2015.01.08 Thursday

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    2015.03.06 Friday

    ●ステンドグラスを見に行く  地方都市に唯一遺るコンドルが設計した旧諸戸邸のグラス(三重県桑名市)

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      日本が長い鎖国の国是を捨てて開国へ向かって間もない明治10(1877)年、英国ロンドンからお雇い外国人として一人の建築家が来日しました。

      ジョサイア・コンドル(1852−1920年)といい、当時の政府関連の建物の設計を手がけます。


              
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                       (J・コンドルの肖像画)

      また、工部大学校(現 東京大学工学部)の教授として辰野金吾ら、草創期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築き「日本近代建築の父」と呼ばれました。


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      コンドルの手がけた建築作品は約70と数も多かったのですが、ほとんどは東京と神奈川県内に集中していたため震災、空襲、老朽化による取り壊しなどで現存するものは数は限られています。


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      そんな中にあって三重県桑名市桑名にコンドルが設計した「山林王」と呼ばれた桑名の実業家の2代目諸戸清六の邸宅があります。

      明治44(1911)年に着工し、大正2(1913)年に竣工した地方都市に現存する唯一の作品です。


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      揖斐(いび)川、長良川を望む約18,000屬旅大な敷地に、洋館と和館、蔵などと日本庭園があります。

      戦災を受けての修復と若干の改築はしているものの、ほぼ創建時の姿を留めているといいます。


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      コンドルの作品で以前、東京・池ノ端の旧岩崎久彌邸を訪ね遺されているステンドグラスを見ました。

      コンドルは室内装飾としてステンドグラスを積極的に用いました。


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      旧諸戸清六邸にもステンドグラスがあります。

      洋館玄関の4枚の開き戸に透過光を受けて黄金色に輝くグラスが嵌められています。

       
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      戦災による被害が比較的少なかった旧諸戸邸ですが、戦時中、玄関扉と車寄せが被災しています。

      この玄関は、主人と来客だけが使用し、車寄せは洋館正面を強調するために装飾的に付けたものです。

      床に貼られていたタイルは遺りましたが、玄関と車寄せ、扉のステンドグラスは壊れてしまったため、現在あるのは後年コンドルの設計図と古写真によって復元したものになります。



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      洋館の1階は中心にホールを設け、その周りに部屋を配置するという方式が見られますが、このホールは扉を開くと畳廊下が隣りの和館と繋がっています。

      4階建ての塔屋は当初コンドルの設計では3階建てでしたが、揖斐川の風情を眺められるように4階建てに変更されています。


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      コンドルは塔屋の1階部を応接室として設計するのを基本としましたが、旧諸戸も客待ち的な応接室として使用されました。

      窓は塔屋の形に合わせて曲面に仕上げられていますが、当時の日本ではガラスを曲げる技術がなかったため輸入したガラスを嵌めています。


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      コンドルは内部設計で直線の単純さを嫌ったといいます。

      塔屋1階の応接室もそうですが書斎の窓際も屈曲しています。


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      1階ホールから2階へと続く階段手擦り部分などに手の込んだ装飾を板面にさりげなく入れているのもコンドルの設計特長です。


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      桑名市は平成3(1991)年に土地を取得し、諸戸家から建物の寄贈を受け整備をした後、公募で得た「六華苑」という名称を付け平成5(1993)年から公開しています。

       
      2015.03.04 Wednesday

      ●ステンドグラスを見に行く  輝く作品に蘇えさせてもらえないか大垣駅のグラス(岐阜県大垣市)

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        大垣駅はJR東海と樽見鉄道・養老鉄道が共用しているのですが、JRコンコースにステンドグラスがあると聞いていましたので、立ち寄りました。

        大垣駅は昭和60(1985)年に橋上駅化したことにより、それまで北改札口と南改札口とを結んでいた跨線橋が、北口と駅本屋とを結ぶ自由通路となります。


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        駅前南側のロータリーも作り直され、それまでの北口改札の建物は店舗が数回入居するものの、やがて倉庫となってしまいます。


        ステンドグラス設置してある位置はすぐに分かったのですが、肝心のステンドグラスが輝いていません。



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        後方の自然光の取り入れ方が良くないのです。

