2015.01.08 Thursday

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    2015.02.22 Sunday

    レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  広い敷地を取り囲む柿渋黒板とレンガの塀(千葉県野田市)

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      キッコーマン本社北の通りを左に折れて浪漫通りを進むと黒板塀が美しいキッコーマン稲荷蔵があります。

      画像の右側に
      黒板塀が見えますが、栗の木材に柿の渋を塗ったものだそうです。


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      茂木七左衛門の仕込蔵として明治41(1908)年に建てられたもので、現在は倉庫として使用されているということです。


      このキッ コーマン稲荷蔵の先にレンガ塀が続きます。塀内は茂木本家・茂木七左衛門邸で立川流宮大工の流れを汲む佐藤良吉が設計し大正15年に建築されたそうです。


      レンガ塀は明治末期に造られたと言います。



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      2,400坪あるという広い敷地をぐるっと回ると幾つもの蔵が見えます。黒漆喰で塗った立派な蔵もあります。


      野田と言えば醤油、醤油と言えばキッコーマン、キッコーマンと言えば茂木家で、その茂木家の始祖は、明和年間に味噌醸造から転じて醤油醸造を始めた茂木七左衛門になります。


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      野田の醤油醸造の歴史は前回も記したように、寛文元(1661)年に上花輪村の名主だった高梨兵左衛門が醸造を始めたのが始まりです。

      茂木七左衛門が醤油醸造に参入したのは
      高梨家より遅れること100年余りですが、茂木家は親戚筋も醸造技術を実に着け醤油醸造家として産地としての野田を形成して行きます。


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      19世紀中期
      高梨家、茂木家の醤油が幕府御用醤油となり、昭和14(1939)年から宮内庁へ納め続けられている御用達品になっています。

      大正6(1917)年に同じ千葉県下の産地・銚子の醸造家との競争が激化し、野田での無用な争いを避けるため高梨家・茂木家などの8家合同で野田醤油株式会社を設立し、まもなく現在のキッコーマン醤油株式会社へと発展して行きます。


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      茂木家の旧敷地はキッコーマンの工場や美術館などに、高梨家のそれは上花輪歴史館として博物館展示と庭園が保存公開されています。
          


      2015.02.21 Saturday

      レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  時間を掛けてもろみの熟成を行うキッコーマンのレンガ倉庫(千葉県野田市) 

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        千葉県の北部に野田市があります。利根川、江戸川、利根運河が周りを囲んでいます。


        野田といえば同県の銚子市と並んで醤油の町として発展して来ました。


        野田市上花輪にキッコーマンレンガ蔵、正式にはキッコーマン野田工場製造第3部レンガ蔵というのがあります。


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        昭和7(1932)年に造られたもろみ熟成のためのレンガ蔵で、レンガの特長から熟成温度や湿度調整に好適と言います。 


        蔵の中には高さが5m程の大きな杉桶が並んでいて、その中でもろみが1年間熟成させる昔ながらの「杉桶仕込み」の醤油を製造しているそうです。


        以前は内部が見学できたそうですが、現在はできません。敷地内の立ち入りもできません。



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        キッコーマンといえば、醤油の国内生産量でトップに君臨する大手メーカーですが、それまで競争関係にあった野田の醤油醸造家が大正6(1917)年に大同合併してできた会社です。


        それまでの野田には、寛文元(1661)年に醤油醸造を始めた高梨兵左衛門の流れと明和3(1766)年に味噌醸造から醤油の醸造へ転じた茂木七左衛門の流れがありました。


        それぞれの本家から分家、あるいは暖簾分けの形で醤油醸造家が増えました。文政7(1824)年には19軒にも及んだと言います。



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        野田が醤油の一大生産地として発達したのは、大豆、小麦、塩などの原料が近隣から入手できたことに加え、近くを流れる江戸川の水質の良さが醤油造りに適していたからとされます。


        そして何よりも、江戸という大消費地を背後に控えていたことが挙げられます。昔の運送は主に江戸川や利根川を舟で運ぶ水運でした。朝、野田を発って江戸川を下ると昼には日本橋に着いたそうです。


