2015.01.08 Thursday

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    2015.03.06 Friday

    ●ステンドグラスを見に行く  地方都市に唯一遺るコンドルが設計した旧諸戸邸のグラス(三重県桑名市)

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      日本が長い鎖国の国是を捨てて開国へ向かって間もない明治10(1877)年、英国ロンドンからお雇い外国人として一人の建築家が来日しました。

      ジョサイア・コンドル(1852−1920年)といい、当時の政府関連の建物の設計を手がけます。


              
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                       (J・コンドルの肖像画)

      また、工部大学校(現 東京大学工学部)の教授として辰野金吾ら、草創期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築き「日本近代建築の父」と呼ばれました。


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      コンドルの手がけた建築作品は約70と数も多かったのですが、ほとんどは東京と神奈川県内に集中していたため震災、空襲、老朽化による取り壊しなどで現存するものは数は限られています。


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      そんな中にあって三重県桑名市桑名にコンドルが設計した「山林王」と呼ばれた桑名の実業家の2代目諸戸清六の邸宅があります。

      明治44(1911)年に着工し、大正2(1913)年に竣工した地方都市に現存する唯一の作品です。


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      揖斐(いび)川、長良川を望む約18,000屬旅大な敷地に、洋館と和館、蔵などと日本庭園があります。

      戦災を受けての修復と若干の改築はしているものの、ほぼ創建時の姿を留めているといいます。


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      コンドルの作品で以前、東京・池ノ端の旧岩崎久彌邸を訪ね遺されているステンドグラスを見ました。

      コンドルは室内装飾としてステンドグラスを積極的に用いました。


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      旧諸戸清六邸にもステンドグラスがあります。

      洋館玄関の4枚の開き戸に透過光を受けて黄金色に輝くグラスが嵌められています。

       
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      戦災による被害が比較的少なかった旧諸戸邸ですが、戦時中、玄関扉と車寄せが被災しています。

      この玄関は、主人と来客だけが使用し、車寄せは洋館正面を強調するために装飾的に付けたものです。

      床に貼られていたタイルは遺りましたが、玄関と車寄せ、扉のステンドグラスは壊れてしまったため、現在あるのは後年コンドルの設計図と古写真によって復元したものになります。



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      洋館の1階は中心にホールを設け、その周りに部屋を配置するという方式が見られますが、このホールは扉を開くと畳廊下が隣りの和館と繋がっています。

      4階建ての塔屋は当初コンドルの設計では3階建てでしたが、揖斐川の風情を眺められるように4階建てに変更されています。


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      コンドルは塔屋の1階部を応接室として設計するのを基本としましたが、旧諸戸も客待ち的な応接室として使用されました。

      窓は塔屋の形に合わせて曲面に仕上げられていますが、当時の日本ではガラスを曲げる技術がなかったため輸入したガラスを嵌めています。


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      コンドルは内部設計で直線の単純さを嫌ったといいます。

      塔屋1階の応接室もそうですが書斎の窓際も屈曲しています。


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      1階ホールから2階へと続く階段手擦り部分などに手の込んだ装飾を板面にさりげなく入れているのもコンドルの設計特長です。


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      桑名市は平成3(1991)年に土地を取得し、諸戸家から建物の寄贈を受け整備をした後、公募で得た「六華苑」という名称を付け平成5(1993)年から公開しています。

       
      2015.03.04 Wednesday

      ●ステンドグラスを見に行く  輝く作品に蘇えさせてもらえないか大垣駅のグラス(岐阜県大垣市)

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        大垣駅はJR東海と樽見鉄道・養老鉄道が共用しているのですが、JRコンコースにステンドグラスがあると聞いていましたので、立ち寄りました。

        大垣駅は昭和60(1985)年に橋上駅化したことにより、それまで北改札口と南改札口とを結んでいた跨線橋が、北口と駅本屋とを結ぶ自由通路となります。


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        駅前南側のロータリーも作り直され、それまでの北口改札の建物は店舗が数回入居するものの、やがて倉庫となってしまいます。


        ステンドグラス設置してある位置はすぐに分かったのですが、肝心のステンドグラスが輝いていません。



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        後方の自然光の取り入れ方が良くないのです。

        取り入れ口を半円形にしていますが、もっと下まで採光口を広げなければ、ステンドグラスがステンドグラスでなくなってしまいます。



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        昭和60(年に制作された「語らい」と題する作品だそうです。