        取り入れ口を半円形にしていますが、もっと下まで採光口を広げなければ、ステンドグラスがステンドグラスでなくなってしまいます。



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        昭和60(年に制作された「語らい」と題する作品だそうです。


        若い二人の女性が向かいあって腰かけ、談笑している姿を銅板鍛造と色ガラスの組み合わせで制作しています。


        横2.5m、縦1.9mあるそうです。フレーム部はアルミ鋳造です。

            


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        アップすると分かるように、下半部の色ガラスがまったく鮮やかさを失っています。


        なんとかこの作品を蘇らせることはできませんか、JRさん。


        2015.03.02 Monday

        ステンドグラスを見に行く  海運王が岐阜の本邸隣に建てた洋館を飾ったグラス(岐阜県岐阜市)  

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          かつて「海なし県」の岐阜県出身者で、「海運王」と呼ばれ海運業で巨万の富を手に入れた立志伝中の人物がいました。

          その人は日下部久太郎(1871−1953年)といい、第一次世界大戦の日本海運業界が黄金時代を迎えた時流に乗って大正6(1917)年に日下部汽船を設立します。


                      Img_6232                (日下部久太郎が岐阜市内に建てた洋館は、現在、石原美術として使用されています)


          岐阜市米屋町に本社を、営業の拠点を神戸と函館支店に置き事業展開を図ります。


          日下部は翌年、米屋町にひと際目を引くレンガ造り地下1階、地上3階建て、屋根裏部屋付きの洋館を建てます。

          玄関は石段と縦溝を入れた大理石の柱を両側に建て、渦巻き型イオニア式の柱頭を載せ、マンサード(腰折)屋根、外壁は落ち着いた色調の焼き過ぎレンガと花崗岩を使用し、多くの窓にステンドグラスを嵌めています。



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          館内には玄関ホールの2カ所のステンドグラスの外に、菊や藤、ツバメやフクロウなど多数のステンドグラスが現存しています。

          戦前の木造の町屋が残る米屋町の町並に、建設された大正期当時のまま現存するレンガ造の洋館建築です。



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          ある歴史建築の専門家は和館の本邸について「この家は何より材がいい。これほどいい家はそうない。岐阜の町並み保存の核として考えるべき」と絶賛したといいます。


          博物館明治村の前館長で、日本の建築史家の村松貞次郎(1924-1997年)も、この洋館については折り紙を付けていたといいます。


                    Img_6235                      (1階南側は竹とヤブコウジをデザインしたステンドグラス)

          しかしながら、この洋館についてはいろいろと不明なことが多いのも事実です。設計は武田五一(1872−1938年)が関与しているのではないかとも言われていますが、不明です。外国人説も含め諸説あります。


          建設年も、大正3、6、7年などこれもはっきりしないところがあります。

          レンガはデンマーク、石材はイタリア、タイルは中国から調達し、ステンドグラスも日本画をもとにイタリアで制作したという話も伝わりますが日本のステンドグラス史研究者の田辺千代さんは別の見解です。


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          著書『日本のステンドグラス 宇野澤辰雄の世界』のなかで、「大正4年は、木内真太郎率いる宇野澤組大阪出張所が開設された年である。木内真太郎個人では なく、宇野澤組大阪出張所としての仕事だったのではないだろうか。デザインにかかわった人物として、宇野澤組大阪出張所設立に参画した鶴丸梅太郎が見え隠 れする」と書いています。



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          岐阜市に本邸と洋館を建てた同じ年、日下部は函館市末広町に邸宅を建てます。同市は伝統的建造物に指定、函館の名邸になっています。材と大工は船で木曽と岐阜から運ばれたといいます。

          また、大正8(1919)年に神戸市の舞子に邸宅を建てていますが、岐阜と同じく和館と洋館があります。


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          日下部久太郎は明治4(1871)年、現在の羽島市で庄屋の二男として生まれています。同21(1888)年北海道に渡り、同26(1893)年に函館で米穀・肥料・海陸物産商を開業し、傍ら海運業にも関わりますが米相場の暴落にあい失敗します。