        文政12(1829)年に高梨家、天保9年(1838)年に茂木家が、幕府御用醤油の指定を受け、野田の醤油の発展に深く係わりを持って行きます。



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        明治20(1887)になって高梨家、茂木家が中心になって野田醤油醸造組合を結成し、価格協定、出荷の統制、賃金協定を結んで共同利益を図ります。


        しかし、大正期になって醤油価格が低迷し、供給過剰によってヒゲタやヤマサなど銚子の醸造家との競争も激化しますが、野田での無用な争いを避けるため組合内が高梨家、茂木家の同族で占められていたこともあり、大正6(1917)年に8家の大同合併へと進みます。



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        これにより新たに野田醤油株式会社が誕生し、昭和2( )年に200種以上あった商標を茂木佐平治家が使っていた「亀甲萬」に統一します。


        これが後にキッコーマン醤油株式会社に、さらに昭和55( )年にキッコーマン株式会社に社名変更しています。


        この大同合併の際に組合に加入していた山下家は合併に参加せず、独自の道を選びます。これが現在のキノエネ醤油となります。



        2015.02.20 Friday

        レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  長い変遷を経て美術館となった旧銀行建物(佐倉市)

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          以前、川崎銀行佐原支店(佐原三菱館)について書きましたが、今回は川崎銀行佐倉支店として大正7(1918)年に佐倉市新町に建設されたレンガ造建物についてです。

          地下2階・地上4階建てで、現在、佐倉市美術館になっています。


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          設計は妻木頼黄(つまき よりなか、1859−1916年)に師事した矢部又吉(1888−1941年)で、矢部は佐倉支店と同じ年に建設した同行佐原支店や昭和2(1927)年に竣工した同千葉支店(千葉美術館「さや堂」)も手掛けています。



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          昭和12(1937)年になって川崎銀行は第百銀行と改称されていましたが、当時の佐倉町へ売却され佐倉町役場となります。


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          昭和29(1954)年市政施行により佐倉市役所となりますが、同46(1971)年に市役所が現在地へ新築移転したことにより中央公民館となり、その後も改築工事を経て佐倉新町資料館となりましたが、平成6(1994)年から市立美術館となりました。

          この時、改修工事により、建築当時の吹き抜けを再現しています。


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          外観は佐原支店とほぼ同じようなバロック風の装飾を伴ったルネッサンス様式ですが、内部は竣工から90年を経てさまざまに使途を替え改装が繰り返されてきましたので、往時の面影はまったく姿を変えています。                   

           

          2015.02.19 Thursday

          レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  他に類例のない4連アーチのレンガ造水閘(松戸市)

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            坂川治水事業の歴史は古く、享保8(1723)年の河道の一部改修から始まります。

            数回の河道延長工事を行い自然流下が可能となったのは、天保7(1836)年に最下流の現在の場所に旧式樋門が造られてからのことです。

            これにより坂川流域の水害は著しく軽減されるようになります。


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            その後、明治37(1904)年に坂川普通水利組合がレンガ造樋門として造り替え、現在のような形になりました。

            河川横断方向に17m、縦断方向は13mあり、アーチ部は野積みのレンガ造と切り石積みからなっています。


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            樋門つまり水閘は江戸時代から明治時代にかけて木造や石造が主流で、レンガ造は明治中期から加わりその後鉄筋コンクリート構造が主流になります。


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            レンガ造の樋門は明治中期から大正中期までの約30年程度と短いものでした。

            柳原水閘のような4連アーチの大規模なものは現存する樋門でも類例のないものと言えます。

             


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            また柳原水閘は明治期のレンガ築造技術を伝える史料であり、治水事業の歴史を伝える施設といえます。



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            この水閘の設計者は井上二郎(1873−1941年)で、明治40(1907)年に鬼怒川水力電気事業や京浜運河工事の設計を手掛けています。


            また、手賀沼開墾の先導者としても知られます。



            2015.02.18 Wednesday

            レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  工兵の教育研修をした全国で唯一の学校があった正門(松戸市)

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              松戸中央公園にレンガ造の正門門柱があります。

