敷地面積約2,280?、建築床面積約522?で外観は屋根にフランス瓦を葺き、南側に3連アーチのアーケード・テラス、東側に2階部まで続く半円形のベイ・ウインドウがあります。
画像では見えませんが、西側の玄関には車寄せがついて重厚に見えます。
外壁は色モルタルで仕上げていて、アーチや窓枠にはスクラッチタイルで装飾しています。
建物内部は日本間と洋間があり、各所にステンドグラスやモザイクタイルの装飾が施されていて、見応えがあります。
中央に廊下があり南側に応接間、居間、食堂があり、北側に台所、女中部屋、便所、納戸、浴室があります。
忠次は周到な調査の上、敷地選定や建物の基本設計を自ら行い邸宅建築に当たっています。完成したのは、昭和7(1932)年、忠次36歳の時です。
ステンドグラスは各所に嵌入されているのですが、玄関口から入ってすぐの廊下から見えるのが蓮花が浮かぶ池で遊ぶオシドリとハクチョウを描いたグラスです。鳥類はいずれも番いでデザインしています。
団欒室の窓に取り付けられています。
食堂の廊下側窓に取り付けられたステンドグラスの図案は、オリンピック聖火リレーで用いられるトーチをデザインしています。
これまでに、昭和15(1940)年に東京で開催される予定だった第12回オリンピック大会について旧志賀高原ホテル(長野県山ノ内町、2013年11月27日付け)と三田商店(石川県金沢市、2014年2月1日付け)の掲載記事で取り上げました。
忠次の先祖は徳川四天王の一人といわれた功臣の本多忠勝(1548−1610年)で、酒井忠次、榊原康政、井伊直政とともに徳川家康に仕え、その勇壮ぶりは「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(かしら)に本多平八」と適方からも讃えられたといいます。
「唐の頭」は家康が趣味で集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜を指します。
忠勝は生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだそうですが、いずれの戦いでもかすり傷一つ負わなかったと伝えられる武将です。
槍の名手で、その並はずれた武勇を織田信長は「花実兼備の勇士」、豊臣秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」と称賛したといわれます。
忠勝は上総(現 千葉県)大多喜10万石の譜代大名として取り立てられて以降、本多家はその後、伊勢桑名、播磨姫路藩など転封を重ね明和6(1769)年に三河岡崎藩5万石に落ち着き、以後明治維新までの約100年間岡崎藩を治めました。
最後の岡崎藩主となった16代忠直は明治2(1869)年、版籍奉還で岡崎藩知事となりましたが、同4年の廃藩置県で岡崎県ができると藩知事の任を解かれ、江戸下屋敷のあった東京・本郷区森川町に住まいを移します。
17代を継承した忠敬は所有していた旧岡崎城一円の土地を岡崎市に寄付し、二人の子息のうち忠次の兄・忠昭が18代目の家督を継いでいます。
湯殿の窓にブドウの実と葉を描いたステンドグラスがあります。
忠次は植物採集や登山を趣味としていたそうです。
旧本多邸のステンドグラスはこうした忠次の耆好を表すように、植物、動物、自然を採り入れているのが特徴ともいえます。
湯殿はステンドグラスも見応えがあるのですが、タイル装飾もみごとです。相互に全体を引き立て合っているともいえます。
浴槽は抗火石にモルタルでモザイクタイルを貼っています。陶器製の山羊の口から出た湯水は一度下の平らな部分で受け、段差で下の浴槽へ貯水して行くようになっています。
左の小さな水槽(4枚上の画像参照)にも新しい湯水を貯め、上がり湯などに使用しました。
浴室の上げ下げ窓にもステンドグラスがあります。
水中を泳ぐ魚が図案化されていて、忠次は「竜宮」と呼んでいたそうです。
様々な色合いの魚や海藻類が自然光に輝く窓を見ながら浴槽にゆったり浸かっていると、確かに竜宮近くの海底が連想されてくるようです。
これに合わせるように浴室のモザイクタイルも工夫されています。
腰壁は肌色の角タイルですが、床は白とピンクのタイルが市松模様に貼られています。
浴槽のエプロンはモザイクタイルでリボン模様をデザイしています。
2階に忠次の書斎がありますが、その隣室にお茶室があります。お茶室全体がアール・デコ風にまとめられているモダンな部屋です。
壁の出済み部分に取り付けた照明器具のデザインもアール・デコ調になっています。
照明具の底面、側面に色ガラスが入っていて、底面には同心円状に、側面には縦に桟が組まれています。
忠次は色グラスが入った照明器具がお気に入りで、書斎での仕事の合間にこのお茶室でよく寛いだといいます。
東京・野沢にあった本多忠次邸は 戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収されます。
戦時中も疎開することなく守り続けた自宅を、一時的とはいえ強制的に取り上げられるのですから忠次にとっては不本意で断腸の思いであったはずです。
忠次は建物に手を入れることは極力避けてもらいたい旨の手紙をGHQに提出し、自邸の保護を求めたという逸話があります。
それが功を奏したかどうかは分かりませんが、本多邸に居住したのはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサー(1880−1964年)の顧問弁護士カーペンター夫妻で、大きな改造は行わなかったといいます。
接収住居の多くが改造されたなかでこのような事例は稀であったと見られています。
本多忠次邸は玄関や湯殿、浴室、便所などの水周りの床にモザイクタイルが貼られています。
タイルの色は部屋によって異なり、それぞれの模様も違っています。
玄関にモザイクタイル貼りの壁泉 があります。半円形の人造石研ぎ出し仕上げの手洗い器が付いています。
手洗い器の上に半円状の壁面が奥まり上がドーム状になっています。この壁面水色のモザイクタイルが貼られています。
人が人を裁くという厳粛な行為が行われる神聖な場所ということを表すものです。
この天秤のデザインに符合するかのように、公正な裁判を意味する神鏡と神剣を組み合わせた装飾が正面玄関の車寄せの上部にあります。
中央階段室のステンドグラスは創建時のもので、この中央階段室でNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』のロケが2回行われています。
首相官邸に見立てて加藤 剛さんが演じる内閣総理大臣伊藤博文が官邸階段を上るシーンです。
天秤を描いた大階段室の天井部に、日輪をデザインした別のステンドグラスがあります。
円弧を描いた天井部の弧に合わせ、ステンドグラスもしなやかな丸みを持っています。
旧名古屋控訴院庁舎の敷地内に、昭和3(1928)年施行の陪審法に伴い陪審法廷が増築されました。
裁判所が移転した際に増築部分はすべて取り壊されて当時の陪審法廷は今はありません。
その陪審法廷の天井部にステンドグラスがあります。
旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎のステンドグラス、ガラス工事を請け負ったのが高島屋呉服店装飾部大阪店であったことが遺されていた請求書から分かりました。
取り付け工事も含めてステンドグラスに関わった人数は125人だったことも備考欄に記されていたそうです。
ステンドグラス研究家の田辺千代さんは「その制作には関西ステインド硝子製作所だけでなく、梅澤鐡雄の梅澤スティンド硝子製作所も関わったのではないかと充分考えられる」(『日本のステンドグラス 宇野澤辰雄の世界』)としています。