          明治41(1908)年、海運、船舶代弁、船舶売買を業務内容とする日下部汽船合名会社を組織して代表社員となり、同44(1911)年、神戸に支店を設けます。


          大正3(1914)年、第一次世界大戦勃発により船価が日一日毎に暴騰、日下部はこの機を捉え巧みにチャンスをつかみます。


          船舶を購入する一方、数隻の新造船を造り船舶売買と用船により大成功を収めます。



          Img_6241                 ( 渦巻き模様が特徴的な和風デザインのグラス)


          日下部は、当時の海運景気とその経営が見事にはまり、日本を代表する海運王の名をほしいままにします。久太郎43歳の頃です。

          大正6(1917)年には世界進出を考え、日下部株式会社を創立し自ら取締役兼社長となります。株式会社への改組に伴い営業の本拠地を神戸へと移します。


          おもに本州−北海道に配船し、夏季は日魯漁業と提携して船舶を北洋の漁場へ送り込み仲積を行います。

          その4年後、海運業を主業として明確にするために商号を日下部汽船に変更します。同社は第1次大戦後の不況をくぐり抜け、大正10(1921)年には汽船17隻、総トン数3万7770トンを有し、日本の海運界に君臨しました。


          2015.02.09 Monday

          ステンドグラスを見に行く  野外に置かれ輝きを失った「ごん狐」のグラス(愛知県半田市)

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            半田市の出身で戦前の児童文学作家に新美南吉(にいみ なんきち、1913−1943年)がいます。

            結核で29歳の若さで亡くなったため、作品数は多くはありませんが『ごん狐』、『手ぶくろを買いに』、『花のき村と盗人たち』、『おじいさんのランプ』などの代表作があります。


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            作品には「民芸品的な美しさ」と親しみ深さを感じさせ、今も多くの人に愛されている作家の一人です。


            また作品には故郷の半田市岩滑新田(やなべしんでん)が舞台となっているものも多いことから、半田市は町おこしに採り入れてきました。



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            新美南吉記念館を造り、南吉の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースの整備も進めて来ています。


            NTT半田支店はかつて公衆電話ボックスに「ごん狐」のステンドグラスを嵌めて、ごん狐の里、南吉のふるさとのPRに一役買っていました。


            地元の作家・平岡和弘さんが制作した横1.8m、縦90cmの作品です。



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            そのステンドグラスを平成24(2013)年、南吉生誕100周年にあたってリニューアルする記念館へ寄贈しました。


            記念館のステンドグラスを見に行きました。


            リニューアルされた記念館のエントランスにでも嵌入され、透過光を通して輝いているのかと期待したのですが、駐車場に車を入れて降りたら目の前にあるではありませんか。



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            駐車場の脇にあるのです。正直驚きました。


            野外に展示するステンドグラスというのは、どう鑑賞すればよいのでしょうか。ステンドグラスの輝きがありません。


            児童書、中でも絵本という形で小さな子どもたちに物語のストーリーの展開と絵描きの力を借りて自らの世界に描くのは、本を通してからです。


            少し考えてどこに設置をすればよかったか考えていただきたいところです。


            2015.02.08 Sunday

            ステンドグラスを見に行く  公会堂の窓から出征兵士を見送った幾何学模様のグラス(愛知県豊橋市)

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              豊橋市役所と隣り合わせた豊橋市八町通にロマネスク様式の風格のある建物があります。

              昭和6(1931)年に竣工した豊橋市公会堂です。

               

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              鉄骨鉄筋コンクリート造3階建てで、建築延べ面積約2,948屬△蠅泙后正面両側のドーム頂上までの高さは16mあるそうです。

              昭和3(1928)年の御大典(昭和天皇の即位式)奉祝記念事業として建設が決まっていたのですが、市役所庁舎の消失などから当初の予定より遅れて同6年に完成しました。

              建物の外観は正面に大階段があり、これを上ると5連アーチの出入り口を通って2階のホールへと向かいますが、通常は閉じられています。



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              エントランスを挟んで左右に塔が建ちます。その上に幾何学模様のドーム型の屋根があり、ドーム近くにそれぞれ4羽の鷲が装飾されています。

              塔の上のドーム、ドームに施された幾何学模様などイスラム風も採り入れています。

              公会堂を設計したのは中村與資平(よしへい、1880−1963年)で、明治期から昭和にかけて朝鮮半島、中国、日本で活躍した建築家です。


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              中村は東京帝大(現 東京大学)建築学科を卒業後、辰野金吾が主宰する辰野葛西事務所に入り、その3年後の明治41(1908)年に朝鮮銀行本店の設計のため渡朝します。

