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2015.01.08 Thursday

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    2014.09.25 Thursday

    鬼師が遺した飾り瓦   保存できないか、伊賀街道旧平松宿の七福神瓦(三重県伊賀市)

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    いつかは見てみたいと思っていた一つに、三重県伊賀市の旧伊賀街道平松宿のいたや旅館の飾り瓦があります。

    9月に入って、この建物の所有者が老朽化が進んだことから10月中にも取り壊しを予定しているようだという情報が届きました。


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    時間に余裕がありません。「これは大変」とばかりに予定をやりくりして出かけることにしました。


    高速道を乗り継いで片道約315kmの行程です。



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    東名阪道を降りて伊賀市の山道を走って平松宿に向かうのですが、対向車もありません。山深い道ですので、もちろん人影も、人家もありません。



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    本能寺の変によって危機に晒された徳川家康が、僅かな供廻りと命からがら伊賀越えしたのはこんな寂しい峠道だったかと思いを馳せながらしばらく走っていると、ようやく人家が見え始めました。


    人里ののどかな田園風景を横目に見ながら、ほどなくして平松宿に着きました。



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    近くを走るバイパス化された国道が、この宿場の東側を通り逸れたため当時の町並がそのまま残ったのです。


    旧宿場の面影を残すそう広くはない道の両側に、木造の家屋が軒を並べています。昼下がりなのですが、人影が見当たりません。



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    かつて伊勢国と伊賀国を結ぶ伊賀街道は、津から橡ノ木峠(長野峠)を越えて上野までの約50km(12里)の街道で、京、大和、山城方面と伊勢神宮を結ぶ参宮の道でした。


    伊勢側では「伊賀越え奈良道」と呼んでいたそうです。



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    慶長13(1608)年に藤堂高虎が伊勢・伊賀二国の大名として移封され、津を本城に、伊賀上野を支城にして上野は城代家老が治めます。


    二つの城下を往来するため藩内の官道として整備して、今の伊賀街道ができたといいます。



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    街道が整備されてから、津側から水産物や塩が、伊賀方面から種油や綿などが相互に運ばれ、藩内交易が盛んとなりました。



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    かつて伊賀街道の最も大きな宿場が上阿波宿でした。津藩主の伊賀巡見のための休憩所も設けられていました。


    しかし、上阿波の宿は元禄7(1694)年から同9年の僅か3年の間に3度の大火を引き起こします。


    このため津藩は、宿場を上阿波から1.3km西の平松に移します。本陣や問屋も移します。



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    元禄9(1696)年からわずか半年余りで、平松宿の町普請が完了します。


    それ以降、平松宿は伊賀八宿中、最大の宿場町として栄えたといいます。


    藩主が伊賀上野城に向う時には長野峠越えの道を通ることが多く、平松宿で休憩をとったといいます。



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    平松宿は上阿波の経験から火除けの土手を築きましたが、延享元(1744)年に出火し宿場を全焼します。


    さらに明治23(1890)年に関西鉄道が開通して、宿場町は急速に衰退します。



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    平松宿は明治16(1883)年、同23(1890)年とその後も大火が絶えず、現在残っている旧旅籠いたやの建物は大正初期に建て替えたものだといいます。


    その後、何度かの部分的な改修を行っていますが、外観は当時の面影を色濃く残しています。



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    昭和40(1965)年頃まで旅館を営んでいましたが、その後廃業。現在まで空家状態になっていました。


    妻入大屋根、格子造りの庇の上などに、御宿いたや、七福神、松や鯉などを模った飾り瓦が残っています。



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    この飾り瓦は、実にユーモラスで親しみを覚えるものです。


    七福神も漫画的なタッチで制作されていて、鬼板師の遊び心も感じられる傑作です。



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    そして、鬼板師はこの七福神にストーリーを持たせています。


    伊賀街道の山中から流れ下る服部川に架かる大橋を渡って平松宿に入るのですが、そこから物語は始まっています。



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    長寿の亀が川辺で遊び、川で鯉が遊び、波立つ川に架かる石橋の大橋を渡った七福神が今宵の宿をいたやと決め、次々と投宿して来ます。



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    毘沙門天、大黒、恵比寿、布袋、寿老人、福禄寿がいます。迎えるのは宿の女将でしょうか。


    飼い犬も一緒です。



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    にぎやかな七福神御一行様ですが、弁財天の姿が見当たりません。


    ひと足早く投宿し、湯にでも浸かっているのでしょうか。



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    弁財天は歌舞音曲の神ですので、今宵の宴も盛り上がることでしょう。



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    軒の先の軒丸瓦にいたやを表す板の字が並んでいます。


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    目を大棟や小屋根に移すと虎や鶴が載っていますし、どういう訳か、別の福禄寿や布袋がいます。



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    鶴は縁起物で、旅館ですので千客万来を願っての意が込められているのでしょう。


    虎は疫病除けのためよく飾られます。



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    実に親しみのもてる装飾瓦の数々、この宿に泊まった旅人たちの旅愁を和ませたのではないでしょうか。



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    この優れた鬼板師の作品、もう一度連続してご覧ください。



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    しかし、この飾り瓦、宿の解体とともに取り壊されてしまうのでしょうか。



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    鉄路が通り寂れて行った旧宿場の庇の上で、行き交う人々を見守って来た七福神たちの瓦は地域とともに時を刻んで来た文化財なのではないでしょうか。



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    行政サイドは大正期の建物で「古さが足りない」ということで文化財指定の枠外という見解のようですが、本来、文化財というのは生活文化に根ざしたものにこそ価値があるのではないでしょうか。



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    単なる時日を経た“古さ”が文化財指定の基準なのでしょうか。



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    せめて、いたや旅館の装飾瓦の保存に手を差し伸べられないものでしょうか。



    Img_6139                      (小屋根の上に、福禄寿が…)



    Img_6143                    (こちらには大きな腹を出した布袋が…)



    Img_6169                 (見にくいのですが大棟に載っているのは龍でしょうか)



    Img_6170   (隣家の塀の上に2匹の鼠が飾られています。カビで白くなっていて分かりにくいのですが、手前の下側にいるのが分かるでしょうか)




                            Img_6172                  (いたやのすぐ近くに慶応2=1866年に奉納された常夜燈があります) 



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