ステンドグラスを見に行く 外国人客のダンスホールを飾った日本を象徴する風景を描いた富士屋ホテルのグラス(神奈川県箱根町)
明治11(1878)年に箱根・宮ノ下に日本で初めての本格的なリゾートホテルとして開業した富士屋ホテル。
130余年の歴史と伝統を受け継ぐクラックックホテルです。
(明治24=1891年に完成した社寺建築を思わせる瓦葺き屋根、唐破風の建物の本館)
創業の明治11年といえば、この前年に九州(熊本県、宮崎県、大分県、鹿児島県)を舞台に西郷隆盛を盟主にして起こった士族による日本最後の内戦といわれる西南の役が起こりましたが、新政府軍によって鎮圧されています。
そんな事件の余韻が残っていた世相の中での開業でした。
(明治11=1878年に創業した当時の富士屋ホテルですが、同16年に焼失します)
明治24(1891)年、唐破風の玄関を持つ木造洋風建築で現在も活躍しているホテル本館が竣工します。この時、火力発電で館内を明るくしたといいます。
2年後の同26年には水力発電を開発し、本館裏に発電所を設け自家発電で電気を賄っています。
(焼失後の明治24=1891年に復興建築した富士屋ホテル全景)
大正12(1919)年の関東大震災では被害がでて10カ月余り営業を休止しましたが、木造でありながら大変強固な建物で、現在でも使用している一階フロント・ロビー、二階の客室が被害を免れています。
同26(1893)年になってそれまでライバル旅館として競ってきた奈良屋旅館と富士屋ホテルとの間で協定を結びます。
江戸時代から宮ノ下で営業して来た奈良屋旅館が日本人客専用に、富士屋ホテルは外国人客専用のホテルとして営業するという内容で、両宿泊施設の“棲み分け”を図るものでした。
富士屋ホテルは外国人客を見込んで明治39(1906)年にいち早く洋風造りで現在も人気のある西洋館を竣工させています。
(昭和11=1936年に和風意匠をテーマにした建物の集大成として造られた花御殿。大きな千鳥破風の屋根と校倉造を模した壁が象徴的な建物です。43室の客室には部屋番号の代わりに花の名前がつけられ、客室のドア、鍵、そして部屋のインテリアにも各部屋の花のモチーフ が使われています)
明治20(1887)年に塔ノ沢と宮ノ下間の約7kmの道路が開通します。
道路ができたことでようやく人力車が宮ノ下まで通れるようになったものの、急な山道を登るには人夫が二人必要なことから椅子に棒をくくりつけて運ぶ「チェア」というものが発案されたそうです。
4〜6人の人夫によって担がれ、春秋のシーズンには宮ノ下より箱根を一周するチェアが70程あり、それを担ぐ300人近い人夫が毎朝ホテル本館の前後を取り巻いていたといいます。
また、富士屋ホテルは送迎のために米国製のホワイトという大型乗り合い自動車を購入し、赤く塗って使用したことから宿泊客たちから「富士屋の弁当箱」と呼ばれて親しまれたそうです。
(フロント前のロビーにも様々な彫刻がありますが、かつてホテルで飼っていた尾長鳥を刻んで着色したものもあります。宿泊者の中にこの尾長鳥に親しみを持った人たちも多いことから制作したそうです)
大正9(1920)年にカスケードルームが造られます。ダンスホールや社交場として華やかなシーンを演出してきたバンケットルーム (宴会場)です。
窓から庭園の小さな滝を望めることから、小滝を意味する「カスケード」と名付けられました。
壁面にステンドグラスが設置されていて、緑あふれる箱根と富士山が描かれています。
カスケードルームができ上がって3年後の大正12(1923)年に箱根も関東大震災に遭い、富士屋ホテルも少なからずの被害があり大改修が行われた記録が残っております。
コンシェルジュの話では、「目録とか実際の購入・依頼記録などの事実の確認の取れる様なものが無く、すべては先輩から後輩への口頭での引き継ぎ」とした上で次のように語っています。
「大正4(1915)年に創業者・山口仙ノ助の意思を引き継いだ2代目社長の山口正造は、外国人客に日本を象徴する風景としての富士山をダンスホール(カスケードルーム)のステンドグラスにデザインするよう制作依頼したものと見られています」
「依頼先は宇野澤辰雄の流れを持つ一門の方々にお願いし、実際のデザインをした方は分かりません」
またステンドグラスの上の欄間一面に、江戸時代の東海道の旅の様子や日本の名所、伝統行事を彫り込んだ彫刻で飾られています。
一枚の板に両面まったく同じ絵柄を彫っためずらしいものです。
カスケードルームのステンドグラスとは別に、本館正面玄関の庇部分に幾つもの照明がステンドグラスで被われています。
同じものは本館と別館を繋ぐ数々の骨董品のプロムナードとなっている天井灯などにも見られます。
正面玄関のショーウィンドーの通りは、昭和10(1935)年に造られていてこの時、ステンドグラスに被われた照明が取り付けられています。
これもコンシェルジュは、宇野澤辰雄の流れを汲む一門の作と語っています。
「宇野澤辰雄の流れを汲む一門」といえば、宇野澤辰雄の養父の辰美が、当時ステンドグラス制作の技術を辰雄から学んだ別府七郎(1873−1936年)、木内眞太郎(1880−1968年)などと「宇野澤スティンド硝子工場」を設立して、日本にステンドグラスを普及することになったのです。
昨年11月26日付けの日光真光教会の項でも記したように、別府七郎と木内眞太郎は、宇野澤スティンド硝子工場でステンドグラス制作の技術を学び大成します。
宇野澤スティンド硝子工場は、アメリカから単身留学して戻った小川三知(1867−1928年)が大正2(1913)年につくった「小川スタジオ」とともに、日本のステンドグラスの黎明期を切り拓いていくことになります。
昭和20(1945)年、終戦を受けてGHQに接収され一般営業を停止します。富士ビューホテル、仙石ゴルフクラブハウスも相次いで米軍の接収下になります。
(長かった接収が解除されて一般営業の再開を知らせるポスター)
富士ビューホテルは、昭和11(1936)年に富士山を間近に仰ぐ河口湖畔に建設された山梨で最初の洋風ホテルです。
この時の東京オリンピックは日中戦争の影響などから日本政府は開催権を返上し「幻のオリンピック」となったものです。
同27(1952)年に長かった接収は解除されますが、米軍との自由契約でホテルなどの施設は貸与することになり一般営業は2年後の同29年まで延びることになります。
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