        若い二人の女性が向かいあって腰かけ、談笑している姿を銅板鍛造と色ガラスの組み合わせで制作しています。


        横2.5m、縦1.9mあるそうです。フレーム部はアルミ鋳造です。

            


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        アップすると分かるように、下半部の色ガラスがまったく鮮やかさを失っています。


        なんとかこの作品を蘇らせることはできませんか、JRさん。


        2015.03.02 Monday

        ステンドグラスを見に行く  海運王が岐阜の本邸隣に建てた洋館を飾ったグラス(岐阜県岐阜市)  

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          かつて「海なし県」の岐阜県出身者で、「海運王」と呼ばれ海運業で巨万の富を手に入れた立志伝中の人物がいました。

          その人は日下部久太郎(1871−1953年)といい、第一次世界大戦の日本海運業界が黄金時代を迎えた時流に乗って大正6(1917)年に日下部汽船を設立します。


                      Img_6232                (日下部久太郎が岐阜市内に建てた洋館は、現在、石原美術として使用されています)


          岐阜市米屋町に本社を、営業の拠点を神戸と函館支店に置き事業展開を図ります。


          日下部は翌年、米屋町にひと際目を引くレンガ造り地下1階、地上3階建て、屋根裏部屋付きの洋館を建てます。

          玄関は石段と縦溝を入れた大理石の柱を両側に建て、渦巻き型イオニア式の柱頭を載せ、マンサード(腰折)屋根、外壁は落ち着いた色調の焼き過ぎレンガと花崗岩を使用し、多くの窓にステンドグラスを嵌めています。



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          館内には玄関ホールの2カ所のステンドグラスの外に、菊や藤、ツバメやフクロウなど多数のステンドグラスが現存しています。

          戦前の木造の町屋が残る米屋町の町並に、建設された大正期当時のまま現存するレンガ造の洋館建築です。



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          ある歴史建築の専門家は和館の本邸について「この家は何より材がいい。これほどいい家はそうない。岐阜の町並み保存の核として考えるべき」と絶賛したといいます。


          博物館明治村の前館長で、日本の建築史家の村松貞次郎(1924-1997年)も、この洋館については折り紙を付けていたといいます。


                    Img_6235                      (1階南側は竹とヤブコウジをデザインしたステンドグラス)

          しかしながら、この洋館についてはいろいろと不明なことが多いのも事実です。設計は武田五一(1872−1938年)が関与しているのではないかとも言われていますが、不明です。外国人説も含め諸説あります。


          建設年も、大正3、6、7年などこれもはっきりしないところがあります。

          レンガはデンマーク、石材はイタリア、タイルは中国から調達し、ステンドグラスも日本画をもとにイタリアで制作したという話も伝わりますが日本のステンドグラス史研究者の田辺千代さんは別の見解です。


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          著書『日本のステンドグラス 宇野澤辰雄の世界』のなかで、「大正4年は、木内真太郎率いる宇野澤組大阪出張所が開設された年である。木内真太郎個人では なく、宇野澤組大阪出張所としての仕事だったのではないだろうか。デザインにかかわった人物として、宇野澤組大阪出張所設立に参画した鶴丸梅太郎が見え隠 れする」と書いています。



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          岐阜市に本邸と洋館を建てた同じ年、日下部は函館市末広町に邸宅を建てます。同市は伝統的建造物に指定、函館の名邸になっています。材と大工は船で木曽と岐阜から運ばれたといいます。

          また、大正8(1919)年に神戸市の舞子に邸宅を建てていますが、岐阜と同じく和館と洋館があります。


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          日下部久太郎は明治4(1871)年、現在の羽島市で庄屋の二男として生まれています。同21(1888)年北海道に渡り、同26(1893)年に函館で米穀・肥料・海陸物産商を開業し、傍ら海運業にも関わりますが米相場の暴落にあい失敗します。


          明治41(1908)年、海運、船舶代弁、船舶売買を業務内容とする日下部汽船合名会社を組織して代表社員となり、同44(1911)年、神戸に支店を設けます。


          大正3(1914)年、第一次世界大戦勃発により船価が日一日毎に暴騰、日下部はこの機を捉え巧みにチャンスをつかみます。


          船舶を購入する一方、数隻の新造船を造り船舶売買と用船により大成功を収めます。



          Img_6241                 ( 渦巻き模様が特徴的な和風デザインのグラス)