              この後、ソウルに事務所を開設し、朝鮮半島、中国で銀行、学校、教会など数々の建物を手掛けています。

              大正11(1922)年に帰国して東京に中村工務所を開き、東京や故郷の静岡県を中心に数多くの仕事を遺しています。


              現存する代表的な建築物として豊橋市公会堂のほか、静岡銀行本店、静岡県庁本館、静岡市役所本館などがあります。


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              左右の塔の内部は、3階までの階段が付いていてこの階段室などにステンドグラスがあります。

              花をアレンジした2種類の幾何学模様のデザインで、左右の階段室に取り付けられています。



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              昭和6年に完工した豊橋市公会堂ですが折しも同年は満州事変の勃発した年で、公会堂の裏手にある吉田城址(現 豊橋公園)に歩兵第18連隊の本営がありました。

              開戦とともに兵士たちは軍旗を先頭に公会堂前を行進し出征していきました。階段室のステンドグラスもこの光景を目にしていたことでしょう。


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              昭和20(1945)年、豊橋も米軍機の空襲を受け市街地の9割を焼失しましたが、公会堂は戦禍を免れています。

              戦後になって数度にわたる改修工事を経て、エレベーターや空調設備も整い現在、市民の様々な催しに利用されています。

               


                       Img_5890                         (公会堂通用口に古いモザイクタイルが貼られています)



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              2015.02.07 Saturday

              ステンドグラスを見に行く  風光明媚な三河湾を望む旧蒲郡ホテルのグラス(愛知県蒲郡市)

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                愛知県南東部に蒲郡市があり、三方を山に、沿岸部は渥美半島と知多半島に囲まれ三河湾に面しています。

                温暖な気候の海辺の街で、沿岸一帯が三河湾国定公園になっています。代表的な景勝地に三河湾に浮かぶ小島の竹島があります。


                Img_5822      (旧蒲郡ホテルから竹島と周辺の島々や渥美半島、知多半島まで三河湾が一望できます)


                対岸とは僅か400mしか離れておらず、竹島橋によって結ばれています。しかし竹島は暖地性の植生で植物相が大きく異なるという特異な環境があります。

                昭和5(1930)年に島全体が国の天然記念物に指定されています。これまでにサカキカズラ、カゴノキなど238種の高等植物が自生していることが分かっています。

                竹島は全域が八百富神社の境内で、弁財天が祀られており、開運・安産・縁結びのご利益があるとされます。


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                この温暖な景勝地に着目したのが名古屋の繊維会社「滝兵」(現 タキヒヨー)を経営していた滝 信四郎(のぶしろう、1868−1938年)です。

                明治45(1912)年に竹島海岸に料理旅館「常磐館」(現「海辺の文学記念館」)を建て、昭和7(1932)年に対岸から竹島までを私費で架橋します。


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                さらに同9(1934)年に山上に城郭風の木造3階建ての蒲郡ホテル(現 蒲郡クラシックホテル)を建てます。

                鉄道省国際観光局(当時)認定の国際観光旅館、つまり外貨獲得のための「国策ホテル」として営業を開始します。

                滝が負担したホテル建設費総額の4分の1の10万円だったといいます。


                Img_5840   (竹島まで歩いて渡る橋から旧蒲郡ホテルが見えます。下の白い外壁の建物がかつて常磐館の跡地に建てられた「海辺の文学記念館」です)


                旧蒲郡ホテルを設計したのは、元鉄道省の技師・久野 節(くの みさお、1882−1962年)で内装にアールデコ様式も採り入れています。施工は大林組が当たっています。

                ホテルの2階から3階へ上る階段室にステンドグラスが嵌められています。いつの頃に制作されて嵌入されたのか分かりませんが、一部に修復した跡が見て取れます。


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                滝 信四郎は繊維問屋・滝兵の5代目当主となってから株式会社化し、明治34(1901)年に社内改革に乗り出しそれまでの丁稚(でっち)奉公制を廃止し、月給制、公休日制を採り入れ待遇の改善に取り組みます。