              このレンガ造正門は大正8(1918)年に創設された旧陸軍工兵学校の正門門柱として造られたものです。



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              すでに陸軍には歩兵、騎兵、砲兵などの兵科学校はありましたが、第一次大戦を目の当たりにしてそれまでの「砲兵の陣地進入を援助する」という考えを変え、近代戦に対応できる知識、技能を採り入れることにします。


              旧陸軍は工兵のより高度な技術研修のため、相模台にあった松戸競馬場を接収し船橋・中山に移転させ工兵学校を開校しました。



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              工兵学校の学生は全国の部隊から選考され、下士官候補生1年、甲種学生半年といった教育を受けて原隊に復帰、その後は工兵としての任に従事しました。


              工兵学校は終戦の昭和20(1945)年8月まで続きました。


              正門は門柱頂部の門灯と門扉がなくなっていますが、現存する門柱4基と歩哨哨戒舎が往時の様子を僅かに偲ばせてくれます。



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              門柱にかつて門標を嵌め込んでいた跡が残っています。


              「陸軍工兵学校」の文字が射込まれた青銅製の門標は現在、松戸市立博物館に所蔵されて見ることができます。



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              警備のための歩哨哨戒舎は、当初は木造でしたが昭和初期にコンクリート造になっています。



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              旧陸軍工兵学校跡地は現在、松戸中央公園(市民プール)、聖徳大学、松戸市立第一中学校、公務員宿舎などになっています。


               
              2015.02.16 Monday

              レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  利根川が潤した大地からの恵みを生かして続けてきた酒蔵の煙突(香取市)

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                雄大な流れを見せる利根川、そして利根川が潤した北総大地。

                その中心地、水郷佐原は一大穀倉地帯として米作や穀類を生産し、それらを原料に味噌、醤油、日本酒を加工する醸造業も発達しました。


                Dsc_0459   (市内を流れる小野川が水路となり、舟運が発達し岸の両側には商家が建ち並び活気のある街が形成されて行きました)


                佐 原はまた、江戸との物流の中継地としても栄え幕府直轄地となり、1855年に記された『利根川図志』に「佐原は下利根附第一繁昌の地なり、村の中程に川有 りて、新宿 本宿の間に橋を架す、米穀諸荷物の揚さげ、旅人の船、川口より此所まで、先をあらそい、両岸の狭きをうらみ、誠に水陸往来の群集、昼夜止む時なし」と、その賑わいを書いています。


                Dsc_0456   (正面の建物は2度建て替えられ新しくなっていますが、基本的な店構えは踏襲されかつての面影を残しているといいます)

                                    

                蔵造りなど重要伝統的建造物群が建ち並ぶ香取市佐原イの通りに赤レンガの煙突が見えます。

                ところどころで建物に遮られて見えなくなりますが、見当を付けて辿ると馬場本店酒造の酒蔵に着きます。

                同社は江戸前期に初代善兵衛が大和国(奈良県)の馬場村から出て、佐原で麹屋を開いたのが始まりで、5代目となった天保13(1842)年に酒造りを始めたといいます。


                                                                               Dsc_0440                                            
                当時、原料の米が豊富で良質の水が得られたことから、佐原の街に30軒に及ぶ酒蔵が軒を並べていたといいます。


                良質の水というのは、酒の味に影響を与えない鉄分の少ない地下水のことで佐原の街では浅く掘っても水は湧き出たそうです。

                江戸後期に味醂、明治になって醤油の醸造も初め醸造の技に幅を持たせたといいます。



                          Dsc_0450


                現在は旧来の伝統だった出稼ぎ当時による酒造りをやめ、自社杜氏と職人による伝統的な製法にこだわり納得できる酒造り、味醂造りを行っているということです。

                科学的なデータも駆使しながら「雑味のないきれいな味」を目指して手間暇かけての酒造りに切り替えたそうです。
                 

                          Dsc_0452


                例えば麹の段階では「大吟醸の場合は発酵が進み過ぎないように、夜中も3時間おきに手入れをする」といいます。

                また醪(もろみ)の段階では、温度やアルコール度数、酸度などを毎日計測し、水を加えたり櫂(かい=木製の棒)でかき混ぜたりして微調整するといいます。

                そして、味の感覚が研ぎ澄まされている朝に毎日味見をして、搾り時と判断すれば成分が変わらないうちに一気に作業に入るといいます。


                 