          日下部は、当時の海運景気とその経営が見事にはまり、日本を代表する海運王の名をほしいままにします。久太郎43歳の頃です。

          大正6(1917)年には世界進出を考え、日下部株式会社を創立し自ら取締役兼社長となります。株式会社への改組に伴い営業の本拠地を神戸へと移します。


          おもに本州−北海道に配船し、夏季は日魯漁業と提携して船舶を北洋の漁場へ送り込み仲積を行います。

          その4年後、海運業を主業として明確にするために商号を日下部汽船に変更します。同社は第1次大戦後の不況をくぐり抜け、大正10(1921)年には汽船17隻、総トン数3万7770トンを有し、日本の海運界に君臨しました。


          2015.02.22 Sunday

          レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  広い敷地を取り囲む柿渋黒板とレンガの塀(千葉県野田市)

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            キッコーマン本社北の通りを左に折れて浪漫通りを進むと黒板塀が美しいキッコーマン稲荷蔵があります。

            画像の右側に
            黒板塀が見えますが、栗の木材に柿の渋を塗ったものだそうです。


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            茂木七左衛門の仕込蔵として明治41(1908)年に建てられたもので、現在は倉庫として使用されているということです。


            このキッ コーマン稲荷蔵の先にレンガ塀が続きます。塀内は茂木本家・茂木七左衛門邸で立川流宮大工の流れを汲む佐藤良吉が設計し大正15年に建築されたそうです。


            レンガ塀は明治末期に造られたと言います。



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            2,400坪あるという広い敷地をぐるっと回ると幾つもの蔵が見えます。黒漆喰で塗った立派な蔵もあります。


            野田と言えば醤油、醤油と言えばキッコーマン、キッコーマンと言えば茂木家で、その茂木家の始祖は、明和年間に味噌醸造から転じて醤油醸造を始めた茂木七左衛門になります。


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            野田の醤油醸造の歴史は前回も記したように、寛文元(1661)年に上花輪村の名主だった高梨兵左衛門が醸造を始めたのが始まりです。

            茂木七左衛門が醤油醸造に参入したのは
            高梨家より遅れること100年余りですが、茂木家は親戚筋も醸造技術を実に着け醤油醸造家として産地としての野田を形成して行きます。


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            19世紀中期
            高梨家、茂木家の醤油が幕府御用醤油となり、昭和14(1939)年から宮内庁へ納め続けられている御用達品になっています。

            大正6(1917)年に同じ千葉県下の産地・銚子の醸造家との競争が激化し、野田での無用な争いを避けるため高梨家・茂木家などの8家合同で野田醤油株式会社を設立し、まもなく現在のキッコーマン醤油株式会社へと発展して行きます。


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            茂木家の旧敷地はキッコーマンの工場や美術館などに、高梨家のそれは上花輪歴史館として博物館展示と庭園が保存公開されています。
                


            2015.02.21 Saturday

            レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  時間を掛けてもろみの熟成を行うキッコーマンのレンガ倉庫(千葉県野田市) 

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              千葉県の北部に野田市があります。利根川、江戸川、利根運河が周りを囲んでいます。


              野田といえば同県の銚子市と並んで醤油の町として発展して来ました。


              野田市上花輪にキッコーマンレンガ蔵、正式にはキッコーマン野田工場製造第3部レンガ蔵というのがあります。


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              昭和7(1932)年に造られたもろみ熟成のためのレンガ蔵で、レンガの特長から熟成温度や湿度調整に好適と言います。 


              蔵の中には高さが5m程の大きな杉桶が並んでいて、その中でもろみが1年間熟成させる昔ながらの「杉桶仕込み」の醤油を製造しているそうです。


              以前は内部が見学できたそうですが、現在はできません。敷地内の立ち入りもできません。



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              キッコーマンといえば、醤油の国内生産量でトップに君臨する大手メーカーですが、それまで競争関係にあった野田の醤油醸造家が大正6(1917)年に大同合併してできた会社です。


              それまでの野田には、寛文元(1661)年に醤油醸造を始めた高梨兵左衛門の流れと明和3(1766)年に味噌醸造から醤油の醸造へ転じた茂木七左衛門の流れがありました。