                その一方で、蒲郡の観光開発に多額の私財を投資します。昭和9(1934)年に蒲郡ホテルを建設した後も観光開発を進めましたが、時代の流れは戦時体制に入って行きます。


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                昭和13(1938)年に信四郎が亡くなりますが、この年に綿花配給切符判実施され国家総動員法公布されています。

                戦時中の昭和19(1944)年になると、常盤館、蒲郡ホテルなどを日本陸軍病院に供用され、営業を中止します。

                戦後は米軍に接収され昭和27(1952)年になってようやく全館解除され、営業を再開します。

                昭和天皇や皇族たちもたびたび宿泊し、高級ホテルとして隆盛します。


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                しかし、昭和34(1959)年の伊勢湾台風によりホテル、常盤館とも大きな被害を被り、全館とも1カ月余り休養し復旧工事を行います。

                また、同45(1970)年大阪府吹田市の千里丘陵を会場に日本万国博覧会が開催され外国人の宿泊客を期待していましたが、誘客に失敗し当てが外れてしまいます。

                その後、公害問題で三河湾が汚染され竹島のアサリや三河湾の魚類に深刻な問題が発生し、折からの景気後退もあって観光客、宿泊客が激減します。


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                               (三河湾に映える夕陽も美しい光景です)

                関連会社の縮小、整理を進めますが、同55(1980)年に経営継続を断念、ホテルを蒲郡市に売却します。

                同市は同62(1987)年に国土計画蠅愍渡し「蒲郡プリンスホテル」となりますが、旧蒲郡ホテルが創業して100年に当たる平成24(2012)年に呉竹荘グループが継承することになり、名称も「蒲郡クラシックホテル」に変わっています。


                2015.02.06 Friday

                ステンドグラスを見に行く  GHQの接収でも改造から免れた旧本多忠次邸を飾るグラス(愛知県岡崎市)

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                  岡崎市欠町の小高い丘の上にスパニッシュ様式の木造2階建て一部鉄骨造の瀟洒な建物があります。

                  旧本多忠次邸です。


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                  本多忠次(1896−1999年)は
                  、先祖に譜代大名として三河岡崎を長い期間にわたって治めてきた家系で、本多家17代忠敬の次男として生まれます。


                  父・忠敬の逝去に伴い兄・忠昭が18代目の家督を相続し、忠次は東京・世田谷の野沢に約1年の歳月をかけて邸宅を建設したのがこの建物です。



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                  平成13(2001)年に岡崎市は本多家からこの建物の寄付を受け、同24(2012)年に移設・復元工事を終え公開しています。


                  復元された旧本多邸は、敷地面積約2,280屐建築床面積約522
                  屬燃梓僂浪虻にフランス瓦を葺き、南側に3連アーチのアーケード・テラス、東側に2階部まで続く半円形のベイ・ウインドウがあります。


                  画像では見えませんが、西側の玄関には車寄せがついて重厚に見えます。


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                  外壁は色モルタルで仕上げていて、アーチや窓枠にはスクラッチタイルで装飾しています。

                  建物内部は日本間と洋間があり、各所にステンドグラスやモザイクタイルの装飾が施されていて、見応えがあります。


                                                             Img_5747


                  中央に廊下があり南側に応接間、居間、食堂があり、北側に台所、女中部屋、便所、納戸、浴室があります。


                  忠次は周到な調査の上、敷地選定や建物の基本設計を自ら行い邸宅建築に当たっています。完成したのは、昭和7(1932)年、忠次36歳の時です。



                  Img_5701


                  ステンドグラスは各所に嵌入されているのですが、玄関口から入ってすぐの廊下から見えるのが蓮花が浮かぶ池で遊ぶオシドリとハクチョウを描いたグラスです。鳥類はいずれも番いでデザインしています。


                  団欒室の窓に取り付けられています。
                   


                                                          Img_5749


                  食堂の廊下側窓に取り付けられたステンドグラスの図案は、オリンピック聖火リレーで用いられるトーチをデザインしています。


                  これまでに、昭和15(1940)年に東京で開催される予定だった第12回オリンピック大会について旧志賀高原ホテル(長野県山ノ内町、2013年11月27日付け)と三田商店(石川県金沢市、2014年2月1日付け)の掲載記事で取り上げました。