                          Dsc_0454


                 

                高く聳えるレンガ造の煙突ですが、かつては今よりもかなり高かったそうです。

                現在は使用していませんが、煙突は機関蔵に繋いで設置されていました。石炭を焚き、蒸気を作っていました。

                          

                Dsc_0443                     (明治時代の馬場本店酒造の店蔵風景)


                機関蔵は慶応2年に建造されました。平成23(2011)年に東日本大震災で被害を受けたことを機に修理していますが、柱や梁などの躯体はそのままです。

                 

                Dsc_0448    (敷地内に昔の酒造りに使っていた道具などが展示されています。上は木樽などに押印する時に使用された焼印)


                機関蔵の他に酒造りのための蔵や米蔵、蔵人たちの休憩所などその多くの骨組みの太い木造建築が残っています。


                 

                2015.02.15 Sunday

                レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  舟運で栄えた街で変遷をたどった銀行(香取市)

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                  大正3(1914)年に現在の佐原イに川崎銀行佐原支店として竣工したレンガ造建物です。

                  川崎銀行は、水戸藩の御用商人だった川崎八右衛門が東京に進出して明治13(1880)年に合資会社「川崎銀行」を設立します。

                   
                           Dsc_0423


                  本店は日本橋に、支店が千葉と水戸に置かれ、佐原は当初は出張所としての開設でした。


                  明治中頃には有力銀行の一つに数えられ業績を伸ばし、同31(1898)年になって、佐原出張所は支店に昇格します。


                  支店昇格してから16年目に、レンガ造建造物ができ上がります。


                  大正3(1914)年の4月に設計図ができ上がり、6月に着工し11月には竣工しています。施工期間が僅か半年です。



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                  旧下総町高岡のレンガ工場で焼かれたレンガを使用したイギリス積みで、その上に表面に化粧レンガタイルを張っています。


                  Dsc_0470   (水郷情緒豊かな市街地を豪華絢爛な山車を練り回す佐原祭りは関東三大祭りの一つとして数えられます。祭りで賑わう町並みに佐原三菱館の建物が見えます)


                  設計は大友 弘(1888−没年不明)で、東京駅を設計した辰野金吾の弟子・田辺淳吉の指導を受けて設計したと見られています。


                  レンガに花崗岩を配した設計は、辰野式といわれるルネサンス様式です。



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                  設計図は、一般、矩計図(かなばかりず)、基礎、平面、詳細図の6枚と彩色図9枚が残っていたそうです。

                  設計図は大正3年4、6、8、10月の日付があったといいます。



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                  大友 弘は大正期から昭和初期にかけて活躍した建築家で、現存する代表作として新津恒吉邸(現 新津記念館、新潟市)、平澤輿之助邸(現 松籟閣、新潟市)、根津嘉一郎別邸(現 起雲閣、熱海市)などがあります。



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                  川崎銀行はその後、川崎第百銀行、第百銀行と改称した後、昭和18(1943)年に三菱銀行と合併します。


                  こうした変遷を辿りながらも営業を続けましたが、平成15(2003)年に佐原での営業を終えています。



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                  建物が竣工してから1世紀を経て老朽化が進む一方、平成23(2011)年の東日本大震災で震度5強の揺れに見舞われ大きなダメージを受け、現在、内部拝観ができません。


                  資料によると木骨組みで、内壁は漆喰仕上げにして防火構造にしているそうです。



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                  屋根小屋組みは木造トラスで、ドームがあり吹き抜けになっています。


                  窓や出入り口は、巻き上げ式の鎧戸鉄製サッシになっているといいます。


                   

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                  この建物は通称・佐原三菱館と呼ばれていますが、県指定有形文化財になっていて登録名は「三菱銀行佐原支店旧本館」です。


                  しかし建設当初は川崎銀行佐原支店として建てられていますので、当ブログではそのように表記します。



                  2015.01.19 Monday

                  レンガ積み職人が遺した建造物〜愛知県編  ものものしくガードされ、難しい説明板付きのランプ小屋(一宮市)

