<< レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  広い敷地を取り囲む柿渋黒板とレンガの塀(千葉県野田市) | main | ●ステンドグラスを見に行く  輝く作品に蘇えさせてもらえないか大垣駅のグラス(岐阜県大垣市) >>
2015.01.08 Thursday

スポンサーサイト

0

    一定期間更新がないため広告を表示しています

    2015.03.02 Monday

    ステンドグラスを見に行く  海運王が岐阜の本邸隣に建てた洋館を飾ったグラス(岐阜県岐阜市)  

    0

      かつて「海なし県」の岐阜県出身者で、「海運王」と呼ばれ海運業で巨万の富を手に入れた立志伝中の人物がいました。

      その人は日下部久太郎(1871−1953年)といい、第一次世界大戦の日本海運業界が黄金時代を迎えた時流に乗って大正6(1917)年に日下部汽船を設立します。


                  Img_6232                (日下部久太郎が岐阜市内に建てた洋館は、現在、石原美術として使用されています)


      岐阜市米屋町に本社を、営業の拠点を神戸と函館支店に置き事業展開を図ります。


      日下部は翌年、米屋町にひと際目を引くレンガ造り地下1階、地上3階建て、屋根裏部屋付きの洋館を建てます。

      玄関は石段と縦溝を入れた大理石の柱を両側に建て、渦巻き型イオニア式の柱頭を載せ、マンサード(腰折)屋根、外壁は落ち着いた色調の焼き過ぎレンガと花崗岩を使用し、多くの窓にステンドグラスを嵌めています。



      Img_6233


      館内には玄関ホールの2カ所のステンドグラスの外に、菊や藤、ツバメやフクロウなど多数のステンドグラスが現存しています。

      戦前の木造の町屋が残る米屋町の町並に、建設された大正期当時のまま現存するレンガ造の洋館建築です。



      Img_6234


      ある歴史建築の専門家は和館の本邸について「この家は何より材がいい。これほどいい家はそうない。岐阜の町並み保存の核として考えるべき」と絶賛したといいます。


      博物館明治村の前館長で、日本の建築史家の村松貞次郎(1924-1997年)も、この洋館については折り紙を付けていたといいます。


                Img_6235                      (1階南側は竹とヤブコウジをデザインしたステンドグラス)

      しかしながら、この洋館についてはいろいろと不明なことが多いのも事実です。設計は武田五一(1872−1938年)が関与しているのではないかとも言われていますが、不明です。外国人説も含め諸説あります。


      建設年も、大正3、6、7年などこれもはっきりしないところがあります。

      レンガはデンマーク、石材はイタリア、タイルは中国から調達し、ステンドグラスも日本画をもとにイタリアで制作したという話も伝わりますが日本のステンドグラス史研究者の田辺千代さんは別の見解です。


      Img_6239

       

      著書『日本のステンドグラス 宇野澤辰雄の世界』のなかで、「大正4年は、木内真太郎率いる宇野澤組大阪出張所が開設された年である。木内真太郎個人では なく、宇野澤組大阪出張所としての仕事だったのではないだろうか。デザインにかかわった人物として、宇野澤組大阪出張所設立に参画した鶴丸梅太郎が見え隠 れする」と書いています。



      Img_6240


      岐阜市に本邸と洋館を建てた同じ年、日下部は函館市末広町に邸宅を建てます。同市は伝統的建造物に指定、函館の名邸になっています。材と大工は船で木曽と岐阜から運ばれたといいます。

      また、大正8(1919)年に神戸市の舞子に邸宅を建てていますが、岐阜と同じく和館と洋館があります。


      Img_6242


      日下部久太郎は明治4(1871)年、現在の羽島市で庄屋の二男として生まれています。同21(1888)年北海道に渡り、同26(1893)年に函館で米穀・肥料・海陸物産商を開業し、傍ら海運業にも関わりますが米相場の暴落にあい失敗します。


      明治41(1908)年、海運、船舶代弁、船舶売買を業務内容とする日下部汽船合名会社を組織して代表社員となり、同44(1911)年、神戸に支店を設けます。


      大正3(1914)年、第一次世界大戦勃発により船価が日一日毎に暴騰、日下部はこの機を捉え巧みにチャンスをつかみます。


      船舶を購入する一方、数隻の新造船を造り船舶売買と用船により大成功を収めます。



      Img_6241                 ( 渦巻き模様が特徴的な和風デザインのグラス)


      日下部は、当時の海運景気とその経営が見事にはまり、日本を代表する海運王の名をほしいままにします。久太郎43歳の頃です。

      大正6(1917)年には世界進出を考え、日下部株式会社を創立し自ら取締役兼社長となります。株式会社への改組に伴い営業の本拠地を神戸へと移します。


      おもに本州−北海道に配船し、夏季は日魯漁業と提携して船舶を北洋の漁場へ送り込み仲積を行います。

      その4年後、海運業を主業として明確にするために商号を日下部汽船に変更します。同社は第1次大戦後の不況をくぐり抜け、大正10(1921)年には汽船17隻、総トン数3万7770トンを有し、日本の海運界に君臨しました。


      2015.01.08 Thursday

      スポンサーサイト

      0
        コメント
        コメントする








         
        この記事のトラックバックURL
        トラックバック
        Calendar
            123
        45678910
        11121314151617
        18192021222324
        252627282930 
        << June 2017 >>
        PR
        Selected Entries
        Categories
        Archives
        Recent Comment
        Links
        Profile
        Search this site.
        Others
        Mobile
        qrcode
        Powered by
        30days Album
        無料ブログ作成サービス JUGEM