                  Img_5761                (食堂欄間に取り付けられたオナガとバラを描いたステンドグラス)

                  この旧本多邸のトーチをデザイン化したステンドグラスも、昭和7(1932)年に取り付けられていますので、この幻のオリンピックに終わった時代背景と深く関わっていると推測できます。



                  Img_5694

                                  

                  忠次の先祖は徳川四天王の一人といわれた功臣の本多忠勝(1548−1610年)で、酒井忠次、榊原康政、井伊直政とともに徳川家康に仕え、その勇壮ぶりは「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(かしら)に本多平八」と適方からも讃えられたといいます。


                  「唐の頭」は家康が趣味で集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜を指します。



                  Img_5699


                  忠勝は生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだそうですが、いずれの戦いでもかすり傷一つ負わなかったと伝えられる武将です。


                  槍の名手で、その並はずれた武勇を織田信長は「花実兼備の勇士」、豊臣秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」と称賛したといわれます。



                  Img_5762


                  忠勝は上総(現 千葉県)大多喜10万石の譜代大名として取り立てられて以降、本多家はその後、伊勢桑名、播磨姫路藩など転封を重ね明和6(1769)年に三河岡崎藩5万石に落ち着き、以後明治維新までの約100年間岡崎藩を治めました。



                  Img_5722

                   

                  最後の岡崎藩主となった16代忠直は明治2(1869)年、版籍奉還で岡崎藩知事となりましたが、同4年の廃藩置県で岡崎県ができると藩知事の任を解かれ、江戸下屋敷のあった東京・本郷区森川町に住まいを移します。


                  17代を継承した忠敬は所有していた旧岡崎城一円の土地を岡崎市に寄付し、二人の子息のうち忠次の兄・忠昭が18代目の家督を継いでいます。



                             Img_5713

                   

                  湯殿の窓にブドウの実と葉を描いたステンドグラスがあります。


                  忠次は植物採集や登山を趣味としていたそうです。


                  旧本多邸のステンドグラスはこうした忠次の耆好を表すように、植物、動物、自然を採り入れているのが特徴ともいえます。

                                                             


                  Img_5719

                   

                  湯殿はステンドグラスも見応えがあるのですが、タイル装飾もみごとです。相互に全体を引き立て合っているともいえます。


                  浴槽は抗火石にモルタルでモザイクタイルを貼っています。陶器製の山羊の口から出た湯水は一度下の平らな部分で受け、段差で下の浴槽へ貯水して行くようになっています。


                  左の小さな水槽(4枚上の画像参照)にも新しい湯水を貯め、上がり湯などに使用しました。



                                                             Img_5715


                  浴室の上げ下げ窓にもステンドグラスがあります。


                  水中を泳ぐ魚が図案化されていて、忠次は「竜宮」と呼んでいたそうです。



                           Img_5723


                  様々な色合いの魚や海藻類が自然光に輝く窓を見ながら浴槽にゆったり浸かっていると、確かに竜宮近くの海底が連想されてくるようです。



                                                             Img_5727


                  これに合わせるように浴室のモザイクタイルも工夫されています。


                   

                                                             Img_5728


                  腰壁は肌色の角タイルですが、床は白とピンクのタイルが市松模様に貼られています。



                  Img_5729


                  浴槽のエプロンはモザイクタイルでリボン模様をデザイしています。



                  Img_5730


                  2階に忠次の書斎がありますが、その隣室にお茶室があります。お茶室全体がアール・デコ風にまとめられているモダンな部屋です。


                  壁の出済み部分に取り付けた照明器具のデザインもアール・デコ調になっています。



                                                             Img_5740

                   

                  照明具底面、側面に色ガラスが入っていて、底面には同心円状に、側面には縦に桟が組まれています。


                  忠次は色グラスが入った照明器具がお気に入りで、書斎での仕事の合間にこのお茶室でよく寛いだといいます。



                  Img_5737_2


                  東京・野沢にあった本多忠次邸は 戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収されます。



                        Img_5708                        (接収された東京・野沢時代の本多邸)


                  戦時中も疎開することなく守り続けた自宅を、一時的とはいえ強制的に取り上げられるのですから忠次にとっては不本意で断腸の思いであったはずです。



                  Img_5756                    (階段室に設置されているステンドグラス)