              それぞれの本家から分家、あるいは暖簾分けの形で醤油醸造家が増えました。文政7(1824)年には19軒にも及んだと言います。



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              野田が醤油の一大生産地として発達したのは、大豆、小麦、塩などの原料が近隣から入手できたことに加え、近くを流れる江戸川の水質の良さが醤油造りに適していたからとされます。


              そして何よりも、江戸という大消費地を背後に控えていたことが挙げられます。昔の運送は主に江戸川や利根川を舟で運ぶ水運でした。朝、野田を発って江戸川を下ると昼には日本橋に着いたそうです。


              文政12(1829)年に高梨家、天保9年(1838)年に茂木家が、幕府御用醤油の指定を受け、野田の醤油の発展に深く係わりを持って行きます。



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              明治20(1887)になって高梨家、茂木家が中心になって野田醤油醸造組合を結成し、価格協定、出荷の統制、賃金協定を結んで共同利益を図ります。


              しかし、大正期になって醤油価格が低迷し、供給過剰によってヒゲタやヤマサなど銚子の醸造家との競争も激化しますが、野田での無用な争いを避けるため組合内が高梨家、茂木家の同族で占められていたこともあり、大正6(1917)年に8家の大同合併へと進みます。



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              これにより新たに野田醤油株式会社が誕生し、昭和2( )年に200種以上あった商標を茂木佐平治家が使っていた「亀甲萬」に統一します。


              これが後にキッコーマン醤油株式会社に、さらに昭和55( )年にキッコーマン株式会社に社名変更しています。


              この大同合併の際に組合に加入していた山下家は合併に参加せず、独自の道を選びます。これが現在のキノエネ醤油となります。



              2015.02.20 Friday

              レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  長い変遷を経て美術館となった旧銀行建物(佐倉市)

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                以前、川崎銀行佐原支店(佐原三菱館)について書きましたが、今回は川崎銀行佐倉支店として大正7(1918)年に佐倉市新町に建設されたレンガ造建物についてです。

                地下2階・地上4階建てで、現在、佐倉市美術館になっています。


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                設計は妻木頼黄(つまき よりなか、1859−1916年)に師事した矢部又吉(1888−1941年)で、矢部は佐倉支店と同じ年に建設した同行佐原支店や昭和2(1927)年に竣工した同千葉支店(千葉美術館「さや堂」)も手掛けています。



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                昭和12(1937)年になって川崎銀行は第百銀行と改称されていましたが、当時の佐倉町へ売却され佐倉町役場となります。


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                昭和29(1954)年市政施行により佐倉市役所となりますが、同46(1971)年に市役所が現在地へ新築移転したことにより中央公民館となり、その後も改築工事を経て佐倉新町資料館となりましたが、平成6(1994)年から市立美術館となりました。

                この時、改修工事により、建築当時の吹き抜けを再現しています。


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                外観は佐原支店とほぼ同じようなバロック風の装飾を伴ったルネッサンス様式ですが、内部は竣工から90年を経てさまざまに使途を替え改装が繰り返されてきましたので、往時の面影はまったく姿を変えています。                   

                 

                2015.02.19 Thursday

                レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  他に類例のない4連アーチのレンガ造水閘(松戸市)

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                  坂川治水事業の歴史は古く、享保8(1723)年の河道の一部改修から始まります。

                  数回の河道延長工事を行い自然流下が可能となったのは、天保7(1836)年に最下流の現在の場所に旧式樋門が造られてからのことです。

                  これにより坂川流域の水害は著しく軽減されるようになります。


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                  その後、明治37(1904)年に坂川普通水利組合がレンガ造樋門として造り替え、現在のような形になりました。

                  河川横断方向に17m、縦断方向は13mあり、アーチ部は野積みのレンガ造と切り石積みからなっています。


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                  樋門つまり水閘は江戸時代から明治時代にかけて木造や石造が主流で、レンガ造は明治中期から加わりその後鉄筋コンクリート構造が主流になります。


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                  レンガ造の樋門は明治中期から大正中期までの約30年程度と短いものでした。

                  柳原水閘のような4連アーチの大規模なものは現存する樋門でも類例のないものと言えます。

                   


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                  また柳原水閘は明治期のレンガ築造技術を伝える史料であり、治水事業の歴史を伝える施設といえます。



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                  この水閘の設計者は井上二郎(1873−1941年)で、明治40(1907)年に鬼怒川水力電気事業や京浜運河工事の設計を手掛けています。