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                    一宮市木曽川町黒田JR東海の木曽川駅があります。東海道本線の駅で隣り駅は、下り方面が岐阜駅、上り方面が尾張一の宮駅になります。


                    Dsc_0323


                    明治19(1886)年に官設鉄道(後の国鉄、JR)が、一ノ宮駅(現在の尾張一宮駅)から延伸した際の終着駅として開業しました。

                    同20(1887)年に木曽川を越える橋梁が完成して、官設鉄道が対岸の加納駅(現在の岐阜駅)まで延伸し、大垣駅方面への既設線と繋がります。それまで大垣との間は人力車で連絡したといいます。



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                    これによって木曽川駅は途中駅となります。翌年に初代の駅舎が完成しますが、2年後の同24(1891)年に発生した濃尾地震で壊滅的な被害を受け駅本屋は全壊してしまいます。



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                    同25(1892)年に2代目の駅舎が完成し、平成20(2008)年に建て替えられるまで使用されました。

                    現在の3代目駅舎は地元に多い織物工場ののこぎり屋根を現代風にアレンジしたデザインの鉄骨造2階建ての橋上駅舎です。

                    駅舎は東西自由通路を兼ねていて駅の営業時間が終わっても徒歩での通行が可能となっています。また東西の出入口にエレベーターとエスカレーターが各1機設置されています。



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                    西口を出てすぐのところに、大正元(1912)年にポイント切替のために使用する油を収納する油庫(ランプ小屋)として建造されたレンガ倉庫があります。

                    平成20(2008)年に新駅舎ができた際に一宮市が譲り受け、当初設置されていた場所から数m移動して保存することになりました。



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                    それにしても、油庫の周囲はスチールのフェンスを巡らし、フェンスを乗り越えないように先端を尖らししっかりとガードしています。

                    確かに歴史的な遺産ですから落書きされたり、いたずらされるのは困るのですが、「ここまでやるか!」といった感さえ受けます。近寄りがたい雰囲気すらあります。



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                    そして、このフェンスのすぐ側に教育委員会が記した大きな説明板があるのですが、この内容がまるで学術的な報告文といっていいくらい難解で硬い文章内容です。

                    だれに読ませようと設置したのでしょうか。


                    2015.01.18 Sunday

                    レンガ積み職人が遺した建造物〜愛知県編  黒漆喰と赤レンガ壁が調和し独特の景観を醸す味醂、清酒の醸造蔵(蟹江町)

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                      蟹江町城4丁目にある甘強(かんきょう)酒造株式会社は、みりん、日本酒、焼酎の製造、販売を行っている酒造メーカーです。

                      創業は文久2(1862)年で、初代山田平八がみりんの醸造元として創業したのが始まりになります。

                      住宅主屋・住宅土蔵は黒漆喰の仕上げになっていて、醸造施設とも合わせて独特の景観を創っています。


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                      明治から昭和初期に建てられた同社の建物が「甘強味淋旧本社事務所・工場・住宅主屋・住宅土蔵」として平成17(2005)年に登録有形文化財に登録されています。


                      このうち工場は土蔵造2階建てで、レンガ壁の部分もあり明かり取りが整然と外壁の高いところ並んでいるのが見えます。


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                      工場は敷地内にコの字型で建っていて北側が明治10(1877)年ころに建てられ古く、明治中期に二度の増改築をおこなった後、明治39(1906)年から大正2(1913)年にかけて南東部分と南側部分の増築を大規模に繰り返し、現在の規模と配置になったそうです。


                      レンガ造の壁は、明治39年の増築時に造られたもので、工場内部の断熱効果を確保するために建てられたといいます。


                      明治から大正期にかけて業績を伸ばし、昭和10(1935)年に商号を山田平左衛門商店から甘強酒造に変更し法人化しています。

                      戦前は国内のみならず、朝鮮、満州まで販路を拡大しましたが戦争突入とともに戦時体制によってみりんの生産が規制され大きな影響を受けたといいます。


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                      戦後は昭和29(1954)年に清酒の醸造を開始、売上の約半分を清酒が占めていた時期もあったそうですが、現在は2割程度だといいます。