                  忠次は建物に手を入れることは極力避けてもらいたい旨の手紙をGHQに提出し、自邸の保護を求めたという逸話があります。


                   

                  Img_5742


                  それが功を奏したかどうかは分かりませんが、本多邸に居住したのはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサー(1880−1964年)の顧問弁護士カーペンター夫妻で、大きな改造は行わなかったといいます。


                  接収住居の多くが改造されたなかでこのような事例は稀であったと見られています。

                   


                  Img_5759

                      

                  本多忠次邸は玄関や湯殿、浴室、便所などの水周りの床にモザイクタイルが貼られています。


                  タイルの色は部屋によって異なり、それぞれの模様も違っています。



                                                         Img_5717

                   

                  玄関にモザイクタイル貼りの壁泉 があります。半円形の人造石研ぎ出し仕上げの手洗い器が付いています。


                  手洗い器の上に半円状の壁面が奥まり上がドーム状になっています。この壁面水色のモザイクタイルが貼られています。

                   

                                                               Img_5765


                  中央部にライオンの顔をした陶器製の吐水口があり、手洗い器の右下の壁にある水洗レバーを回すと口から水が出るようになっています。



                  2015.02.05 Thursday

                  ステンドグラスを見に行く  法廷での審理で公平を貫く姿勢を表現した裁判所内のグラス(愛知県名古屋市)

                  0

                    以前、「レンガ積み職人が遺した建造物」で旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎(現 名古屋市市政資料館)を取り上げましたが、今回はこの中にあるステンドグラスを紹介します。

                    旧庁舎はレンガ、鉄筋コンクリート造でネオ・バロック様式の3階建て洋風建築物です。


                    Dsc_0584


                    旧帝国憲法下の時代、全国8カ所に現在の高等裁判所にあたる控訴院のなかで、現在も当時の建物が残っているのは札幌と名古屋だけです。

                    旧名古屋控訴院の建物は、1階は模造花崗岩とレンガを交互に積み重ね、2階以上は白い柱とその間の赤レンガの壁でみごとに調和しています。


                               Dsc_0611                   
                    正面入口の階段室正面のステンドグラスは、公正な裁判を意味する天秤(てんびん)の絵が描かれています。


                    人が人を裁くという厳粛な行為が行われる神聖な場所ということを表すものです。



                               Dsc_0616                                      

                    この天秤のデザインに符合するかのように、公正な裁判を意味する神鏡と神剣を組み合わせた装飾が正面玄関の車寄せの上部にあります。


                    中央階段室のステンドグラスは創建時のもので、この中央階段室でNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』のロケが2回行われています。


                    首相官邸に見立てて加藤 剛さんが演じる内閣総理大臣伊藤博文が官邸階段を上るシーンです。



                              Dsc_0603

                              

                    天秤を描いた大階段室の天井部に、日輪をデザインした別のステンドグラスがあります。


                    円弧を描いた天井部の弧に合わせ、ステンドグラスもしなやかな丸みを持っています。


                             

                    Dsc_0606


                    旧名古屋控訴院庁舎の敷地内に、昭和3(1928)年施行の陪審法に伴い陪審法廷が増築されました。


                    裁判所が移転した際に増築部分はすべて取り壊されて当時の陪審法廷は今はありません。



                    Dsc_0646


                    現在、旧控訴院の建物内では明治憲法下の法廷、現行憲法下の法廷、陪審法廷が再現し常設展示しています。

                    その陪審法廷の天井部にステンドグラスがあります。


                    幾何学模様の同じデザインのものが4枚嵌入されています。


                     

                            Dsc_0641                 

                    旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎のステンドグラス、ガラス工事を請け負ったのが高島屋呉服店装飾部大阪店であったことが遺されていた請求書から分かりました。


                    取り付け工事も含めてステンドグラスに関わった人数は125人だったことも備考欄に記されていたそうです。



                    Dsc_0645


                    ステンドグラス研究家の田辺千代さんは「その制作には関西ステインド硝子製作所だけでなく、梅澤鐡雄の梅澤スティンド硝子製作所も関わったのではないかと充分考えられる」(『日本のステンドグラス 宇野澤辰雄の世界』)としています。