                  また、手賀沼開墾の先導者としても知られます。



                  2015.02.18 Wednesday

                  レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  工兵の教育研修をした全国で唯一の学校があった正門(松戸市)

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                    松戸中央公園にレンガ造の正門門柱があります。

                    このレンガ造正門は大正8(1918)年に創設された旧陸軍工兵学校の正門門柱として造られたものです。



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                    すでに陸軍には歩兵、騎兵、砲兵などの兵科学校はありましたが、第一次大戦を目の当たりにしてそれまでの「砲兵の陣地進入を援助する」という考えを変え、近代戦に対応できる知識、技能を採り入れることにします。


                    旧陸軍は工兵のより高度な技術研修のため、相模台にあった松戸競馬場を接収し船橋・中山に移転させ工兵学校を開校しました。



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                    工兵学校の学生は全国の部隊から選考され、下士官候補生1年、甲種学生半年といった教育を受けて原隊に復帰、その後は工兵としての任に従事しました。


                    工兵学校は終戦の昭和20(1945)年8月まで続きました。


                    正門は門柱頂部の門灯と門扉がなくなっていますが、現存する門柱4基と歩哨哨戒舎が往時の様子を僅かに偲ばせてくれます。



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                    門柱にかつて門標を嵌め込んでいた跡が残っています。


                    「陸軍工兵学校」の文字が射込まれた青銅製の門標は現在、松戸市立博物館に所蔵されて見ることができます。



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                    警備のための歩哨哨戒舎は、当初は木造でしたが昭和初期にコンクリート造になっています。



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                    旧陸軍工兵学校跡地は現在、松戸中央公園(市民プール)、聖徳大学、松戸市立第一中学校、公務員宿舎などになっています。


                     
                    2015.02.16 Monday

                    レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  利根川が潤した大地からの恵みを生かして続けてきた酒蔵の煙突(香取市)

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                      雄大な流れを見せる利根川、そして利根川が潤した北総大地。

                      その中心地、水郷佐原は一大穀倉地帯として米作や穀類を生産し、それらを原料に味噌、醤油、日本酒を加工する醸造業も発達しました。


                      Dsc_0459   (市内を流れる小野川が水路となり、舟運が発達し岸の両側には商家が建ち並び活気のある街が形成されて行きました)


                      佐 原はまた、江戸との物流の中継地としても栄え幕府直轄地となり、1855年に記された『利根川図志』に「佐原は下利根附第一繁昌の地なり、村の中程に川有 りて、新宿 本宿の間に橋を架す、米穀諸荷物の揚さげ、旅人の船、川口より此所まで、先をあらそい、両岸の狭きをうらみ、誠に水陸往来の群集、昼夜止む時なし」と、その賑わいを書いています。


                      Dsc_0456   (正面の建物は2度建て替えられ新しくなっていますが、基本的な店構えは踏襲されかつての面影を残しているといいます)

                                          

                      蔵造りなど重要伝統的建造物群が建ち並ぶ香取市佐原イの通りに赤レンガの煙突が見えます。

                      ところどころで建物に遮られて見えなくなりますが、見当を付けて辿ると馬場本店酒造の酒蔵に着きます。

                      同社は江戸前期に初代善兵衛が大和国(奈良県)の馬場村から出て、佐原で麹屋を開いたのが始まりで、5代目となった天保13(1842)年に酒造りを始めたといいます。


                                                                                     Dsc_0440                                            
                      当時、原料の米が豊富で良質の水が得られたことから、佐原の街に30軒に及ぶ酒蔵が軒を並べていたといいます。


                      良質の水というのは、酒の味に影響を与えない鉄分の少ない地下水のことで佐原の街では浅く掘っても水は湧き出たそうです。

                      江戸後期に味醂、明治になって醤油の醸造も初め醸造の技に幅を持たせたといいます。



                                Dsc_0450


                      現在は旧来の伝統だった出稼ぎ当時による酒造りをやめ、自社杜氏と職人による伝統的な製法にこだわり納得できる酒造り、味醂造りを行っているということです。

                      科学的なデータも駆使しながら「雑味のないきれいな味」を目指して手間暇かけての酒造りに切り替えたそうです。
                       

                                Dsc_0452


                      例えば麹の段階では「大吟醸の場合は発酵が進み過ぎないように、夜中も3時間おきに手入れをする」といいます。

                      また醪(もろみ)の段階では、温度やアルコール度数、酸度などを毎日計測し、水を加えたり櫂(かい=木製の棒)でかき混ぜたりして微調整するといいます。

                      そして、味の感覚が研ぎ澄まされている朝に毎日味見をして、搾り時と判断すれば成分が変わらないうちに一気に作業に入るといいます。


                       