                      全国清酒鑑評会での金賞受賞回数も数多くその評価の高いことでも知られます。


                      コマーシャルでも耳にする「カンキョーみりん」ですが、主な出荷先は料理店などで販路の80%以上を占めるそうです。



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                      蟹江川の堤防道路に隣り合わせて建つ旧本社事務所は、南北に細長い台形平面のRC造3階建塔屋付です。


                      甘強酒造は、蟹江川の水運を利用して原材料や製品の運搬を行っていたため、社屋や事務所棟を川側に正面の入口を設け、川からのアクセスが容易になるように配置していました。



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                      堤防際のため西面は2階建外観になりますが、反対側から見ると半地下的にもう1階あります。


                      建物の1階は倉庫、2階には玄関や応接室、事務室、3階には和室と応接室が設けられていて、2階の東側には隣接する主屋の2階に通じる渡廊下が設けられているのが分かります。



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                      窓は縦長の上げ下げ窓、外壁はスクラッチタイル張、頂部はコーニスを廻し、玄関はテラコッタ飾りで縁取っています。


                      2015.01.17 Saturday

                      レンガ積み職人が遺した建造物〜愛知県編  どこから見ても建屋の角が見える六角形の書類倉庫(飛島村)

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                        位置からすると名古屋市に隣接する愛知県西部、伊勢湾最北部飛島村があります。

                        飛島村の面積のほとんどが開墾された土地です。元禄6(1693)年に大宝新田、享和元(1801)年に飛島新田、明治12(1879)年に政成新田が開拓されました。

                        飛島村開拓の歴史の中でも飛島新田は767haと規模が大きく、大変困難を極めたといいます。この新田は、当時、熱田奉行兼船奉行であった津金文左衛門が尾張藩主の命を受けて開墾したものです。


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                        村の北部は干拓によって出来た海抜ゼロメートル地帯で、米、野菜、花卉の栽培が盛んな農村風景が広がっています。

                        南部は埋め立て地で、名古屋港の一角である南部の臨海地域に鉄鋼関連の事業所や発電所、輸出関係の倉庫などが林立する臨海工業地地帯となっています。

                        平均海抜がマイナス1.5mの干拓地で水害を受けやすい場所ともいえます。



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                        飛島村大宝二丁目にレンガ造瓦葺きの蔵があります。大宝(おおだから)六角レンガ蔵と呼ばれ、2階建て構造になっています。


                        どこから見ても建屋の角(壁の接続面)が見える六角柱の形状で、イギリス積みで積み上げられています。

                         

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                        明治41(1908)年に飛島村の大宝家10代当主の大宝 陣が経営する合資会社・大宝農林部の書類倉庫として建てられました。


                        大宝 陣は大地主で貴族院議員も務めています。



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                        また大宝新田は飛島村で最も古く元禄6年に開拓されましたが、地震などで地盤が沈下し干拓を利用しての自然排水ができなくなり、長い間湛水被害に苦しんできました。


                        こうした窮地を救うため、大宝 陣は当時としては最新鋭のドイツ製ポンプ2台を個人資金で購入して明治39(1906)年に大宝排水機場を設置します。
                         

                        このポンプによって、長い間湛水の被害に苦しんだ飛島村の住民の生命と生活が守られ、米の収穫量も増加するという大きな成果をあげました。

                        現存する日本最古の大型渦巻ポンプとして保存されています。

                         


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                        壁の内部は補強鋼材を使わずレンガだけで組み上げ、レンガ壁の上にドームを載せ、その上を日本瓦で屋根を葺いています。


                        屋根瓦は刻印から現在の碧南市付近で製造された三州瓦であることが分かっています。



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                        各辺から対辺に向かって直径40ミリの鋼棒が2本ずつ渡され、ドームが自重で外側に開かないようにされているといいます。


                        1階出入り口の鉄扉は板圧12〜13mmで推定重量は250kgあるといいます。


                        鉄扉の細部に意匠が施され、2階にも同じデザインの扉が設けられています。


                          

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                        平成8(1996)年から3年かけて屋根瓦の葺き替えやレンガ、目地の補修などの修復作業が行なっています。


                        同11(1999)年には蔵への上がり段やフェンスなどの周辺整備がされています。


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