                    2015.02.04 Wednesday

                    ステンドグラスを見に行く  昭和初期に建てられた浄水場ポンプ室を飾ったグラス(愛知県岡崎市)

                    0

                      岡崎市水道局の六供(ろっく)浄水場にあるポンプ室を訪ねました。大掛かりな改修工事の最中です。

                      交通規制も掛かっていて、大回りしなければ六供浄水場へ近づけません。通行許可車両に見えたのでしょうか、工事車両のため開かれていたゲートを通り浄水場へ入ることが出来ました。


                      Img_5770


                      後で聞いた話では浄水場は例年6月の水道週間にのみ、一般公開しているそうです。

                      そんな事前の情報もなく、訪れてしまいました。

                      受付け棟があるのですが、施錠されていて誰もいません。お目当てのポンプ室のステンドグラスも建物内部から見ることができません。



                      Img_5777


                      昭和8(1933)年に建造された六供浄水場ポンプ室です。

                      ポンプ室の外壁は薄茶色の縦長タイルを貼り、コーナーや軒先はすべて丸みが付いていて、要所にテラコッタの装飾があります。



                      Img_5772


                      入り口両側の縦長窓に小さいながらステンドグラスがあるなど、こだわりの設計です。中に入れなかったので、外側から撮った画像です。


                      ステンドグラスは両側に水玉紋様を大きく入れ、穂の長い植物を縦に4段、2列デザインしています。



                                Img_5774


                      岡崎市水道局のデータでは、鉄筋コンクリート造平屋建て、地下1階で、設計は岡崎市臨時上水道部となっていて、ステンドグラスは伊藤正次、田中昌司となっています。



                                Img_5775

                       

                      ポンプ室の隣りに配水塔があります。ポンプ室の翌年の昭和9(1934)年に建造されています。今も現役で活躍している配水塔です。


                      浄水場は六供の小高い丘の上にあり、さらに配水塔の高さが17.2mあるので見る位置によっては結構大きく飛び込んできます。


                      建造されてしばらくは高い建物もなかったでしょうから、岡崎の街のランドマークとしてあちらこちらから見えたことでしょう。



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                      入口上部に、当時の内務大臣・山本達雄が揮毫した「汪水沾洽(おうすいてんこう)」の銘板があります。豊かな水がゆき渡るという意味があるそうです。

                      正面に高く伸びて上部がアーチ形になった階段室があり、円形の最上部には縦長窓が取り巻くユニークな形をしています。

                      2015.02.03 Tuesday

                      ステンドグラスを見に行く  名古屋近代化の時代、様々な人々が去来した地域に遺る教会のグラス(愛知県名古屋市)

                      0

                        東区主税町3丁目にあるカトリック主税町教会は、礼拝堂正面ポーチが3連アーチが優しい弧を描き、礼拝堂の隣に復元された鐘楼にある鐘は1890年にフランスのマルセイユで造られたものになるそうです。


                        Dsc_0562


                        礼拝堂は木造平屋建て、桟瓦葺き、白漆喰で仕上げられています。


                        礼拝堂裏手に見えるケヤキの大木は都市景観保存樹に指定されています。



                        Dsc_0563


                        ここに3種類のステンドグラスがあります。

                        いずれも十字架をデザインしたものです。


                        Dsc_0569


                        天井部のバラ窓にある十字架はデザインも色遣いも現代的なものですが、1階の入り口や玄関にあるものは落ち着いた色を基調に仕上げています。


                        Dsc_0565

                         

                        昭和34(1959)年の伊勢湾台風後、入り口と外陣両側が増築したため、側廊ができ三廊式となったといいます。



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                        名古屋城から徳川園にいたるエリアは、江戸から明治、大正へと続く名古屋近代化の歩みを伝えるさまざまな建造物が遺されています。


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                        このエリアを「文化のみち」として建築遺産の保存・活用を進めています。

                        カトリック主税町教会は、町並み保存地区内にあります。


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                        町並み保存地区は、木造の古い建物が数多く遺る白壁、主税、撞木町のエリアで戦災による焼失から免れました。

                        この一帯は近代産業の担い手となる起業家、宗教家、ジャーナリストなど様々な人々が去来し、交流する舞台となった地域です。


                         

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