                                Dsc_0454


                       

                      高く聳えるレンガ造の煙突ですが、かつては今よりもかなり高かったそうです。

                      現在は使用していませんが、煙突は機関蔵に繋いで設置されていました。石炭を焚き、蒸気を作っていました。

                                

                      Dsc_0443                     (明治時代の馬場本店酒造の店蔵風景)


                      機関蔵は慶応2年に建造されました。平成23(2011)年に東日本大震災で被害を受けたことを機に修理していますが、柱や梁などの躯体はそのままです。

                       

                      Dsc_0448    (敷地内に昔の酒造りに使っていた道具などが展示されています。上は木樽などに押印する時に使用された焼印)


                      機関蔵の他に酒造りのための蔵や米蔵、蔵人たちの休憩所などその多くの骨組みの太い木造建築が残っています。


                       

                      2015.02.15 Sunday

                      レンガ積み職人が遺した建造物 〜 千葉県編()  舟運で栄えた街で変遷をたどった銀行(香取市)

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                        大正3(1914)年に現在の佐原イに川崎銀行佐原支店として竣工したレンガ造建物です。

                        川崎銀行は、水戸藩の御用商人だった川崎八右衛門が東京に進出して明治13(1880)年に合資会社「川崎銀行」を設立します。

                         
                                 Dsc_0423


                        本店は日本橋に、支店が千葉と水戸に置かれ、佐原は当初は出張所としての開設でした。


                        明治中頃には有力銀行の一つに数えられ業績を伸ばし、同31(1898)年になって、佐原出張所は支店に昇格します。


                        支店昇格してから16年目に、レンガ造建造物ができ上がります。


                        大正3(1914)年の4月に設計図ができ上がり、6月に着工し11月には竣工しています。施工期間が僅か半年です。



                                     Dsc_0467


                        旧下総町高岡のレンガ工場で焼かれたレンガを使用したイギリス積みで、その上に表面に化粧レンガタイルを張っています。


                        Dsc_0470   (水郷情緒豊かな市街地を豪華絢爛な山車を練り回す佐原祭りは関東三大祭りの一つとして数えられます。祭りで賑わう町並みに佐原三菱館の建物が見えます)


                        設計は大友 弘(1888−没年不明)で、東京駅を設計した辰野金吾の弟子・田辺淳吉の指導を受けて設計したと見られています。


                        レンガに花崗岩を配した設計は、辰野式といわれるルネサンス様式です。



                        Dsc_0433

                                                

                        設計図は、一般、矩計図(かなばかりず)、基礎、平面、詳細図の6枚と彩色図9枚が残っていたそうです。

                        設計図は大正3年4、6、8、10月の日付があったといいます。



                                   Dsc_0426


                        大友 弘は大正期から昭和初期にかけて活躍した建築家で、現存する代表作として新津恒吉邸(現 新津記念館、新潟市)、平澤輿之助邸(現 松籟閣、新潟市)、根津嘉一郎別邸(現 起雲閣、熱海市)などがあります。



                                  Dsc_0434

                         

                        川崎銀行はその後、川崎第百銀行、第百銀行と改称した後、昭和18(1943)年に三菱銀行と合併します。


                        こうした変遷を辿りながらも営業を続けましたが、平成15(2003)年に佐原での営業を終えています。



                        Dsc_0431


                        建物が竣工してから1世紀を経て老朽化が進む一方、平成23(2011)年の東日本大震災で震度5強の揺れに見舞われ大きなダメージを受け、現在、内部拝観ができません。


                        資料によると木骨組みで、内壁は漆喰仕上げにして防火構造にしているそうです。



                        Dsc_0428

                         

                        屋根小屋組みは木造トラスで、ドームがあり吹き抜けになっています。


                        窓や出入り口は、巻き上げ式の鎧戸鉄製サッシになっているといいます。


                         

                        Dsc_0429

                         

                        この建物は通称・佐原三菱館と呼ばれていますが、県指定有形文化財になっていて登録名は「三菱銀行佐原支店旧本館」です。


                        しかし建設当初は川崎銀行佐原支店として建てられていますので、当ブログではそのように表記します。



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